渥美半島・伊良湖岬

時代に触れる


愛知県・渥美半島の先端に位置する「伊良湖岬」。 そこに広がる恋路ヶ浜は、昔、高貴な男女が許されぬ恋ゆえに、 都からこの地に逃れてきたという伝説から名前がついたと言われています。 現在も、恋人たちがココを訪れては、砂浜を歩いたり、潮騒を感じながら 風情溢れる景色を眺めたり・・・。伊良湖岬は恋人たちの聖地ともいえる場所。 ロマンチックな時間を過ごしながら、愛を育みませんか。  (説明板より)






日出の石門

日出の石門


日出の石門は、とても緻密で固いチャートという堆積岩でできている。
 このチャートは、約二億年前に、放散虫の殻などの珪酸分が、はるか南方の 海洋底に沈殿してできた。
 その後、太平洋プレートの移動とともに、現在の位置運ばれてきた。
 層状に堆積したチャートは、海底地すべりや強い圧力で衝突したため変形した。 うねるような褶曲や、褶曲を断ち切る断層は、過去の変動の記録でもある。
 石門の洞穴は、断層によって破砕されもろくなった部分が、長い間に波の力で 浸食されて、海食洞になったものである。

    




西行法師歌碑

西行法師歌碑


 西行法師は平安末期の歌人で諸国を旅し、多くの名歌を残している。 文治2年(1186)69歳の時、東大寺大仏殿再建のため 伊勢(二見ヶ浦)から伊良湖へ渡海し奥州へ勧進の旅に出る。 伊良湖では、

  「浪もなし いらごが崎にこぎいでて われからつける わかめかれあま」

という歌を残している。


    


 歌碑は、伊良湖港旅客ターミナルの傍らで海を見ているように建っている。


潮音寺の芭蕉、杜国、越人の「三吟」句碑

潮音寺の芭蕉、杜国、越人の「三吟」句碑

 杜国は、通称を坪井庄兵衛といい、 名古屋の御園町で壷屋という米穀商を手広く営む傍ら、 町総代をも勤める豪商であった。
 貞享元年(1684)芭蕉の「野ざらし紀行」の帰途、 名古屋で作られた連句集「冬の日五歌仙」に作者の 一人として加わった杜国は、尾張俳諧の重鎮として その名を馳せていたが、貞享二年、ご法度とされて いた米延商(空米売買)の科により、家財没収のう え所払いとなってこの地、畠村に移り住み、程なく 保美の里に隠棲することになった。
 夢にまで杜国を見て泣いたというほど杜国の天分 を愛した芭蕉は、貞享四年十月、「笈の小文」の途 中、鳴海より門弟越人を伴い、愛弟子の悲境を慰め ようと二十五里の道を引き返し、保美の閑居に杜国 を尋ね得た。再会した師弟がそのとき詠みあったの が、この三吟の句である。

         麦生えて 能隠れ家や 畑村       芭蕉

         冬をさかりに 椿咲く也           越人

         昼の空 蚤かむ犬の 寝かへりて     野仁(杜国)

    

 翌日杜国の案内で同行三人は、伊良湖崎に吟行の 杖をはこんだ。芭蕉の名句「鷹ひとつ 見つけてうれ し伊良湖崎」は、このとき詠まれたものである。
現在の墓碑は没後五十四年の延享元年(1744)に 建立されたものであり、師第三吟の句碑は、杜国を 慕う地元の有志により明治二八年(1895)に造ら れたものである。

  潮音寺しょうおんじの 立派な山門(仁王門)である。


杜国公園(杜国屋敷跡)

杜国公園(杜国屋敷跡)

 俳人 坪井杜国
杜国は名古屋御園町で米穀商を営んでいた 俳人で、芭蕉門下尾張五人衆の一人である。
  真享ニ年(1685) 尾張国で御法度とされていた米延商(空米売買)の罪により、 家財没収の上、領地追放の刑に処せられ、ここ 保美の里に隠棲した。
 社国を夢に見て泣くというほど社国を愛した芭蕉は、貞享四年「笈の小文」の旅 の途中 尾張の鳴海より門弟越人を伴い、わざわざ二十五里の道を引き返し、 愛弟子の閑居を訪ねその侘住いをなぐさめている。
 世をはばかり、落魄の身をなげきつつも、余生をこの地におくった社国は、 元禄三年(1690)三月数奇薄命の生涯を終えた。


    

 句碑文
 旧里を立去て
   伊良古に住持りしころ
    春ながら名古屋にも似ぬ空の色

保美公民館(田原市)の芭蕉句碑

保美公民館(田原市)の芭蕉句碑



  うめつばき
       早咲はやざきほめむ
            保美ほびの里

  貞享4(1687)年、愛弟子まなでし 社国が隠棲中であった保美の里を訪ねた際に詠んだ句です。
保美を訪れた色薫は、その土地の人から「昔、持統 上皇がこの土地を褒めたことから ほう美」という地名になったことを聞き、暖かい気候ゆえ梅や椿が早く咲くことを 褒めることにかけて、この句を詠いました。


芭蕉の句碑園地

芭蕉の句碑園地

 この句は芭蕉が愛弟子杜国の傷心を慰めようと貞享四年(1687)冬 越人を伴い 保美に杜国を訪ね馬を並べてこの地に清遊したとき詠んだ句である

   『鷹ひとつ
     見つけてうれし
         いらご崎』


    

 この句碑は、芭蕉の真筆を複製して作成したものです。

    

 上記句碑の左側に、古い句碑(芭蕉翁之碑)が小さな岩山の上に建っている。 当初は見逃してしまいました。  

「椰子の実」誕生、柳田邦夫(田原市)

「椰子の実」誕生、柳田邦夫(田原市)

   「柳子の実」誕生の物語 「椰子やし(み」 は島崎藤村が執筆した詩である。 1898年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年だった柳田國男がこの地 に一ヶ月滞在した時、「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、 椰子のみ実が一つ、 岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」といった話を親友だった藤村にし、 藤村はその話にヒントを得て「細子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」 を重ね、この詩を書いた。
1936 1936年(昭和11年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった『国民歌謡』 の担当者が作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。


柳田國男の逗留の地

 柳田國男の逗留の地碑

椰子の実一つ

 歌曲「柳子の実」楽譜の碑

椰子の実一つ

 この歌碑は渥美半島を見下ろし、太平洋を眺める素晴らしい場所にある。
 楽譜

 島崎藤村 作詞
 大中寅二 作曲

椰子の実一つ

  郡子の実

     島崎藤村

名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ
故郷ふるさと の岸を離れて なれ はそも波に幾月
もと の木は いや茂れる 枝はなお影をゃなせる
われもまた渚を枕 孤身ひとりみ の浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば たぎ り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国くに に帰らん