偉人を訪ねて

時代に触れる


蔵や茅葺屋根を求め散策する。この地方に、こんな立派
な資料を保存しているところがあった。たぶん、もっと
素晴らしいところが地方にはあると思う。そんなことを
考えながらぶらり歩くのも面白い。






外尾悦郎

外尾悦郎

外尾悦郎(そとおえつろう)の作品 「老人と子供」 


このモニュメントは昭和61年12月1日 「潤いのある町 づくり」 優良地方公共団体として自治大臣賞を受彰 したことを記念して建てられたものです。
現在スペイン・バルセロナで活躍している石彫家、外尾 悦郎氏の製作によるもので、 松崎町の飛躍、 発展を 願い 「老人と子供」 「知恵と生命」 を主題としています。
           
昭和63年3月「花とロマンの里」 松崎町 説明板より


外尾悦郎

  

外尾悦郎

  

海上胤平

海上胤平


      千世経幣幾家能栄之乎庭廼
    面乃松能一木農緑尓曽し流  胤平

    (千世経べき家の栄えを庭の面の
       松の木の緑にぞしる)

 海上胤平(うながみ たねひら)は、歌人、国学者、明治維新後の和歌運動先駆者、  大正五年(1916)没。松崎の豪商(屋号・塗り屋)の  依田善六は、和歌を胤平に学び「簡重」と号していた。
 歌中「松の一木」は、屋敷に松の大木があったことによる。
 明治二十一年(1888) 依田善六(簡重)建立。   説明板より

海上胤平

  

加賀千代女

加賀千代女

 加賀千代女(かがのちよじょ)

   朝顔に(や)つるべ取られてもらひ水

推敲して「や」から「に」に変えています。 よっぽどきれいに咲いていたのでしょう。 文学は難しいなー?
三田の薬王寺にて  R02.8.18

加賀千代女

  

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)

便々館湖鯉鮒

 新宿区指定史跡
便々館湖鯉鮒 べんべんかんこりふ狂歌碑
       所在地 新宿区西新宿七丁目十二番五号
       指定年月日 昭和六十一年十月三日 
 江戸時代中期の狂歌師に々館湖鯉鮒(1748〜1818)は、本名 を大久保正武といい、牛込山伏町に住んだ。初めは福隣堂巨立と号 したが、のちに使々館湖鯉鮒と改めた。
 この狂歌碑は自然の青石に彼の代表作である、
   三度たく 米さへこはし
    米さへこはし
      やはら
        か
        し

便々館湖鯉鮒

     おもふ
     まま
      には
     ならぬ
      世の中

が刻まれている。
 碑は湖鯉鮒の死の翌年、文政二年(1819)に、狂歌仲間であった 大田南畝おおとなんぼ (蜀山人しょくさんじん) によって 揮毫きごうされた。 なお、湖鯉鮒の墓地は袋町の 光照寺にあり、新宿区登録史跡となっている。

    平成三十年三月
            新宿区教育委員会

「三度たく米さへこはし 柔かし おもふままにはならぬ 世の中」…
今も昔も変わらない世の中をうたっているようです。

横井小楠

横井小楠

 横井小楠よこいしょうなんを めぐる維新群像

横井小楠 いみな時存ときあり 通称平四郎、幕末維新期の大思想家。
横井家は細川藩士家禄150石の家で、小楠は文化 六年(1809)熊本城下の内坪井で生れた。藩校時習館に 学び居寮長に推されて数年、江戸遊学を命ぜられて天下の 俊秀と交わり活眼を開く。帰国後実学を主唱し、中級武士と 惣庄屋層の支持を得る。
 越前候松平春嶽しゅんがく に聘せられて福井藩にその経綸を実現し、 後春嶽の幕府総裁職就任に当ってはその顧問として幕政改革 に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えた。 文久三年帰国を命ぜられ士席を除かれて隠栖すること五年、 明治元年経世の才を買われて新政府の参与に出仕、抱負の 実現を図ったが、翌二年正月京の町で志半ばで凶刃に倒れた。 明治三年熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川 護久もり 大参事同 護美もりよしの下に、 藩士山田・嘉悦。内藤等及び惣庄屋層の 徳富、竹崎・長野等による肥後の維新の到来を見た。

