史跡 文祢麻呂墓

史跡 文祢麻呂墓

 史跡 文祢麻呂墓 (昭和五九年四月五日 史跡指定)
文祢麻呂ふみのねまろは、 『日本書紀』、『続日本紀しょくにほんき』にも登場する人物で、 壬申じんしんの乱 (六七二年) では、大海人おおあま皇子 (のちの天武天皇) の軍で活躍した将軍の一人である。  天保二年(一八三一年) に偶然、墓誌ぼしが入った 銅箱どうばこ金銅壺こんどうつぼ などが発見され、金銅壺の中には、火葬骨が入ったガラス製 の壺 (骨蔵器こつぞうき)が 納められていた。 墓誌には、「壬申年将軍 左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一 日午」と刻まれ、ここが慶雲けいうん 四年(七O七年)に亡くなった 文祢麻呂の墳墓であることが明らかとなった。  昭和五七年(一九八二年)、発掘調査を行ったところ、一辺 約二・五メートルの土壙どこう(穴)と これを埋めた粘土などが見つ かった。その結果、墓は、堅炭の上に銅箱、金銅壺などを置き、 この周辺を木炭、砂質土で埋め、最後は粘土で全体を覆う構造 であったことがわかった。  文祢麻呂墓は、代表的な古代の墳墓であり、当時の上級官人 の埋葬方法が明らかとなった数少ない例としてたいへん貴重 な遺跡である。  文化庁 宇陀市教育委員会

史跡 文祢麻呂墓
 

史跡 文祢麻呂墓
 文忌寸馬養万葉歌碑

大意
 雄鹿が来てたたずんで
    鳴く野の秋萩は、
 露霜をかぶって
    散ってしまったよ

文忌寸馬養ふみのいみきうまかいは、 文祢麻呂ふみのねまろの子で、 奈良時代に鋳銭長官などをつとめ た役人です。 (説明版より)