芭蕉ゆかりの地(びわ湖)



幻住庵

幻住庵


 芭蕉が「おくの細道」の旅の翌年、元禄3年(1690)4月6日から 7月23日までの約4ヶ月の間、近江の門人で膳所藩士、菅沼外記定常 (曲水)の勧めによって、曲水の祖父の菅沼修理定知(幻住老人)が、 かつて暮らしていた庵に住まいした。

 

幻住庵の句碑

ここでの生活の様子や、それまで辿ってきた芭蕉の俳諧道への心境 などを述べたのが「幻住庵記」であり、「おくの細道」と並ぶ俳文の 傑作とされており、結びにおかれている

     「先づ頼む椎の木も有り夏木立」 

の句に詠まれた往時を偲ぶように、現在もなお、周辺には椎の木が多く 残っている。…  (大津市観光振興課のリーフレットより)




本福寺

本福寺

 本福寺は浄土真宗の寺院で真宗中興の祖蓮如の布教活動の中心 ともなった。





本福寺

  元禄3年、この寺の住職で芭蕉の門人でもあった千那を訪ねたとき、 当寺で病に臥し、ここで詠んだ句といわれている。

     "病雁の 夜寒に落ちて 旅寝かな"

千那は蕉門の長老として江左尚白とともに蕉風俳諧を発展させた。




本福寺

  もう一句、

     "からさきの 松は花よりおぼろにて"

は芭蕉42歳のとき、大津で詠んだ名句である。




浮御堂(海門山満月寺)

浮御堂

 近江八景の一つ「堅田の落雁」として有名な堅田の浮御堂は 風景絶景の地点で風花雪月それぞれの趣があり、境内の老松も 閑寂な寺域ふさわしい。古くより樫田は京都に近く湖上交通の 要地で、一休和尚、蓮如上人が錫をとどめ、芭蕉、一茶、広重、 北斎などが杖をひいて多くの詩歌、絵画を残している。 (浮御堂資料より抜粋)

 


浮御堂

 元禄4年の中秋名月の翌日、16夜にお月見の宴をされ、詠まれた句  

   "じょう明けて 月さし入れよ 浮御堂"   

この句は元禄4年芭蕉が樫田での観月会で詠んだものである。


浮御堂

 

   "比良三上ひらみかみ 雪さしわたせ さぎの橋"


唐崎神社

唐崎神社

 唐崎からさき 
 韓崎、辛崎、辛楽崎などの字をあてる場合もありますが、「万葉集」 にもあらわれる大津京おおつきょう 時代からの地名です。
 古くは、湖上交通の湊と考えられ、平安時代には、天皇の災厄をはらう 「七瀬祓所ななせのはらいじょ」 の一つとして重視されました。「枕草子」に湖畔の名勝として紹介され 、室町時代の終わりに「近江八景おおみはっけい」 が選定されると、その一つに「唐崎の夜雨からさき やう」 の舞台となりました。
 この地にのこる松は 日吉大社西本宮の御鎮座 ごちんざとも深いかかわりがあり、唐崎の一本松 と呼ばれ多くの人々に親しまれました。現在、唐崎神社の境内地内に保存されています。 (大津市教育委員会)

 


唐崎神社

  

   "辛崎の 松は花より おぼろにて"   


圓満院門跡

円満院門跡

 圓満院門跡えんまんいんもんぜき 全国に約20万ぐらいある寺院の中で門跡寺院は、20ぐらいしかない。 京都の三千院や日光の輪王寺など門跡寺院として、よく知られている。

 


円満院門跡

  

   "大津絵の 筆のはじめは 何佛"   


義仲寺

義仲寺

 義仲寺ぎちゅうじの名は、源義仲を葬った塚のあるところから来ていますが、 室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
 門をはいると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人 又玄ゆうげんの作です。境内には、この句をはじめ、芭蕉の辞世の句 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴午前を弔う(とむらう) ために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和42年(1967)11月に国指定の史跡となりました。 大津市教育委員会
 


義仲寺

  

   "旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る"   


義仲寺

  

   "古池や 蛙飛こむ 水の音"   


義仲寺

  

   "行春を あふみの人と おしみける"   


白鬚神社

白鬚神社

 近江の厳島と呼ばれる白鬚神社しらひげじんじゃ の大鳥居はびわ湖に浮かぶ赤い鳥居で知られている。全国各地の白ひげ神社の総本社でもある。
 


白鬚神社

  芭蕉がここで詠んだか定かでないが
   "四方しほうより 花吹入れて におの湖"   

 


酢区会館(酢公民館)

酢公民館

 長浜市の酢区会館(酢公民館)に芭蕉句碑

   "ゆく春を 近江の人と 惜みけり" 

