長崎

浦上天主堂


稲佐山から望む長崎の夜景と文明の発展の先駆けとなった長崎を見学する。






稲佐山

稲佐山

 稲佐山から夕陽を見る!今日は、水蒸気が上げっていまいちである。

稲佐山

 稲佐山は、火山活動や地殻変動により出現し、海流による 漂砂ひょうさで亀田 半島とつながった 陸繋島りくけいとうです。 三方が海に囲まれ、標高約334m、周囲9qとなっており、 別名「臥牛山がぎゅうざん」 とも呼ばれて います。
 稲佐山山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20(1945)年まで約半世 紀にわたって 一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生 育にとっては恵まれた自然環境にあった ことから、約600種の植物が 生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。
さらに四季を通じて野鳥が生息し、また、 津軽海峡を南下・北上する渡り鳥の休息地として 重要な役割を果たして おり、約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣保護区特別保護地区 に指定されています。

稲佐山

 片道切符である。行きは歩いて登り。稲佐山からの夕陽や夜景を撮った後、 ロープウエイで降りました。

浦上天主堂

浦上天主堂

  浦上天主堂 国指定史跡 長崎原爆遺跡
浦上天主堂旧鐘楼  1867年に始まった浦上四番崩れと呼ばれる大弾圧により 全国に流刑にされた浦上のカトリック信者は、1873年に解放 されたのち、聖堂の建設を計画しました。
 1895年にフレノ神父の指導のもと起工した浦上天主堂は、 貧しいながらも農作物を売って得た資金や、外国人からの寄付 などを受け、石材や煉瓦を買い、信者の労働奉仕で運搬・建築 され、起工から19年もの歳月を経た1914年に完成しました。 当初の天主堂には鐘楼がなかったため、当時の主任司祭の ヒューゼ神父の計画のもと1925年に双塔が完成しました。
 しかし、1945年8月9日原爆により天主堂は破壊され、北側 の鐘楼は現在の位置まで崩れ落ちました。1959年に浦上天主 堂は再建され、この鐘楼は原爆により破壊された旧浦上天主堂 の被害を、当時と同じ場所で物語る唯一の遺構となりました。

浦上天主堂

 被爆マリア像
かつて東洋一とうたわれた浦上天主堂の正面祭壇の最上段に安置さ れていた無原罪の聖母像は、木彫の寄せ木細工で、高さが2mに及び、 その美しさと優しさに満ちた姿のために人々に親しまれ愛されてきた。
そのマリア像は、原爆で崩壊した天主堂と共に破壊、焼失したもの と思われていたが、被爆しながらも数奇な運命をたどり、高さ26cm の 顔の部分だけを残す変わり果てた姿で発見された。
右ほほは原爆の火で黒く焼け、彩色は取れ、清く澄んだ優しい輝き に包まれていた目は、空洞のまま憂いを漂わせている。かくも痛まし く傷つきながらも、人類の平和と救いの仲介者であろうとする被爆マ リアの姿が見る人の心を打つ。

伊能忠敬(長崎町測量時宿)

旧稲佐山区公会堂

 伊能忠敬ら江戸幕府天文方測量御用一行は、九州第二次測量 において、文化10年8月18日から9月2日(1813年9月12日 〜9月25日)と9月16・17日(10月9・10日)の16日間、ここに あった大同庵だいどうあん (皓台寺こうだいじ末庵)を宿舎とした。 新大工町木戸から測 量を始め、海岸線や町中を縦横に測量した。くんち前のお旅所 の様子や出島で象を見た事なども『測量日記』に書き残している。

