大岡寺

大岡寺

 龍王山大岡寺の由緒
寺伝によれば、白鳳十四年(686) 僧行基そうぎょうきが 諸国行脚に際し、大岡山の山頂に自彫の 十一面千手観世音像を安置し創建したという。
 その後寺勢盛大を極め、十六の坊合を擁し ていたと伝えられるが、天正二年(1574)の 兵火で、堂宇はことごとく焼失し、東之 坊(本坊)を残すのみとなった。
 天正十三年(1585)に、中村一氏が岡 山城の築城にあたり、東之坊を 地頭ぢがしらに移転し、 大岡山山頂に城郭を構築したが、落城後享 保元年(1716)に至り、時の住職 寂堂じゃくどう法 印が再び現在の地に堂宇を再建した。以後、 水口藩主加藤氏歴代の祈演所となった。
 本尊十一面千手観世音菩薩は、家内安全・ 商売繁昌・進学・就職・厄除等諸領成就の守 護佛で、近江西国三十三か所第二十六番霊場 として多数の参詣者がある。また、 恵心僧都えしんそうず の作で、阿弥陀如来立像は、ともに国の重要 文化財に指定されている。

大岡寺
 当寺には、史蹟が多く、 鴨長明かものちょうめい 発心之所で あり、 巌谷一六いわやいちろくの 記念碑や芭蕉ばしょうの 「命二つ 中に活きたる 桜かな」 の句碑等がある。
この句に詠まれた桜は「大岡寺の桜」として 水口八景の一つに数えられている。
   水口町
 
大岡寺
 嚴谷一六顯彰碑
 この碑は水口出身で、明治時 代を代表する書家 巌谷一六いわや いちろく (天保五〜明治三八)の業績を賛え て、明治四四年に建てられた。
碑文の撰文は漢学者 三島中洲みしまちゅうしゅう、 揮毫は一六とともに 近代書道の確立に邁進した 日下部鳴鶴くさかベめいかく、 「従三位巌谷君之 碑」の題額は、一六らに大きな 影響を与えた清国の金石学者 楊守敬ようしゅけいの 手になる。
 鳴鶴の謹厳な隷書は、一六を 賛える心を映してあまりある。
   水口町教育委員会
 
大岡寺