国道8号線の日本軽金属がある交差点を600mほど東へ行った左側 (Map-Code#101 885 748) 
 


近江神宮

近江神宮

 朱塗りの楼門を抜けると外拝殿へ、そこから内拝殿や本殿を観る。 また、境内には多くの句碑や歌碑があり、それらを詠んで回るのも面白い。
(Map-Code#7 717 287)
 


近江神宮

 小倉百人一首の初めの天智天皇の歌碑

   「秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」

もある。
 

  
 


近江神宮

 さらに、その近くの神楽殿そばには芭蕉句碑

   "から崎の 松は花より  おぼろにて" 

がある。  
 


長浜八幡宮

長浜八幡宮

 天正元年(1573)近江北部を織田信長から与えられた秀吉公は、 今浜村附近に城下町(現在の長浜市街地)を造る計画をした。 その際、予定地域にあった八幡宮を現在の所へ移転させた。
長浜城主となった秀吉公は、八幡宮への寄進や社殿の造営などを行い 八幡宮の保護に努めた。
(Map-Code#101 768 488) 
 


長浜八幡宮

  参道の中ごろに松尾芭蕉の句碑

   "折々に 伊吹を見ては 冬籠 ふゆごもり"  

この句は、元禄四年(1691)の初冬、中山道を通り、 大垣の千川せんせん 亭を訪ね、そこでの句会で詠まれたといわれている。   
 


長浜八幡宮

 「ねがとお して」   
願い事をしてこの石の穴に矢を通してください。
  
 


三井寺(長等山園城寺)

三井寺


 三井寺みいでら 長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ) の通称として呼ばれている。 貞観8年延暦寺の円珍が天台別院として再興したもの。
(Map-Code#7 627 777) 
 


三井寺


三井の晩鐘
 近江八景のひとつ、「三井の晩鐘」で有名なこの鐘は音の三井寺として 日本三銘鐘のひとつにもかぞえられ、また、平成8年7月には環境庁より 「日本の音風景100選」にも認定された。
 この鐘は慶長7年(1602)、古鐘・弁慶の引摺り鐘の跡継ぎとして 鋳造されたもので鐘楼(国の重要文化財)と共に県の文化財に指定された。
 目方は六百貫(2250キログラム)。除夜の鐘の百八煩悩に因んで 、鐘の上部には乳といわれる百八個の突起がある。 (説明板より)
 


三井寺


  大門を越えて金堂へ、左側の蓮池の前に松尾芭蕉の句碑

   "三井寺の 門敲かばや 今日の月"  

 


瀬田の唐橋

瀬田の唐橋


 貞享5年(1688)5〜6月にかけて大津を訪れた芭蕉は 瀬田の橋や蛍見を句にしている。瀬田の唐橋は壬申の乱の時代 から行くたびも歴史の舞台に登場する名橋で、近江八景「瀬田の 夕照」の絵にもなっている。  (大津市のパンフレットより)
(Map-Code#148 484 308) 
 


瀬田の唐橋


  西光寺前の湖岸に芭蕉の句碑

   "五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋"  

(Map-Code#148 484 399)
 


岩間寺

岩間寺


 大津市と京都府宇治市の境にある標高443メートルの岩間山中腹 に位置し、真言宗醍醐派岩間山正法寺(通称岩間寺)と称する。
 養老6年(722)加賀白山を開いた泰澄大師が元正天皇 の33歳の大厄の病を法力により治した褒美として建立したことに始まる 元正天皇の勅願寺院である。…(岩間寺パンフレットより)
(Map-Code#148 330 532) 
 


岩間寺


 岩間寺の本堂(納経堂)の右側に芭蕉池がある。句作に行き詰まりを 感じていた芭蕉は岩間寺の観音に帰依することで、それを脱し、 蕉風を確立したと伝えられている。

   "古池や 蛙飛びこむ 水の音"  

 


石山寺

石山寺


 この地に、奇岩怪石の露出する岩山(現、伽藍山がらんやま) があったことから生まれた地名です。 8世紀の中頃、この山に一寺が建立されて石山寺となづけられ、観音信仰の霊場として 発展しました。なお、現在も境内に露出する硅灰石けいかいせき の大岩は天然記念物に指定されています。
 
 


紫式部


 
 


紫式部


     "石山の 石にたばしる 霰かな"

芭蕉翁は、ここ石山寺をたびたび訪れています。この句は元禄3年(1690)の冬の日に 作られたものです。
 石山寺の名の由来でもある幾重にもなった巨大な硅灰石の上に、白く固いあられが激しく 降り注いで、たちまちあたりへと飛び散って行きます。
 その光景からは、石とあられがぶつかり合うときの硬くリズミカルな響きが 聞こえてくるようです。
              大津市