横向き地蔵

横向き地蔵

 昔、ひとりの泥棒が、町でひとかせぎをしたあと、盗んだものを大きな包みにして背負っつ 歩いておりました。 「さあ、このあたりでひと休みじゃ」と、町はずれの、森の木陰で男は、 包みを開いて、 盗んだ品物を調べはじめました。 ふと、男があたりを見まわすと、小さなほこらがあり、地蔵さまが立っておられます。 「地蔵さまにみんな見られたばい、こりやあ大ごとだい」と、男はひざまずいて、「地蔵さま、 、ゆるしてくだされ。 こんことは言わんと約束してくだされ。」と、頼みました。 すると、地蔵さまは、「いちどだけは、見のがしてやろう。 お前も人にしゃべるなよ。 と、顔をクルリと横に向けられたのです。
男は頭を、ペコペコさげながら立ち去りました。 それから三年後のこと、 地蔵さまは顔を横に向けたままの姿で立っておられました。 男はびっくりぎょうてん 、地蔵さまにお詣りに来る人をつかまえて、
「この地蔵さまは、不思議な方ですたい。お頼みしたことは、 かならず聞いてくださる。・・・・・・むかしのことですたい。 あれこれ・・・・・・」と、ある日の出来事を、すっかり話して しまったのです。 それを聞いた、お詣りの人は、「さては、三年ほどむかし、うちの だいじなものや、道具を盗んだヤツは、きさまだったのか・・・・」
と、男を奉行所に突き出した。 地蔵さまは、すっかりお見とおしだったのです。 それからは「横向き地蔵」と呼ばれ、人々から尊心されたということです。
         寛政三年九月 吉實

福沢諭吉

福沢諭吉

 福沢諭吉<1835~1901 大坂(中津藩蔵屋敷)生まれ> 慶應義塾けいおうぎじゅく の創始者である啓蒙思想家・教育家の福沢諭吉は、 大坂にあった豊前国中津藩士の次男 として生まれました。 安政元年(1854) 19歳の時来崎し、中津藩家老の子・奥平壱岐おくだいらいき の世話で、この光永寺に一時 寄宿し、その後、出来大工町できだいくまち にあった高島秋帆たかしましゅうほん 門下の砲術家・山本物次郎やまもともとじろう の家に移り、長崎で約1年間 蘭学を学びました。現在も福沢諭吉が使用したといわれる 井戸が出来大工町の一画に残っています。 また、滞在中は勉学に励むため、接客時以外には酒を飲まなかったともいわれています。
 安政5年(1858)江戸へ出て築地にて蘭学塾を開きました。これが、慶応義塾の起源と されています。万延元年(1860)咸臨丸かんりんまる で渡米し、慶応2年(1866)滞在中の見聞等をもとにして、 「西洋事情」 を発表し、当時の思想・風潮に大きな影響を与えました。また、 「学問のすゝめ」「文明論之概略」等 の著作を発表し、日本の近代化に貢献しました。

水辺の森

水辺の森

 夕陽に期待を込めて、散策

水辺の森

 

中島川に架かる橋(眼鏡橋など)

中島川に架かる橋(眼鏡橋など)

  中島川は自然にできた川ではなく、長崎開港後、ポルトガルや中国 との貿易港として栄えた南蛮時代に人工的に造られ た川です。かつて「大川」とも呼ばれていた中島川は、 まちの中心部を流れ、住民の生活のより所となる 「母なる川」として歴史的にも文化的にも重要な役割 を果たしてきました。明治末期頃、中島川は輸送用の 小船などが行き交い、重要な水路としてまだ利用さ れていました。  (説明版より)

袋橋の擬宝珠ぎぼしが とっても印象的だったので。

眼鏡橋

 眼鏡橋めがねばし
栄町一諏訪町 国指定重要文化財(昭和35年2月9日指定)
中島川の第10橋。 わが国最古の石造りアーチ橋で 寛永11年(1634)興福寺唐僧 黙子もくす 禅師によって架設された。 黙子禅師は中国江西省建昌府建昌県の人で、寛永9年 (1632)に日本に渡来したが、石橋を架ける技術指導者 でもあったようである。しかし、この眼鏡橋は正保4年 (1647)の洪水で損害を受け、慶安元年(1648)平戸 好夢こうむ によって修復がなされた。川面に映るその姿から、 古来より“めがね橋”の名で長崎の人たちに親しまれて いたが、明治15年(1882)に正式に眼鏡橋と命名された。

魚市橋

 魚市橋うおいちばし
魚の町一諏訪町
中島川の第9橋。最初、石造アーチ橋が元禄12年 (1699)岡正恒によって架けられたが、享保6年(1721) の洪水で流失した。その後も木橋や石造アーチ橋が 架けられたが、全て洪水によって流失した。現在の 鉄筋コンクリート橋は、大正14年に架けられたもの である。この橋は、今魚町橋などとも呼ばれたが、往時、 この付近一帯にあった魚市場にちなんで、明治15年 (1882)に魚市橋と命名された。

