報恩寺
![報恩寺](IMG_0840.jpg)
報恩寺は応永元年(1394)南部家十三代の英主守行公によって三戸に創建され、
慶長六年(1601) 二十七代利直公のとき現在地に移転された。
藩制時代は寺領二百石を有る南部領内二百八カ寺の総領であった。
現在も寺域七干坪を有する曹洞宗一方の勝利である
本尊釈迦文殊普賢の三尊像は元大和中善寺本尊像で聖徳太子作と伝え、
羅漢堂の中尊毘盧舎那仏は元大和橘寺金堂本尊像で弘法大師作と伝えている。
市文化財指定の羅漢堂及び五百羅漢像は享保20年(1735)の落成開光で、
像は中国天台山像を模して京都で作製されている。
本堂背後の坐禅堂には文殊菩薩を中心に五十人分の禅床がめぐらされている。
「瑞鳩峰山」の扁額を掲げる三門楼上には十一面観音がまつられている。
![報恩寺](IMG_0841.jpg)
仁王像
![報恩寺](IMG_0842.jpg)
仁王像
![報恩寺五百羅漢](IMG_0846.jpg)
五百羅漢
この報恩寺を含む北山一帯は石川啄木がまだ盛岡中学にあって文学に親しみはじめ
たころ、好んで吟行の杖をひいたところである。彼の処女詩集「あこがれ」に収めら
れた「落瓦の賦」のはしがきには、「幾年の前なりけむ、
猶社陵の学舎にありし頃、
秋のひと日、友と城外北邸
のほとりに名たる古刹
を訪ひて、菩提
老樹の風に嘘ぶく所、
琴者胡弓
を按
じて沈思頗
興に入れるを見たる事あり。
年進み時流れて、今寒寺寂心の身、一タ銅鍾
の揺曳に心動き、
追懐の情禁じ難
く、乃
ち筆を取りてこの一篇を草し
ぬ。」と書き残している。
![報恩寺](IMG_0849.jpg)
ここにある「古刹」とは報恩寺また、「寒寺」とあるのは、啄木が育った故郷渋民
の宝徳寺のことであり、この詩の生まれたのは明治36年2月16日夜のことで、
啄木18歳 の早春である。この詩の最後の章は次のようなものであった。
琴を抱いて、目をあげて、無垢
の百蓮、
曼陀羅華、
靄と
香を吹き霊の座をめぐると聞ける西の方、
涙のごひて眺むれば、澄みたる空に秋の雲
今か黄金の色流し、空廊百代
の夢深き
伽藍
一タ風もなく俄かに壊れほろぶ如、
或は
天授の
爪ぶりに
一生の望み奏で了へし
巨人終焉に入る如く、
暗の戦隊を
あとに見て、
光の幕を引き納め、暮暉
天路に沈みたり。
![報恩寺鐘楼](IMG_0868.jpg)
盛岡市指定文化財
一、名 称 報恩寺の梵鐘一ロ
二、所在地盛岡市名須川町31−5
三、昭和五十五年四月一日
四、説明
この梵鐘は銘によれば報恩寺十三世住職文嶺喬志禅師が、かねて音響の良い梵量を備
えたいと発願し、第三十代藩主南部行信の夫
人中里氏が施主となって、盛岡藩お抱釜師、
二代小泉仁左衛門清則が、元禄十一年(1698)に鋳造したものである。
法 量
総 高 136cm
口 径 (駒の爪)の厚さ 10cm
重 量 563キログラム
報恩寺は盛岡五山の一つであり、藩内曹洞宗208カ寺を支配した寺である。
当時の梵鐘によれば、江戸中期 盛岡八景の「北山の晩鐘」のゆかりをもち
昭和50年(1975)まで約290年間にわたって音を伝え、
盛岡の人々に親しまれてきた梵鐘である。
戦時中の金属回収の時にも、由緒ある名鐘として、内丸の時鐘と共に
回収を免れて今日に残された梵鐘である。
五、所有者 盛岡市名須川町32−5
報恩寺
昭和63年6月
盛岡市教育委員会