横井小楠

 この群像は横井小楠の生誕190年、没後130年
 (1999年)を記念して翌2000年3月建立された  

ペリー提督

ペリー提督

 ペリー提督来航記念碑
 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、 開港される箱館港を下検分するため、 5隻の艦船を率いて来航した。
滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、 西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの 様子が記録として残っている。
このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として 五稜郭が築造されることになったほか、開港場 として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。       函館市

 黒船来航 150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、 ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に 「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
    2002年(平成14年)5月17日       ペリー提督来航記念碑建立協議会  

ペリー提督

 ペリー提督来航時の足跡

函館における日米会談       函館山からの眺望

        黒船ポーハタン号

姿見坂の一景            称名寺の境内 


土井晩翠

土井晩翠

 土井晩翠どいばんすい 
晩翠は本名を林吉りんきち といい明治四年(一八七一年)仙台市北鍛冶町の質商 土井七郎兵衛の長男として生まれた。 明治十一年、培根小学校(今の木町小学校)に 入り、のち立町小学校に転校、仙台英語 学校、旧制第二高等学校を経て明治三十年 東京帝国大学英文科を卒業、明治三十三年 母校二高の教授として帰仙した。
その間、三十一年に不朽の名作「荒城の月」を 作詩発表、続いて第一詩集「天地有情」を 処女出版した。島崎藤村の「若菜集」に おくれること二年の明治三十二年、晩翠の 二十八才から二十九才にかけての頃であった。 のち六つの詩集や数多くの随筆など 出版した。
昭和二十二年日本芸術院会員、二十四年仙台市 名誉市民に推され翌二十五年、文化勲章を 受賞され昭和二十七年十月十九日、仙台市本 荒町の晩翠草堂で情熱の詩人としての 八十一年の生涯を閉じられた。
 この碑は昭和二十七年、晩翠会等によって  建てられたものです。

土井晩翠

  荒城の月

春高校の花の宴 めぐる盃影さして
  千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいづこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
  植つるつるぎに照りそいし むかしの光いまいづこ
いま荒城の夜半の月 変らぬ光だがためぞ
  垣に残るはたたかづら 松に歌ふはただ嵐
天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿
  写さんとてか今もなほ ああ荒城の夜半の月

太宰 治

太宰 治

 太宰治(1909〜1948) 明治42年6月19日、(本名 津島修治)は、五所川原 市金木町(当時、北津軽郡金木村)に、父 津島源右衛門、母 夕子(たね)の六男として生まれた。
 16歳頃から文筆活動が活発となり、同人誌を発行、作家を 志望するようになり、昭和5年、東京帝国大学仏文学科に入学 小説家になるために井伏鱒二に師事し、「太宰治」を名乗るようになる。
昭和8年から小説の発表を始め、「走れメロス」「斜陽」 「人間失格」などの名作を残し、昭和23年、39歳でこ の世を去る。
 その文学功績を讃え、生誕百年を記念し、2009年6月19日 に銅像が建立されたものである。
銅像建立に御理解戴きました津島園子氏(太宰治長女)、銅像を制 「作していただきました中村晋也氏(彫刻家・芸術院会員・文化勲章受 学者)並びに銅像建立に向けて多大な御尽力を賜りました山田春雄氏 (五所川原市出身 美術史家 五所川原市名誉市民)と御協賛くださ った皆様に深く感謝の意を表します。
2009年11月3日
       太宰治銅像建立実行委員長
       五所川原市長 平山誠敏

太宰文学碑

 太宰文学碑
 当金木町出身の太宰治(明治42-昭和23) は近代日本文学の代表者の一人であり、 今もなお彼の作品は若い人々の心をつかんではなさない。
 この文学碑は、彼の功績をたたえ昭和40年5月3日に建てられたもので、6月19日の 生誕の日には、全国からのファンがここに集まる
スエーデン産の黒石には太宰が生涯愛した ヴェルレーヌ(フランス人)の詩が刻 まれており、また、上部の浮彫りには太宰の作品を象徴とした 不死鳥が刻まれている。

