八大神社
剣聖『宮本武蔵』と八大神社
武蔵が一乗寺下り松に立って多数の敵に
まみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を
期したこの危地へ来る途中で、八大神社の前
で足を止めて、「勝たせたまえ。きょうこそは
武蔵が一生の大事。」と彼は社頭を見かけ
て祈ろうとして拝殿の
鰐口へまで手を触れ
かけたが、そのとき彼のどん底からむくむく
わいた彼の本質が、その気持を一蹴して、鰐口の
鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま
下り松の決戦の場 へ駆け向かったという。
武蔵が自分の壁書としていた
独行道のうちに、
我れ神仏を尊んで神仏を恃たのまず
と書いているその信念は、その折ふと心にひら
めいた彼の
悟道だったにちがいない。
武蔵にこの開悟を与えたことに依って一乗寺
下り松の果し合はただの意趣喧嘩と
ちがう一つの意味を持ったものと僕は
そう解釈する。 吉川英治「随筆 宮本武蔵」より
八大神社由緒
京都市左京区一乗寺松原町壱番地鎮座
素盞嗚命
御祭神 稲田姫命
八王子命(丸王子)
(三王女)
由緒 当社は永仁二年三月十五日勧請(今より
約七〇〇年前)(西暦1294年)祇園八坂神社と
御同神に坐し古来より北天王(北の祇園)と称し
皇居守護神十二社中の一にして都の東北隅表鬼
門に位置し、方除、厄除、縁むすび、学業の神
として世の信仰厚く、後水尾天皇、霊元天皇、
光格天皇、修学院離宮行幸の砌り御立寄り
白銀等御奉納あり
明治六年十月五日 藪里午頭天王社(永享十年十一月甘八勧請)
(西暦一四三八年)
同 七年三月五日舞楽寺八大天王社(永享十年九月朔日勧請)
(西暦一四三八年)
を合祀す。大正十三年幣帛供進神社に指定せられる。
因に、剣聖宮本武蔵が、吉岡一族と決斗し
当時の"下り松の古木は本殿西に保存してある。
例 祭 五月四日
氏子祭 五月五日 (説明板より)
慶長九年(1604) 八大神社境内地
[一乗寺下り松〕に於いて 剣聖宮本武蔵
が吉岡一門と決闘したと伝わる
「吉岡亦七郎、事を兵術に寄せ、洛外下り
松辺に会す」 小倉碑文
「京洛東北ノ地、 一乗寺藪ノ郷下り松二会
シテ戦フ」 二天記
この古木こぼくは決闘当時の松の一部であり
昭和二十年に神社に遷され 御神木とし
て祀られている (説明板より)