東新橋

 東新橋ひがししんばし
魚の町一諏訪町
中島川の第8橋。最初、石造アーチ橋が寛文13年 (1673)に架設されたが(架設者不詳)、享保6年(1721)の 洪水で流失した。昭和57年(1982)の洪水で流失した 石橋は、この位置では3度目の石橋アーチ橋で、寛政 12年(1800)長崎奉行所によって架設されたもので あった。この橋は、東に新橋町(現・諏訪町)があること にちなんで、明治15年(1882)に東新橋と命名された。

一覧橋

 一覧橋いちらんばし
桶屋町一麹屋町
中島川の第6橋。最初、石造アーチ橋が明暦3年(1657) 高一覧こういちらん によって架設されたが、享保6年(1721)の洪水で 流失した。高一覧は中国人高寿覚の子で、深見久兵衛と 称して唐通事(中国語の通訳)を勤め、慶安3年(1650)には 大手橋(現存)を架設している。昭和57年(1982)の洪水で 流失した石橋は、この位置では3度目の石橋アーチ橋で、 享和元年(1801)長崎奉行所によって架設されたもので あった。この橋は、桶屋町橋などとも呼ばれたが、最初の 架設者にちなんで、明治15年(1882)に一覧橋と命名された。

古町橋

 古町橋ふるまちばし
古町一麹屋町
中島川の第5橋。 最初、石造アーチ橋が元禄10年 (1697)河村甚右衛門の 母妙了みょうりょう によって架設されたが、 享保6年(1721)の洪水で流失した。 昭和57年(1982) の洪水で流失した石橋は、この位置では3度目の石橋 アーチ橋で、享和3年(1803)長崎奉行所によって架設 されたものであった。この橋は、古町に架かることに ちなみ、明治15年(1882)に古町橋と命名された。

シーボルトの桜

シーボルトの桜

 シーボルトの桜
この桜はシーボルトによって1866年頃ヨーロッパに紹介され、 始めて見る桜にヨーロッパ人は魅了され、広まりました。 ヨーロッパでは、日本の有名な浮世絵師、葛飾北斎の名前を とって、ホクサイと呼ばれました。 この桜は八重桜の一種です。 普通は、桜の花には香りがありませんが、この花は芍薬(しゃくやく) のような香りがします。花は長い期間咲き、薄いピンクで7個から12個の花びらを つけます。140年後に長崎に帰ってきました。   2006年3月 NPOながさき千本桜 (説明版より)

長崎歴史博物館

最古の地球儀

 最古の地球儀
ベハイム地球儀(複製)
Behaim's Globe(replica) 1492年
ニュルンベルグの商人マルティ ン・ベハイムが製作した現存する 最古の地球儀。「ジパング」が描 かれており、『東方見聞録』の影 響が見られる。  当時の長崎の様子などがうかがえる。もっと様々なものが残っている かと思っていたが、残念です。

オランダからの輸入

 

オランダからの輸入

 15秒間動かないでください。…で撮った写真がこれ、坂本龍馬と一緒の写真。

松森天満宮の大クス

松森天満宮

 「学問の神様」 松森天満宮まつのもりてんまんぐう 
1625年今博多町に創建し、 1656年現在のこの地に遷宮いたしました。
祭神は菅原道真公、天穂日命、菅原是善命であり、 江戸時代より学問の神様として 信仰されております。

松森天満宮

 市指定天然記念物 松森神社まつのもりじんじゃの クスノキ群
指定年月日 昭和49年6月18日
所在地 長崎市上西山町 4-30
所有者 松森神社
松森神社周辺の境内に点在する7本のクスノキである。これらは樹高はおよそ 20〜 25m、胸高幹囲むねだかみきまわりは 大きい方から 7.8m、5m、3.5m、3.3m、2.7m、1.9m、1.7m である。いずれも樹勢がよい。 なかでも最大のものは大小の枝を四方に広げ、東西へ 30m、南北へ 30m の美しい樹冠 をつくっている。地上に盛り上がった根張りも雄 大である。
 クスノキはクスノキ科の常緑高木で、ただ単にクスともいう。 英語ではキャンファツリー (Camphor tree)と いうが、居留地時代の外国人は、この地に続く玉園山をマウント・オブ・キャンファと いっていたという。    長崎市教育委員会(平成29年設置)