この丘に立つ太宰治碑は彼の文学を讃え、 その名声を後世に伝えるために金木町太宰治 碑建立委員会が昭和40年5月3日に除幕式 を行った。友人の画家阿部合成が設計製作を 担当した。碑文の「撰ばれてあることの恍愡 と不安と二つわれにあり」はフランスの詩人ポ ール・ヴェルレーヌの詩集「叡知」の中の詩 句で詩人堀口大学の翻訳である。太宰が昭和 10年2月に出版した処女作「晩年」の 冒頭を飾った小説「葉」の題名として揚げら れている。
 20世紀の日本を代表する小説家太宰治の 文学精神と全人間像を表現するにふさわしい 言葉として、彼自身のものではないが、建立 委員会がこれを選んだ。
 金木町の嘱に依り不肖の弟子である私がこ こに一文を草した次第である。
  平成13年6月吉日
          小野 正文 識

菅江真澄

菅江真澄

 秋田をこよなく愛した人
     菅江真澄すがえますみ (1754頃〜1829)は、江戸時代後期の傑出した紀行家 です。その足跡は生地三河(現在の愛知県東部)から北は「蝦夷地」(現 在の北海道)にまで及び、しかもその生涯の半ば近くを秋田で過ごしまし た。彼の残した記録は、紀行文や随筆と呼ぶには余りにも多くの魅力に満 ちています。  いまここで真澄をとりあげるのは、それらの記録の中に秋田をはじめ、 私たちが暮らす地域の歴史や文化をより深く知るためのたくさんの手がか りがあるからです。  御来県の皆様、菅江真澄の業績と人物像に触れてみませんか。  真澄に関する資料と情報は秋田県立博物館内「菅江真澄資料センター」 で公開しています。 (説明板より)

中里の浜

  菅江真澄は1810年5月、この中里の浜を訪れている。200年前とはだいぶ違うと思うが、 今は浜からこんな情景である。

金子みすゞ

金子みすゞ

 金子みすゞ 本名テルは明治36年4月11日にここ山口県大津郡仙崎村 (いまの長門市仙崎)に生まれました。やさしい人々と美しい風土に育まれ しあわせな少女期を過ごしたみすゞは20歳の時 下関に出て親戚の上山文英堂書店 の手伝いをしながら 童謡を書き始めました その処女作「お魚」を読んだ西條八十は  この感じはあの英国のクリステイナ・ロッゼッティと同じだ と絶賛 ついには 「若き童謡詩人中の巨星」とまで言われるようになりましたが 昭和5年3月10日  幼い娘と512編の童謡を残してこの世を去りました 26歳の若さでした 
 「大漁」をはじめとするみすゞの童謡は小さなものはもちろん この世にある すべてのものに深いまなざしを注いだやさしさに満ちたものでした やさしさが失われが ちな今日 みすゞは童謡というかたちを通して命の尊さと真のやさしさを私たちに 思い出させてくれています

志賀直哉

おのみち文学の館

 志賀直哉しがなおや (1883−1971)、長編小説「暗夜行路あんやこうろ」は 近代日本文学の代表作の一つに挙げられる。 武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ とともに白樺派の代表である。
 尾道にある天寧寺の多宝塔を訪ねた折、道に迷って「おのみち文学の館」を見つけた。ここに、驚くような碑があった。 旅というのは非常に面白い、大発見である。ここは、志賀直哉の旧宅でもあった。ここで20年もかけた「暗夜行路」の 草案を作ったといわれる。主人公である時任謙作(ときとうけんさく)が借りた下宿を発見したことは偶然にしては 驚きである。 だから旅は面白くてやめられません。 ここは、千光寺への道の中腹にあり日当たりも良く小説を書くにはとってもいいところであった。

暗夜行路の碑

  南側の日当たりの良い場所にたたずむ「暗夜行路」の碑

夏目漱石

夏目漱石

 夏目漱石なつめそうせき(1867〜1916) 小説家、イギリス文学者。帝国大学(現在の東大)英文科卒業後、愛媛県の松山中学校の英語教師として赴任。 その後、熊本での教員を経て、イギリスへ留学し、 帰国後、東大で英文学の講師を務める。”吾輩は猫である”、”坊っちゃん”…を書く。

道後温泉本館坊っちゃんの間

 道後温泉本館の「坊っちゃんの間」である。
  床の間には「則天去私(そくてんきょし)」が掛けられている。漱石の造語で「小さなことにこだわらないで 自然に天命にゆだねて生きる」という意味だそうだ。

