安寿姫塚
安寿姫塚の由来
村上天皇の天暦年間(九四七年)奥州の大守 岩城判官将氏はえん罪を受け、
築紫に送られた。
その子姉安寿姫 弟津塩丸(厨子王)は、 母と共に父の後を追って直江の浦逢橋に来た
時 奸賊 山岡大夫にかどわかされ母は佐渡が 島へ、姉弟は宮崎の二郎の手で、
由良の湊で 三庄大夫に売られ 汐汲み・薪取りと過酷な苦難の
毎日を送っていた。 ある朝弟は浜小屋を抜け出し、和江の国分寺 に助けを求 めた。
住僧は「こおり」の中にか くまったが、追手はこれを見つけ槍でついた、
しかし通らないので中を調べると石の地蔵さん が身代わりに入っていた。
難を のがれた厨子王は洛陽に行き、後に丹後の国司
となり佐渡 の母と再会する。 これより先 安寿姫も小屋を抜け出し、京に上 る途中、
中山から下東に 出る坂道で
疲労と空 腹に堪えきれず死亡する。その後この坂を 「かつえ坂」と呼ぶようになった。
姫のなきがらは 建部山麓「宮ノ谷」のこの地 に葬られ「かつえの佛」として
参詣者が絶えない。
毎年七月十四日 夜祭があり、池畔に提灯を ともし姫の霊を慰めている。