松森天満宮

 

風頭公園からの景色と司馬廉太郎の文学碑

風頭公園からの景色と司馬廉太郎の文学碑

 風頭山かざがしらやまからの夜景
 夜景にも様々な個性があります。長崎の夜景は、 主に山に沿って立ち並ぶ家々からもれる小さくて あたたかい光がつくる夜景です。長崎出身の歌手・ さだまさし氏は「長崎小夜曲」の中で、この光を 「宝石箱」にたとえました。長崎駅より東方3kmに 位置する風頭山(標高151.9m) からは、長崎らしい 入り組んだ複雑な地形が分かる夜景と眺めが特徴 です。長崎市内には風頭山のほかに、1000万ドル の夜景と激賞される稲佐山のほか、 鍋冠山なべかんむりやまなど から美しい夜景を見ることができます。

風頭公園に立つ坂本龍馬

 

司馬廉太郎の文学碑

  船が長崎の港内に入ったとき、
竜馬は胸のおどるような
思いをおさえかね、
「長崎はわしの希望じゃ」
 と、陸奥陽之助にいった。
「やがては日本回天の足場になる」
ともいった。
     司馬廉太郎
      「竜馬がゆく」より
司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑
 司馬遼太郎氏は、戦後日本を代表する国民的作家である。そ の優れた作品は、数限りない人々に夢と勇気を与えてきた。そして、 これからもそうあり続けることであろう。われわれは、司馬遼太郎氏の 長崎における足跡を確かめ、その業績を顕彰するとともに、長崎の 街の振興に資することを目的として、代表作「竜馬がゆくから」文を 選び、ここに文学碑を建立するものである。   平成10年2月1日 亀山社中ば活かす会

ルルド

ルルド

 コルベ神父のルルド案内
【ルルドとは、フランスの町の名前です】
ルルドとは、フランスの南にある町の名前です。
今から140年ほど前、この町の少女ベルナデッタに、聖母マリアさ まが19回にわたって、ご出現になりました。ベルナデッタは聖母マリ アさまから、足元の土を掘るように言われます。少女がその通りに足 元の土を掘りますと、泉が湧き出て、その水は沢山の病気を癒す奇跡 の水となりました。
 以来、フランスのルルドの町は著名な巡礼地となり、年間600万 人以上の参詣者が各国から来ています。大きな教会も出来ました。
【1932(昭和7)年5月、コルベ神父は
        聖母の騎士修道院にルルドを開いた】
 コルベ神父は、ポーランド国を出て東洋へ向かう旅の途中、フラン スのルルドへ参詣し、その時、東洋にもマリアさまのルルドを作るこ とを決心しました。
 コルベ神父は、聖母の騎士修道院の裏山に最適な場所を見つけ、 人々の幸福を願って、この場所にルルドを作りました。そしてコルベ 神父は毎日ここへ来て、平和を祈っていました。マリアさまのお恵み の水は、 常に流れ出ています。

ルルド

 

ルルド

 【永井隆博士は、このルルドの水で奇跡を受けた】
 聖コルベが開いたルルドの泉は、これまで多くの恵みや奇跡を起 こしています。中でも有名なお恵みが、永井隆博士(長崎医科大学教 授で、原爆を被爆した医師)の体験です。
永井隆博士は、原子爆弾で首の部分を怪我しました。その後、傷は 化膿し、エソという病気になったため、原爆の丘で友人の外科教授に 手術してもらいましたが治りません。博士は苦しんでいた時、聖母の 騎士のルルドの水をいただいて快癒しました。永井博士は、「マリア さまの恵みが、現実に、私にも与えられた」と、その喜びを手記に書い ています。

ルルド

 

オランダ坂

オランダ坂

 オランダ坂
かつて長崎の人々は、出島に住むオランダ人の影響から開国後も東洋 人以外の外国人を「オランダさん」と呼び、「オランダさんが通る坂」と いう意味で、居留地の石畳の坂を一般に「オランダ坂」と呼んでいたそう です。この下のオランダ坂は、明治の初め頃にニールズ・ルンドバーグ という買易商が特別な火薬で開削したもので、写真は道路拡幅前の昭和 30年代の様子です。居留地界隈のオランダ坂は、映画やテレビのロケで 数多く撮影され、長崎を 代表する人気スポットの 一つです。