汽車

 漱石が、当時(明治28年)、松山中学の数学の教師として赴任した時に乗った汽車の復元モデルである。 小説「坊っちゃん」の中で、当時の様子を「マッチ箱のような汽車」だと表現している。

道後温泉本館

 日本最古の温泉の一つとして知られている道後温泉(当時は住田の温泉と云っていた)。 道後温泉本館を利用した漱石は 小説「坊っちゃん」 の中で”温泉だけは立派なものだ。折角来た者だから毎日這入つてやろうと云う気で、 晩飯前に運動かたがた出掛ける。…湯壺は花崗岩みかげいし を畳み上げて、十五畳敷位の広さに仕切ってある。大抵は十三四人 漬かっているがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動の為に、湯の中を泳ぐのは 中々愉快だ。…”と言っている。今でも、神の湯の壁には「坊っちゃん泳ぐべからず」の札が掛けてある。 私も、この温泉に漬かったが鳩尾ぐらいの深さだったから、坊っちゃんこと漱石の身長は私より10センチぐらい 低いかな…。この温泉は、漱石の友人である正岡子規や高浜虚子たちも来ていたという温泉である。

正岡子規

正岡子規

 正岡子規まさおかしきの 代表作である

 「柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺」

法隆寺を散策した後、茶店で柿を食べていたら鐘楼の鐘が鳴り始めた。 正岡子規のこの句は 芭蕉の「古いけや蛙とびこむ水の音」に匹敵するぐらい、 俳句の代名詞として知られている。 句碑は、法隆寺境内の鏡池の傍にある。

林芙美子

林芙美子

 林芙美子はやしふみこ(1903〜1951) 女流作家  故林 芙美子は、大正45年5月、尾道に両親とともに降り立った。 爾来、小学校(現土堂小学校)・県立高女(現尾道東高等学校)を卒業するなど、 夢多き青春時代をこの地にすごした。 上京後、幾多の辛酸をなめ、詩情豊かな作風をつらぬき、「放浪記」や「うす潮」 「晩菊」「浮雲」など、芸術的香り高い名作を数多く残し、齡48歳を一期に他界した。 けだし、芙美子にとって尾道は、少女期の感じ易き魂に、文学の眼を開かしめた唯一の 揺籃の地であり、かつまた、わすれがたい故郷の街でもあった。(説明板より)
(Map-Code#48 248 293)

小泉八雲

小泉八雲

 怪談「雪女」や「耳なし芳一」でなじみの深い、明治の文豪・小泉八雲。 英語教師として松江に赴任した八雲は、セツ夫人と結婚した後、かねてから の念願であった「武家屋敷」を求めて借りて暮らしました。…部屋をぐるりと 取り囲む庭は、干夫の先代根岸小石の手によるもの自然の山水を絡めた この庭は、八雲の名著「知られざる日本の面影」なかでも、余すことなく、 その魅力が描かれています。…  (説明板より抜粋)  (説明版より)
(Map-Code# 163 531 097)

石川啄木

石川啄木

    

    敵として憎しみ友と 
    やや長く手をば握りき
    わかれといふ

 1907(明治40)年秋「小日報」の創刊に参画した二十九歳の 事務長小林(のち中野)寅吉―会津高田町(現、会津美里町)雀林出身 ―と二十二歳の記者石川啄木との間に社内の内紛から来る対立があり、 退社した啄木が翌年一月九日「釧路新聞」の記者として単身赴任する。 雪の吹き入る停車場に妻子が送る。寅吉も送る。別離の悲しみに 憎悪の消えた”わかれ”の一瞬を巧みにとらえて詠んだ歌。
 のちに啄木は文学へ、寅吉は政治の世界へとすすんでいくことになる。
 三、四句の実感を大切にし、二人を記念する歌として選び、啄木の 自筆集字拡大による碑とした。・・・(説明板より)
(Map-Code# 97 248 002)

石川啄木一族の墓

石川啄木

 石川啄木一族の墓
 明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは 明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は 苜蓿社(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、 離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。 「死ぬときは函館で・・・」と言わせたほど函館の人と風物を こよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔にあわされ27歳の生涯を東京で閉じた。 大正2(1913)年3月隊木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女も また同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。
 大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨みやざきいくうや 、当時の函館図書館長岡田健蔵の手で 現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ 3人の愛児や両親などが、 津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。        函館市
墓碑は啄木がよく散策した大森浜(啄木小公園)を見渡す場所にあり、

