鎌倉五山(かまくらござん)・京都五山(きょうとござん)
鎌倉時代末期に北条氏は鎌倉に禅宗(臨済宗)の寺格制度(官寺)を設けた。
当時の五山は、ほとんどが鎌倉にあったが、室町時代に京都五山と鎌倉五山の
寺格が確立し、後醍醐天皇の建武の新政により五山を南禅寺と大徳寺とする
京都の寺院で構成するようになった。その後、3代将軍の足利義満が五山を
京都五山と鎌倉五山に分けることによって、現在のように形成されてきた。
(拝観チケット、説明板などから抜粋)
鎌倉五山第一位の建長寺は"天下禅林(てんかぜんりん)"「人材を広く天下に求め育成する禅寺」
との意で西の外門(北鎌倉側門)に掲げわが国最初の禅宗寺院で建長寺を象徴する言葉である。
アルバム
大きな地図で見る
円覚寺は、臨済宗円覚寺派の大本山である。鎌倉幕府の北条時宗公が開基となり、
中国の名僧無学祖元を開山第一世にむかえて開堂した。
創建の趣旨は、国家を鎮護し仏法を紹隆すると共に、文永・弘安の度重なる蒙古の来襲で戦没した敵味方の霊を慰めるためてあった。
アルバム
大きな地図で見る
寿福寺は、鎌倉五山第三位の寺格を持つ臨済宗建長寺派の寺である。
北条政子が頼朝の冥福を祈り、明菴栄西(みょうあんえいさい)を招いて建てた。
明菴栄西は宋から日本に初めてお茶を持ってきた人として知られる。
アルバム
大きな地図で見る
浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅僧を保護し、相ついで寺院を建てた北条氏の
所領であったので、今でも禅刹が多い。山を挟んだ隣が駈込み寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。
どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸と呼ぶ谷合に堂宇を並べている。
アルバム
大きな地図で見る
浄妙寺は、鎌倉五山第五位の寺格を持つ臨済宗建長寺派の古刹である。足利吉兼が文治四年(1188)に創建した。
開山は、退耕行勇律師(たいこうぎょうゆう)で、当初は密教系の寺院であったが建長寺開山の蘭渓道隆の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)
が住職になってから禅刹に改め、寺名も現在の浄妙寺に改めた。歴代の住持には
約翁徳倹(やくおうとくけん)や高峰顕日(こうほうけんにち)、竺仙梵僊(じくせんぼんせん)、
天岸慧広(てんがんえこう)など名僧が多い。境内は国指定史跡。 (浄妙寺パンフレットより抜粋)
アルバム
大きな地図で見る
南禅寺(なんぜんじ)は臨済宗南禅寺派大本山の寺院で山号は
瑞龍山。寺号は太平興国南禅禅寺で亀山天皇が開基した。
鎌倉五山及び京都五山の上位に置かれる寺院である。
アルバム
大きな地図で見る
臨済宗天竜寺派の大本山の寺院である。山号は天龍資聖禅寺
(てんりゅうしせいぜんじ)で、開基は足利尊氏である。
アルバム
大きな地図で見る
臨済宗相国寺派の大本山である。山号は萬年山(まんねんざん)で、開基は足利義満である。
アルバム
大きな地図で見る
臨済宗建仁寺派の大本山でる。山号は東山(とうざん)で、
開基は源頼家である。
アルバム
大きな地図で見る
臨済宗東福寺派の大本山でる。山号は慧日山(えにちざん)で、
開山は九条道家である。
アルバム
大きな地図で見る
臨済宗東福寺派で、御所内での建立のため山号はない。
開山は東山湛照である。
アルバム
大きな地図で見る
| | | | |
|
| | | | |