高山稲荷神社
高山稲荷神社
由 緒
当社の御創建の年代は詳らかではないが、鎌倉時代から室町期にかけて
此のあたりを統治していた豪族安倍安東(藤)氏の創建と伝えられる。
江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社
の境内社である王神社御創建の社伝には、十三菱東方に山王日吉神社を
中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)氏の祈願所として栄
えるも1443年(嘉吉三) [または1432年(永享四)]頃に南部勢の焼撃ちにより
焼失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の
聖地に降り鎮まられた、と伝えられる。
稲成神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(1701)、播磨国
赤穂藩主浅野内匠神頭長矩の江戸城中での刃傷事件による藩取りつぶしの際、
赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉戴し、流
浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し
醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の
霊地に祀れとのお告げにより運し祀った、と伝えられる。稲荷創建の社伝は
他にも諸説あるが、何れも江戸時代に入ってからのことである。
これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後 江戸時代
に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し
もともとの山王神社が後退したものと考えられている。
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