    "東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる" 

と歌が刻まれている。

石川啄木


啄木小公園

石川啄木

 大森浜の啄木小公園には、啄木の像があり、台座には

   "潮かおる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇はまなすよ 今年も咲けるや"

の歌が刻まれている。


十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

十返舎一九

 丸子宿の丁字屋にて

    「けんかする 夫婦は口をとがらして 
               鳶とろろにすべりこそすれ」

 弥次さん、喜多さんを主人公にした「東海道膝栗毛」で 江戸後期の人気作家となる。この「東海道膝栗毛」が大当たりし、 以後多くの続編を作り、初めは江戸から箱根までであったが、 京都や、大阪…、中山道まで20年をかけ作り上げ出版した。

若山牧水(わかやまぼくすい)

若山牧水の歌碑


   はつ夏の 山のなかなる ふる寺の 
      古塔のもとに 立てる旅人  

この歌は明治40年6月牧水が21才のとき東京から郷里の 宮崎県に帰省の途中、この山口の五重塔を訪れて詠んだもの である、このとき同時に「山静けし山のなかなるふる寺の古 りし塔みて胸ほのに鳴る」の歌もつくっている。牧水は宮崎の 生まれであるが旅と酒を愛した遍歴の歌人といわれ明治、 大正、昭和三代にわたり活躍し、昭和3年43才で没した。 碑の書は牧水の夫人喜志子氏の筆である。この岩屋の花崗岩は 明治初年皇居造営に際し、その基礎に使用された程の良質の 石材である。
(説明板より) (Map-Code#93 672 361)


五重塔の下

牧水が故郷へ帰る途中で、この 五重塔 の素晴らしさに感激して 歌を詠んでいる。私も、 この塔の素晴らしさを感じるため山口駅を降りた!  

浪漫人夢二(ろまんじんゆめじ)館

坂井銘醸

此処、戸倉上山田温泉には400年前の慶長のころから酒を作って
いる。坂井銘醸は酒造コレクションとして、加舎白雄
(かやしらお)記念館や浪漫人夢二(ろまんじんゆめじ)館、酒蔵、酒
造歴史史料室など見学施設がある。また、アートグラス工房(ステンドグ
ラス)や陶芸、ストーンラビング(拓本作り)、きき酒など伝統の技に触
れることもできる。

宮沢賢治

宮沢賢治

 大正15年(1926)3月、花巻農学校を30歳で退職した賢治は 、宮沢家別宅で独居自炊しながら、羅須地人協会を設立して 理想の実現にいどんだ。ここがゆかりの場所である。
この詩碑は、没後3年目の昭和11年(1936)に教え子たちをはじめ 多くの方々の協力によって建てられた。石巻産稲井石の碑面には 高村光太郎の揮毫(きごう)で「雨ニモマケズ」の後半が刻まれている。 さらに昭和21年(1946)に追刻の4文字を、光太郎が自ら碑面に 書き込み完成した。   (詩碑プレートより)

魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)

魯縞庵義道

  魯縞庵義道(1761〜1834)は、長圓寺11世住職で、漢詩俳句をたしなみ、 歴史や文学にも造脂が深く、桑名藩・長島藩の儒学者たちと交流しています。 また、「東海道名所図会」の編集者秋里籬島(りとう)や大阪の本草学者木村兼葭堂 など全国的に知られた文化人とも知遇を得ます。
義道は、「久波奈名所図会」「桑府名勝志」「縞庵随筆」(いずれも市指定文化財) など多くの著書を著しており、江戸時代の桑名を知るうえで大変貴重な資料と なっています。
 また、義道は、18年の歳月をかけて一枚の紙から多くの鶴を折る連鶴を考案し、 その一部が「千羽鶴形」という書物に残されています。義道は、この連鶴の考案 によって桑名藩主から鶴の家紋許されたといわれ、現在もその紋が本堂に掲げ られています。 (説明板より) (Map-Code#38 803 334)

宮本武蔵(名古屋)

