大樹寺

大樹寺

 大樹寺 沿革
応仁元年(一四六七)八月二十日井田野の合戦で多くの戦死者が 出たので、松平四代・親忠公ちかただこう 勢譽上人せいよぐていしょうにん に帰依して七日七夜の別時念佛会を修し、 敵味方の別なく千人塚を作って葬った。 その後、文明七年(一四七五)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底 上人を開山として大樹寺を建立した。それ以来、大樹寺は松平家・ 徳川家の菩提寺として一千石近い石高を受け、大樹公寺と称し、ニ 十有余の末寺を持つ東海の名利となった。現在でも岡崎城の天守閣と 大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。本尊の阿弥陀如来 は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されて いる。親忠公は愚底上人より在家としてはじめて 五重相伝ごじゅうそうでん を受けら れたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。 松平第九代の家康公は十九才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田 信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、 先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺 住職登誉天室上人とうよてんしつしょうにん はこれをとどめ 「厭離穢土えん(おん)りえど 欣求浄土ごくぐじょうど」 の教えを説き、家康公に浄土念佛の 尊さを教えた。

大樹寺

それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この 「八文字」を座右の銘とした。この時、家康公を追う野武士の一隊が 大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双 の租洞和尚そどうおしょう が門の貫木かんぬき を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。 これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として 尊信したが今もこの貫木は大樹寺に安置されている。 家康公が陣中において人知れず書いた 「陣中名号じんちゅうみょうごう 」はたくさんあるが、この寺 にも署名された「名号」がおさめられている。松平の御八代の墓は西 方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民 により建てられた。三門と 鐘楼しようろう は三代将軍家光公の建立で、三門 楼上の「大樹寺」の扁額は 後奈良天皇ごならてんのう宸筆しんぴつ である。西方に見ゆる 多宝塔は天文四年(一五三五)松平七代・ 清康公きよやすこうの 建立で、重要文化財に指定されている。本堂と 大方丈おおほうじょう は安政二年(一八五五)に焼失したが、安政四年、 十三代将軍家定公の時に再建された。 大方丈の障壁画は、土佐派の画家、 冷泉為恭れいざんいためちか の描いたもので、一四六面あり、 国の重要文化財に指定され、 その一部は収蔵庫に陳列されている。 (説明版より)