オランダ坂

  大浦居留地から見た大浦天主堂
大浦居留地 (現在の昭和会病院付近)から南山手の大浦天主堂方面を 望んだもの。大浦天主堂は正面側に建設足場が組まれ、竣工間際の最後 の仕上げをしているところと推測でき、元治元年(1864) 末頃の撮影と 思われます。天主堂の右側は、初期の司教館で、その下に妙行寺の鐘楼・ 本堂などが並び、グラバー住宅下方の斜面には、段々畑の面影が残って います。また、洋館も入母屋造りの屋根や漆喰塗りの外壁が多く、洋風 建築初期の様相を呈しています。手前の長い倉庫は大浦甲33番(現在 のNTT西日本長崎病院)に建っていました。 保存地区は、丘陵の東山手町の大部分と、海岸寄り の大浦町の一部で、面積約7.5ヘクタールの範囲です。 この地区は、1859年(安政6年)に横浜、函館ととも に、新しい時代の自由貿易港として開港され長崎居留 地が形成された場所です。
 大浦の商館と海を見下ろす丘に位置し、ポルトガル、 プロシア領事館や礼拝堂などが建ち、当時は、領事館 の丘と呼ばれていました。現在も領事館や住宅などの 洋風建物や居留地時代の石畳、石垣、石造り、煉瓦 塀、樹木等が一体となって歴史的環境が残されています。
 長崎市では、こうした町並みを、末永く後世に伝え残 すため、平成2年10月に長崎市伝統的建造物群保存地 区保存条例により、保存地区を定めました。
 さらに、平成3年4月に国の「重要伝統的建造物群 保存地区」として選定を受け、地域住民とともに貴重 な町並みの保護保存に努めています。      長崎市教育委員会

グラバー園

グラバー園

 Former Glover House
旧グラバー住宅
指 定:国指定重要文化財(昭和36年6月7日)
建築年代:1863年(文久3年) 構造形式:木造平屋建、ペンキ塗、寄棟造桟瓦葺、ベランダ付
建築様式:コロニアル
建築者:山秀之進
○現存する日本最古の木造洋風建築
○「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の 構成資産の一つとして世界遺産登録(2015年7月8日)
 グラバーは1863年(文久3年)に、現在の場所(旧南山手3番)に自邸を建てました。 建築者は天草出身の日本人大工 小山秀之 進(のちに秀となる)です。小山家は長崎の外国人居留地の造成や洋風建築を請け負っていた 一族で、秀之進は旧グラバー住宅のほ か、大浦天主堂(1864年竣工)や旧オルト住宅(1865年建築)も手掛けています。

グラバー園

 旧グラバー住宅は、建設当初はL字型の平屋建てでしたが、幾度となく増改築を繰り返し、 現在の形となりました。建物の特徴 としては、平屋建てに、端部が独特な半円系を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱、 菱格子の天井と広いベランダを持 つバンガロー風であることがあげられます。また、煉瓦でできた煙突や、鎧戸が付いたコロニア ル風の大きな窓も特徴的です。 室内は、手前にリビングルームやダイニングルーム、 奥に進むとイギリス式の暖炉がある寝室や厨房があり、西洋風の造りになっ ています。一方、屋根は日本瓦に覆われ、壁は日本伝統の土壁を使用しており、 まさに和と洋が融合したような建物になっており、 これらの特徴から木造洋風建築と云われるようになりました。
 1961年(昭和36年)には、現存する日本最古の木造洋風建築として国指定重要文化財に登録 され、さらに2015年(平成27年) 7月、グラバーの日本近代化への功績が認められ、 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、 世界遺産に登録されました。