宮本武蔵

 東海道の芭蕉句碑を求めているときに名古屋の笠覆寺で、 二天一流(二刀流)を確立した宮本武蔵の碑を見つける。 尾張名古屋で武蔵が長期にわたって笠覆寺の末寺である東光院に 滞在していた。東光院には武蔵の肖像画や“直筆の書”、木刀などが 残されている。とくに、武蔵直筆の「南無天満大自在天神」を 見学したいものだ…。“南無”の二字は右手で書き、「天満大自在」 は鏡文字で書かれ、最後の二字「天神」は梅の花や枝が 書かれているそうです。この武蔵の書を何時か見学したいと思っている。
また、熊本には 武蔵塚があり武蔵の像や二天一流の形などの碑がある。

徳川夢声(とくがわむせい)

徳川夢声

 津和野を散策していたら、稲荷神社表参道の入り口付近の津和野大橋の たもに徳川夢声の句碑を見つける。夢声が4歳のころまで津和野の実家で 育ったためだろうと思う。
無声映画の活弁家として知られ、吉川英治の宮本武蔵の朗読には独特の 話し方だったそうである。
 句碑は、自然石に彫られている素晴らしいものである。

   ”山茶花の 雨となりたる 別れかな”

徳川夢声

当寺の武家屋敷には、この花が多く植えられていて、夢声の幼少のころを 思い懐かしんで詠んだ句である。
(Map-Code#513 153 480)

波の伊八

波の伊八

 波の奥に見える富士と躍動感あふれる舟の状態図は北斎の代表的な絵である。 しかし、これより二十数年前に「波と宝珠」の欄間の彫刻が「波の伊八」という 異名を持つ日本一の彫刻家によって彫られていた。 北斎の「神奈川沖浪裏図」と伊八の欄間の彫刻を並べてみると、 浪がまさに崩れる、その瞬間を見事に表現している構図は 同じように見える。(行元寺での説明より)

東頭山 行元寺(とうずさん ぎょうがんじ)

行元寺

 山号を東頭山と称し嘉祥2年(849)慈覚大師によって開山した。東国最初であることから 東頭山の名がある。幾度となく戦火に遭遇したが、平重盛や二階堂行元、冷泉家、武田氏などにより 再興した。天正14年(1586)6月、現在に移築して本田忠朝などの信仰を集め、徳川家の庇護 のもとに10万石の処遇を受け、学問寺として末寺100ヵ寺、人材育成と芸術や文化向上に努めて きた。
 この間に多くの学僧など輩出し、亮運(当時厳海)は、天海と共に家康の信頼を集め、上野寛永寺 学頭となって家光の師となったことで特に知られている。開山して1150年、冷泉家や二階堂行元 が再興して700年になる。 (パンフレットより) 
 伊八の「波に宝珠」や「波に鶴」の欄間は百聞は一見の価値はある。 また、吟醸酒「波の伊八」は旨い。

飯縄寺(いづなでら)

飯縄寺

 飯縄寺本堂は内外陣境にある欄間彫刻の銘文で明らかのように、 初代武志伊八郎信由、俗称「波の伊八」の作例をもつ寺院建築として 知られている。現在の本堂は棟札などの資料から寛政9年(1797) の完成と考えられ、彫刻と一体となった優れた建造物と言える。  (説明板より)(Map-Code#287 799 726*25)
 見学時間をとっくに過ぎた17時に到着、牛若丸が大天狗から巻物 を授かる図(高さ1メートル、幅4メートルのケヤキ板の彫刻)の見 学は時間外であった。またの機会とした。

鏡忍寺(きょうにんじ)

鏡忍寺

 文永元年霜月十一日、日蓮大聖人は弟子共に天津(鴨川)の 城主工藤邸に 赴くとき、小松原の中より東条景信の一団数百人が現れ、 八方より襲いかかられた。弟子たちが身を以て大聖人を守ったが、 多勢に無勢であった。その時、側なる大槙の上から鬼子母神が出現し、 危機を救った。
鏡忍寺は、 日蓮をかばって討ち死にした弟子鏡忍坊と工藤吉隆の菩提を 弔うために建てられ、大槙は市の天然記念物に指定されて、 今でも境内に大きく枝を広げている。 (Map-Code#309 403 815*88)

