武蔵誕生の地
宮本武蔵 由来
剣聖宮本武蔵の自筆の書 五輪書 の序文に時、寛永二十年十月上
旬のころ 生国播磨の武士新免武
蔵守、藤原の玄信、年つもって六十
とあり、また、平野庸修が宝暦年
間に書いた 播磨鑑には、宮本
武蔵 揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産也
とある。これらの記述から當宮本は
武蔵生誕の地と考えられるが、残
念なことに安未年間と明治二十年の
大火で村の大半が罹災し、系図や古
文書が焼失したのは残念である
ここに、宮本武蔵顕彰碑を建て、
永く武蔵の遺徳を讃える。
平成四年五月 宮本武蔵顕彰会 太子町教育委員会 太子町観光協会
宮本武蔵 産湯井戸
宝暦十二年(1762)に書かれた地誌『播磨鑑はりまかがみ』に「宮本武蔵
揖東郡鵤ノ庄
宮本村ノ産ナリ
若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シテ
とあり、又、武蔵が晩年に書いた兵法書『五輪書』にも「生国播磨
の武士」となっている。
今は涸れて当時の面水はないが、この井戸で汲まれた水で生まれ
て初めて入湯したのである。 宮本武蔵顕彰会
逆さ椋の由来
此の椋の木は、樹齢数百年(推測五百年程度)と伝えられている。
今から、250年程前の宝暦年間と明治20年の二回の大火で村
の大半が焼失した。その時、この椋の木も地面より3.5米を残し、
無残な姿と化したが「根っこ」が強力で生きのびた。
その後、長い年月を経て、少しずつ新しい芽を吹き出した。
昭和五十年(1975)に、地域の住民によって補強・活性剤等を
施し、今日まで見守られている。現在では、根っこに負けない位の
立派な枝振りを見せている。
宮本武蔵の実状を知るのは、此の椋の大木である。 宮本武蔵顕彰会