 残念ですが、改修中(2019年4月)であった。

グラバー園

 Thomas Blake Glover
トーマス・ブレーク・グラバー
 1838年、スコットランドのフレザーバラで7人兄弟の5番目に生まれ、その後 アバディーンに居住地を移し、少年期 を過ごしました。
 青年となったグラバーは、イギリスの貿易会社ジャーディン・マセソン商会に 入社し、1859年(安政6年)に開港した 長崎に若干21歳でやって来ます。長崎に来た理由としては、ジャーディン・マセソン商会 の代理人ケネス・ロス・マッ ケンジー(Kenneth Ross Mackenzie, 1801-1873)のサポートをすることでした。
 しかし、マッケンジーは天津条約(1858年)によって開港した中国漢口での業務のため、 長崎での仕事をグラバーに任せて長崎を離れました。そのため、グラバーは20代前半の 若さで異国の地 長崎でジャーディン・マセソン商会の 仕事を行うことになりました。グラバーは、この仕事を引き継ぐことを前提に 1862年(文久2年)グラバー商会を設立。 貿易商人として本格的に活動を開始しました。
 また、長崎で貿易商人として奮闘する傍らで、グラバーには家族ができます。 グラバーは淡路屋ツル(1851 - 1899) という日本人女性と生涯連れ添い、 2人の間にはハナ(1876-1983)という女児が生まれました。またハナより6歳年上 で、加賀マキという女性が母である倉場富三郎という男児も一緒に暮らしました。
「貿易商人」グラバー
 貿易商人として長崎で活動するグラバーは、その当時人気が出てきた日本茶の製茶業に 力を入れながら、近代的な 機械や船、武器等を輸入し売買をしていました。
 このように来崎以降、商人として日本の各所と取引が出来たのは、 グラバーの流暢な日本語が要因の1つと考えら れます。1863年(文久3年)、当時の駐長崎英国領事のジョージ・モリソン (George Morrison, 1830? -1893)が上司に 送った報告書には、次のようにグラバーを評価しています。
 グラバー氏は日本に長け、社交的で、高い階級の日本人と友好関係を持っており、 彼らにとても尊敬されています。
 長崎に来て4年間で日本語を習得し、さらに様々な日本人との信頼関係を築けていたこ とが伺えます。
 グラバー商会と取引を行ったところとして、西南雄藩(摩・長州・佐賀・土佐)が挙げら れます。これらの藩は倒幕派ですが、一方でグラバー商会は幕府支持派にも武器等の 取引をしています。幕末の動乱期にこのように対立する双方に武器の売却をする グラバーの姿 から、彼には「死の商人」という異名が付けられました。しかし、現在の研究では、 他の多くの外商たちが水面下でグラバーと同様の取引を行っており、 グラバーにとって武器の売買は、社会情勢に合わせた一部の貿易活動に過ぎなかったと 考えられています。また、グラバーは幕末の志士たちに対して、 私財を投じてまで援助をしていることから「志の商人」と するべきではないかとも言われています。
グラバーのその後
来崎以来、様々な面で勢力的に活動をしていたグラバーですが、「グラバー商会」は 1870年(明治3年)に倒産。理由と しては、各藩へ代金後払いで商品売買した分の代金回収がうまくいかなかったことと、 ジャーディン・マセソン商会からの援助が絶たれたことが主な要因と言われています。
 しかしながら、産後もグラバーは積極的に活動を行い、高島炭坑での事業の中で、 経営権を持った三菱商会の社長 岩崎太郎(1835-1885)との出会いにより三菱の顧問となります。また、 1881年(明治14年)から1887年(同20年) までポルトガル領事を務め、 「鹿鳴館」の外国人名誉書記にも就任、さらに1885年(明治18年)、キリンビールの前身 となる横浜の「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立に関わり、 1897年(明治30年)には三菱の相談役として上京し、 三菱本社に勤務するなど、経済人として多忙な日々を送りました。
 1908年(明治41年)には、明治の日本に貢献したとして明治政府より、 外国人としては初めての勲二等旭日重光章 を授与されます。そして3年後の1911年(明治44年)、東京の自宅で慢性腎炎の発作 により73歳の生涯に幕を閉じました。葬儀は東京で行われ、 遺骨はその後長崎に戻り、現在も伴侶であるツルと共に坂本国際墓地で眠っています。        (説明版より)

大浦天主堂

大浦天主堂

 記念碑文
紀元1865年(慶応元年)二月十九日、 仏人宣教師プチジャン神父(後の初代長崎司教)により大浦天主 堂が建立されたが、同年三月十七日、 天主堂参観の浦上の住民等十数名が 同神父に近づき「私達もあなた様と同じ心の者でございます。
サンタ・マリヤの御像はどこ」 と云った彼等は三百年に亘る厳しい 迫害を堪え忍び、ひそかに守り伝え たカトリックの信仰を表明した。 日本キリスト信者のこの信仰宣言は 史上に例のない事実として全世界を 驚歎させた。その感動的な場面をこ の碑に再現し、信者を発見百周年記念として建立するものである。
1965年3月17日
信者発見百周年行事委員会

