清見寺

清見寺

 清見寺は、巨龍山清見興国禅寺という職請業妙心寺派の禅宗寺院です。 千年もの昔に設けられた「請見ヶ関」に附属する寺院として、 その歴史が始まったと考えられています。 徳川家康をはじめ、時の権力者は、交通の要衝に位置する寺を庇護し、 寺を訪れた人々は、眼下に広がる海原と対岸の三保松原の景色 を絶賛しました。
「徳川家康が国交回復を発信し、1607年第1回朝鮮通信使が江戸幕府を往来したとき, 清見寺に宿泊したことが契機になり、 清見寺で日本 や三保の松原などの景観を讃える漢詩を詠み、歴代通信使の遺墨や懸け板(編額)が山門の 「東海名画」を軸め多く残っています。 華開友 好を重ねた文化交流・遺産文化は県指定文化財に指定され、庭園は国の名勝に、 境内全域も「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定され ています。また、琉球使節団も農度も来訪しています。
 所蔵する数々の文化財は, 一寺院が懸命に果たしてきた貴重な生きた 歴史遺産であります。

清見寺
 五百羅漢石像
釈迦如来の御弟子で仏典の 編集護持に功績のあった方々 です。江戸時代中期(天明年間)の彫造にして作者不詳形相 悉く神異非凡の作であります。 此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面に なっています。

島崎藤村著「桜の実の熟する時」の小説の一節
興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体を こころもち小さくした程の大きさを見せたり青苔の蒸した五百 羅漢の石像があった。起ったり座ったりして居る人の形は生き て物言ふごとくにも見える。誰かしら知った人に逢へるといふ その無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見 が居た、清之助が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えること が出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去り がたい思をして、旅の風呂敷包の中かう紙と鉛筆とを取出し頭 の骨がく尖って口を開いて苦笑して居るやうなもの、広い額と 隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、頭の かたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ食いしばって居る やうなもの、都合五つの心像を写し取った。五百もある古、羅漢 の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった磯子、涼子 それから勝子の面影をすら見つけた。

清見寺
 聖觀世菩薩銅像
経に日く「衆生諸々の苦悩を受 けんに、此の菩薩の御名を聞い て一心に称名せば観世音菩薩 即時に共の音声と観して解脱 せしめ給ふ」と、
歌人与謝野晶子は、曽って此の 尊像を拝して
清見寺きよみでら ぎてうろくづも 
 叔はれぬべき身と思ふらん
と御慈徳を讃して詠じだ

清見寺
  六道地藏尊
人はこの世を終(おわ)って後冥途(めいど)の長旅(ながたび)をし て六道(ろくどう)の辻に出ると云(い)う 而して生前の行 いに因(よ)って六道(地獄道・餓鬼道(がきどう)・畜生道(ちくしょうどう) 修羅道(しゅらどう)・人間道(にんげんどう)・天上道(てんじょうどう) の内何(いず)れかを自から選(えら)ぶと云うのです
地蔵尊は常に比の辻(つじ)に立って冥途(めいど)の人 の心のささえとなられています