古碑に触れる

古碑に触れる


古碑は古代からのメッセージを今に伝える極めて重要な碑である。 中でも、日本三古碑と言われている那須国造碑や多賀城碑、 多胡碑は8世紀ごろ(多胡碑記念館の年表から)のものである。 この三古碑は何れも古代から土器や石、金属などに刻んだ”文”を 永遠に残そうとした”石文”である。






多胡碑(たごひ)

多胡碑

 和銅4年(711)3月…中央政府からの命により、この地に「多胡郡」が設置されたことを今に伝える記念碑が、多胡碑である。 碑文が『続日本記』「和銅四年三月辛亥」の条と一致するなど、日本古代史上の重要資料の一つとして知られている。また、碑の書体が 多くの人に愛好され、拓本が朝鮮・中国に伝えられたことを契機に、近代以降の日本の書道界に大きな影響を与えた。<説明板、パンフレットから抜粋>

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多賀城碑

多賀城碑

 上部に「西」の字があり、その下に、細い線で囲んだ中に11行140字が刻まれている。 碑文内容は大きく二つに分かれ、半分は京(平城京)などから多賀城までの距離が記されている。 当時の1里は約535m。後半は神亀元年(724)、大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、 天平宝字6年(762)、藤原恵美朝臣朝?が多賀城を修造したことが記され、最後の行に碑を建てた 年月日が刻まれている。碑文の内容が藤原朝?による修造に力点を置いていることから、多賀城修造 記念碑とみることができる。
碑は歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても有名で、元禄二年(1689)松尾芭蕉は「おくのほそ道」 の旅の途中、碑と対面しその時の感動を紀行文「おくのほそ道」に書き残している。<説明板より>

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那須国造碑

那須国造碑

 水戸黄門が発掘したといわれる那須国造碑は偶然に 石碑の三分の一のみ見つけられたものである。 東北の帰り道に場所だけでもという気持ちで笠石神社を探し求めた。ここへ寄ると前回同様 に宇都宮泊となってしまう。またの機会にした。
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