大浦天主堂

 

渡鳥塚

渡鳥塚

  文化10年(1813)、長崎の俳人 平田祥禾しょうかを 始めとして、当時の焦門俳人(松尾芭蕉の門下の俳人)が、松尾芭蕉翁 120回忌、 向井去来 110回忌に当たり、長崎街道沿いの馬町が管理する墓地に建立したものである。 芭蕉の句

    「めにかかる雲やしばしの わたり鳥 」

(太陽にかかる雲かと思うほど、 鳥の群れが空を覆って渡っていく。)(建立当時のベストセラー 「芭蕉句選拾遺じゅうい」 所収句)を表面に、蕉門俳人で長崎出身の向井去来の句 「故さとも今はかり寝や渡りどり  落柿舎らくししゃ」 (生まれた故郷も、今では仮りの寝場所となってしまった。自分は、 あの渡り鳥と同じような身の上だ。)を右面に刻み、裏面に「文化十とせの夏みな月 蕉門の師弟こころを合わせて建けるよしを祥禾しるす」と刻んである。
 長崎では、芭蕉の句を刻んだ塚は数基建立されたが、芭蕉・去来の師弟の句が刻まれた 碑はほかになく、文学的にも大きな価値を持つものである。

平和祈念像

平和祈念像

 平和祈念像
この平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの 同胞市民を失い、筆舌につくし得ない悲惨苦に当面した長崎 市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現 せしめてはならないという切なる念願により、世界恒久平和の シンボルとして昭和30年(1955年)8月の原爆10周年 記念日に建立されたものであります。
 平和祈念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財 によって、彫刻界の権威、北村西望氏製作による全長約10m の青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の脅威を示し、 水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和のすすめる姿であり、 頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または 「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者のめい福を 祈っている姿であります。
なお、折り曲げた右足はめい想即ち静、立った左足は救済即ち動、 何れも神仏の特性を表現したものであり本像はその規模において、 またその思想において、この種の彫刻としては、世界にもその類を 見ない雄大な芸術作品であります。    長崎市
            

平和祈念像

        

平和祈念像

 平和祈念像作者の言葉
あの悪夢のような戦争
 身の毛も一よだつ凄絶悲惨
  肉親を人の子を
かえり見るさえ堪えがたい真情
 誰か平和を祈らずにいられよう
茲に全世界平和運動の先駆として
この平和祈念像が誕生した
山の如き聖哲
それは逞しい男性の健康美 全長三十二尺余
右手は原爆を示し左は平和を
顔は戦争犠牲者の冥福を
 是人種を超越した人間
  時に仏 時に神
長崎始まって最大の英断と情熱
 今や人類最高の希望の象徴

昭和三十年春日   北村西望きたむら にしも
       

如己堂

如己堂

 如己堂にょこどう
長崎市名誉市民、永井隆医学博士の病室兼書斎。
島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線 医学を専攻した。当時は結核患者が多く、医療機器も不十 分だったことから、放射線を過量に受け、「慢性骨髄性白血 病、余命3年」と宣告された。
 その2ヶ月後、原爆を被爆し大けがを負って、妻までも 失ったが、被災者の救護活動に積極的に取り組み、ついに は寝たきりとなってしまった。
 しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒 としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊も の著書を執筆した。
 博士は、この建物を「己の如く隣人を愛せよ」との意味 から『如己堂』と名づけ、ここで2人の子どもと生活した。 そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと、平和の 尊さを発信し続け、昭和26(1951)年5月1日、43歳で永 眠した。
博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け 継がれており、如己堂はその象徴となっている。
       長崎市教育委員会

如己堂

 この二畳ひと間の小さな家は昭和二十三 年春長崎浦上の隣人たちから贈られ たものです。 永井 隆博士は「己の如く人を愛せよ」 というキリストの「みことば」を常に口にし実 行する人でした。
博士は家を建ててくれた人々の心を忘 れず自分もこの愛に生きようとする心 から「如己堂にょこどう」と名づけました。
昭和二十六年五月一日、四十三歳の生 涯を閉じたその日まで書斎兼病 室としてここに住んでいました。

如己堂