諏訪神社(すわじんじゃ)

諏訪神社

 説明版などによる縁起がないため調査を進める。
 (Map-Code#309 373 395*33)

熊野神社(くまのじんじゃ)

熊野神社

 説明版などによる縁起がないため、南房総市のホームページから 関係がある事項について記す。
治承4年(1180年)の昔、伊豆の石橋山の戦いに敗れて安房に逃れてきた、 源頼朝が源氏再興を夢見て、 安房各地の有名な社(やしろ)にお詣(まい)りしました。 黒岩の熊野神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命 (いざなみのみこと)をお祀りした霊験あらたかな社ということで、 下三原から黒岩に入った頼朝は、熊野神社にもお詣りしたといわれている。   (Map-Code#211 479 125)

大山不動尊(おおやまふどうそん)

大山不動尊

 大山寺は神亀元年(724)に良弁僧正(ろうべん)の開基になると の伝承があるが、確実な創建年代ははっきりとしていない。資料的には、 建武5年(1338)の土地の寄進に関する文書が残っていることから、遅くとも、 14世紀前半頃には、大山寺が存在していたことは確実である。当初は天台宗 に属し、仏と神と自然崇拝結びついた山岳修験の寺として大いに栄えた。 戦国時代には、統治を治めた里見氏・正木氏の庇護を受けた。 明治5年(1872)に真言宗に変わったが、現在でも大山地区の 祭礼では、この大山寺の境内に
各地区の神輿が集合するなど、神仏習合の名残りが認めらる。
 「大山不動尊」千葉県指定有形文化財
 現在の不動堂は、棟札の記載から享和2年(1802)上棟されたことが 確認できる。その翌年、初代伊八(武志伊八郎信由)が正面を飾る彫物 一式制作した。伊八52歳の円熟した彫技が存分に発揮されている。この彫物 を含め、不動堂は県指定有形文化財である。
 「大山寺鐘楼」鴨川指定有形文化財
鐘楼は不動堂よりも建築年代が早く、江戸時代中期(18世紀半ば頃) と推測されている。後世の改修がほとんど施されていないため、その当時の 建築様式をよくとどめている。
 「大山寺石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)」鴨川指定有形文化財
高蔵神社への参道脇の宝篋印塔には、文和2年(1353)の 紀年銘が記されており、在銘の石造り物では市内最古の例として位置づけ られている。
 「大山寺不動堂棟札」鴨川指定有形文化財
現在の不動堂の前の不動堂が、天正14年(1586)に建てられている ことが記録されている貴重な棟札である。
                             (説明板より) (Map−Code#211 806 074*82)

光福寺(こうふくじ)

光福寺

 長栄山光福寺は、元亨3年(1323)、日契によって大野竹野沢という所に 開山され、瑞龍庵と称した。その後、文明2年(1470)、日調に よって現在の地に移転した。
 光福寺は日蓮の高弟六老僧の一人である日郎が広めた比企谷門流の寺院で、室町期に は狩野氏、戦国期には安房里見氏や正木氏、万喜土岐など戦国大名の庇護を得て発展した。
 江戸時代には、寺領35石を有し末寺が17ヵ寺あり、本山である比企谷妙本寺、 池上本門寺からは行川妙泉寺と共に「伊北の両寺」と呼ばれ、中心寺院であった。
 向拝の正面には初代波の伊八作の龍や「鶴」「兎」「鯉」の彫刻が彫られている。
                       (いすみ市発行資料から抜粋)
(Map-Code#130079267)

長福寺(ちょうふくじ)

長福寺

 大同2年(807)伝教大師最澄の開基と伝えられている。寺には源頼朝の 伝承がある。安房に上陸した頼朝が、上総介広常を訪ねる途中、当寺に立ち寄り、 出された硯が見事だったので、「硯山」と山号をつけたといわれている。
 また、その時、北の方で馬のいななきがあり、敵かと、持っていた筆を槙の木 に掛けたことから、その槙は「筆掛けの槙」と呼ばれるようになった。…
 本堂欄間彫刻は寛政元年(1789)に彫られた伊八の作で、他にも薬師如来坐像 (県指定文化財)などがある。
                      (いすみ市発行資料から抜粋)
(Map-Code#287553041)