道後公園
足なへの病いゆとふ伊豫の湯に
飛びても行かな
鷺にあらませば
正岡
子規
(1867−1902,慶応三年〜明治35年)
子規の自選歌集『竹乃里歌』の明治三一年
「故郷を
憶ふ」九首中の一つ
(内一首抹消)。
明治二八年秋以来カリエスのため左腰骨が
痛みだし、以後没年までの八年間ほとんど
病床の人となり、この望郷の歌を詠んだ。
昭和二六年九月一九日子規五〇年祭に初
めて作られた歌碑二基のうちの一つ。当時
子規自筆の歌稿が見つからず、句稿の中か
ら一字ずつ集めて刻んだ。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
ふゆ枯や鏡にうつる雲の影
正岡 子規
明治28年冬の句。 子規句集『寒山落木』
及び『病餘漫吟』に見える。明治二八年秋、
愚陀佛庵で子規が
森円月に書き与えたも
の。 子規「雲百句」の一つ。
半鐘と並んで高き冬木哉
夏目 漱石 (1867−1916,慶応3年〜大正5年)
明治29年1月3日午後、子規庵に内藤鳴
雪、森?外、五百木飄亭、夏目漱石、高浜虚
子、河東可全、
河東碧梧桐と
子規の八名が会
しての初句会での句。
国際ロータリークラブ第267地区年次大
会を記念して建立。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
寝ころんで
蝶泊らせる外湯哉
小林
一茶
( 1763−1872,宝暦13年〜文政10年 )
一茶はその師
竹阿の旅日記『其日ぐさ』
の跡をたどり、寛政7年(1795) 讃岐
から松山に入り、師の友人
栗田樗堂の二畳
庵を訪ね、二月一日に道後を訪れてこの句
を詠んだ。
江戸時代古図(1813年)によると、
本湯の西の外れに長円形の池があり「乞食
牛馬入込」とある。
いいお湯ではなかったらしい。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
石造湯釜 一基
愛媛県指定有形文化財(建造物)
昭和29年11月24日指定
湯釜は、浴槽内の温泉の湧出口に設
置するもので、これは現在の道後温泉
本館ができた明治27(1894)年
まで使用されていたものである。
直径166.7センチメートル、高
さ157.6センチメートル、花崗岩
製である。奈良時代の天平勝宝年間
(749〜757)につくられたと伝
えられる。
湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿
弥陀仏」の六字名号は、河野通有の依
頼により一遍上人が刻んだものといわ
れている。
湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関
する文は、天徳寺の徳禅師の撰文に
なるもので、享禄4 (1531)年、
河野通直が石工を尾道から招いて刻ま
せたものである。
松山市教育委員会