浦嶋神社

浦嶋神社

  浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延喜五年(905)撰上の「延喜式神名帳」 所載によると『宇良神社』と記されている式内社。創祀年代は淳和天皇の天長二年(825)、 浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、 日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。  伝承によると、浦嶋子は雄略天皇ニ十ニ年 (478)七月七日美婦に誘われ常世の国へ行き、 その後三百有余年を経て淳和天皇の天長二年(825)に帰ってきた。 常世の国に住んでいた年数は三百四十七年間で、淳和天皇 は この話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、 小野篁おののたかむら(802 - 853、公卿・文人)を勅旨として派遣し社殿が造営された。 遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。 暦応二年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、 古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。  なお、社殿が北極星を向いて造営されており、道教の影響から北極星信仰がある。

    見すはまた 悔しからまし 水乃江の
             浦嶋かすむ 春の曙
                   太上天皇

    長き夜も 明けて恨めし 水乃江の
          浦嶋かけて すめる月かげ
                    平 高宗

浦嶋神社

 北前船

浦嶋神社

  浦嶋伝承
 当地に伝わる浦嶋伝承は、我が国に伝わる最古の歴史書「日本書紀」 (和銅二年、720)に記され、全国各地に伝わる浦嶋伝承よりも起源が最も古い。 雄略天皇ニ十二年(478)秋七月の条に「丹波国余社郡の管川の人」として 「瑞江の浦の鳴子」が常世の国へ行く物語が簡潔な文章で記されており、 末尾に「詳細は別巻に在り」と書かれている。その書物が何であったかは 現在では特定できていないが、同時期に編纂された「丹後国風土記」が 有力である。また、他にも「万葉集」巻九にある高橋虫麻呂が詠んだ旋頭歌 「詠水江浦嶋子一首」で浦嶋物語が歌われている。
 これらの物語で登場する 「浦嶋子」がいわゆる日本昔話でいう「浦島太郎」であるが、 物語は中国道教の神饌思想の影響を受け ている。 古代には竜宮城へ行かず神女(おとひめ)に誘われ蓬山とこよ(常世の国)へ至るという 物語であった。 浦嶋子は当地を治めた地方豪族の領主であったことから、民間伝承ではなく貴族、 公卿などの支配層を中心に伝わっていった。 室町期より江戸初期にかけて綴られた御伽草紙に初めて「乙姫」 「竜宮城」「玉手箱」の名称とともに亀の恩返しの要素が加わり、 また、領主であった鳴子が「両親を養う漁師の青年」という民衆の身近な 存在として描かれたことにより、大衆に広く受け入れられ全国に伝わっていった。 このことが、「浦島太郎」伝承が全国各地に数多く伝わる要因であると思われる。 江戸 中期の正徳二年(1712)に、大阪竹田からくり出し物で初めて亀に乗った浦嶋子 が登場し、海中にある竜宮城へ行くようになる。
 明治二十九年(1896)に厳谷小波いわやさざなみが子ども向けに書いた日本昔話に、 現在の浦島太郎のお話しに書き替えられ、明治四十三年 (1910)には尋常小学校二年 国語教科書にその省略版が掲載、翌四十四年(1911)には唱歌「浦島太郎」が作られた。 このことにより、当時の日本全国の子ども達が読み学び、また、 唱歌は現在までも子ども達にお馴染みの歌として歌われ続け、 日本人なら誰もが知っている代表的な昔話として大いに親しま れている。
        郷土の歴史と文化を守る会   (説明板より)