函館
100万ドルの夜景と函館の街を散策する。
函館山は、火山活動や地殻変動により出現し、海流による漂砂ひょうさで亀田
半島とつながった陸繋島りくけいとう です。三方が海に囲まれ、標高約334m、周
囲9qとなっており、別名「臥牛山がぎゅうざん」とも呼ばれて います。
函館山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20(1945)年まで約半世
紀にわたって 一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生
育にとっては恵まれた自然環境にあった ことから、約600種の植物が
生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。
さらに四季を通じて野鳥が生息し、また、津軽海峡を南下・北上する渡り鳥の休息地として 重要な役割を果たして
おり、約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣保護区特別保護地区 に指定されています。
ペリー提督来航記念碑
日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、
開港される箱館港を下検分するため、
5隻の艦船を率いて来航した。
滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、
西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの
様子が記録として残っている。
このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として
五稜郭が築造されることになったほか、開港場
として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。 函館市
黒船来航 150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、
ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に
「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
2002年(平成14年)5月17日 ペリー提督来航記念碑建立協議会
ペリー提督来航時の足跡
函館における日米会談 函館山からの眺望
黒船ポーハタン号
姿見坂の一景 称名寺の境内
カトリック元町教会
日本聖公会函館聖ヨハネ教会
ハリストス正教会
安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、
正しくは「函館復活聖堂」という。
文久元年(1861年)青年司祭二コライが、
ロシアから来函し切支丹きりしたん解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。
(明治5年 (1872年)東京転任)
明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。
この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴である。
屋根に装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状
構造が独特の形状をつくっており、緑色の銅板屋根は昭和43年に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。
再建当時の大鐘(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、
かわりに大小6個1
組の鐘と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この鐘も戦時中供出した。
現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。
昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。 函館市
昭和27年3月29日指定
五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行
配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨーロッパで発達した
城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよばれる5つの突角が星形の
五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の
箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。
安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して
蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の
役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治
2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使
により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。
五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、
幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、
北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。また、長野県にも
龍岡城五稜郭がある。
日本では、洋風の城郭はこの二ヶ所である。
函館の坂道は、ご覧のように非常に多いい。函館山を頂点として、
麓から港へ向かう道がいろいろある。今回、半日でこの近辺の観光をクリアーしたい。
ということでスタートしたが、なかなか観光のポイントがつかめず苦労した。
チャチャ登り
函館では珍しいアイヌ語の坂名で幕末頃ついた名らしい。チャチャとはおじいさんのことで、この坂が急なため、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。
チャチャとはアイヌ語でおじいさんのことで、この坂が急なため前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。幕末頃ついた坂名。
基坂
かっては、函館から札幌へ向かう函館本道の起点で、坂下に里数を計る元標が建て られていたので「基坂」といった。坂の上は函館奉行所があった中心地で、江戸時代 には「お役所坂」、「御殿坂」とも呼ばれた。
大三坂
昔、坂の入口に大三という家印の郷宿があったのでこの名が付いた。郷宿というのは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿である。それ以前は、木下という人の宿があったので、「木下坂」といった。昭和62年「日本の道百選」に選ばれた。
二十間坂
かつて、坂上に大工や工人が多く住んでいたことから「大工町坂」とも呼ばれた。函館は大火が多く、明治12年(1879)の大火後、防火帯としてできた坂で、路幅が二十間あるので「二十間坂」と呼ばれた
明治12年(1879)の大火後、防火帯としてできた坂で、路幅が二十間(約36m)あるので「二十間坂」と呼ばれた。かって、坂上に大工や工人が多く住んでいたことから「大工町坂」とも呼ばれた。
日和坂
坂の上から港の景色を一望でき、空模様
をよく判断できるということからこの名が付いた。
また、坂の上にある船魂神社辺りからはトビの飛ぶ姿がよく見えたことから、坂の上の方を「トビ坂」と呼んだ。
日和もトビも共に天気に関係がある。
八幡坂
基坂上の函館奉行所付近にあった八幡宮が、文化元年(1804)奉行所の拡張工事に伴い、この坂の上に移されたことからこの名がついた。八幡宮は明治11年(1878)の火災によって焼失し、明治13年に現在の谷地頭町に移った。
船魂神社 (ふなたま)
台座には
"潮かおる 北の浜辺の 砂山の かの
浜薔薇よ 今年も咲けるや"
の歌が刻まれている。
日本最古のコンクリート電柱
この電柱は、大正12年(1923年)10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が建て
たもので、現存するコンクリート電柱では日本最古のものである。
「高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺
が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで角錐形という珍しいものである。
「火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この
電柱もそのあらわれである。
後に、同形の電柱が建物をはさんで建てられたため「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話
題となった。木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役とし
て街の移り変わりを見守っている。 函館市
立待岬(石川啄木一族の墓)
明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間で
あったが、この間の生活は苜蓿社(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽し
いものであった。「死ぬときは函館で・・・」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月
病魔にあわされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月隊木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女も
また同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。
大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ
3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。 函館市
墓碑は啄木がよく散策した大森浜(啄木小公園)を見渡す場所にあり、
"東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる"
と歌が刻まれている。
大森浜の啄木小公園には、啄木の像があり、台座には
"潮かおる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇(ハマナス)よ 今年も咲けるや"
の歌が刻まれている。
立待岬(啄木の墓)
歌碑は啄木の義弟、
宮崎郁雨の歌碑
"蹣跚
と 夜道をたどる淋しさよ 酒はひとりし飲むものならず"
刻まれている歌はなんともさびしさを感じる。
立待岬()
立待岬
立待岬