石塔寺
石塔寺
阿育王塔略縁起
阿育王塔は寺伝に依れば、釈尊御入滅二百年後、印度の阿育王が
仏法に深く帰依し、八万四千の塔を造り、仏舎利を納めて世界に撒き給ふと。
日本に二基来るうち一基は当山中に埋まれり、
然るに平安中期、比叡山の僧寂照法師、長保五年に入宋留学し、
清涼山にて修行中、日本国近江渡会山に阿育王塔の埋まれる事
宋僧より聞き、手紙にてこのことを日本に知らせたり、三年の後
播州増位山随願寺の義観僧都この手紙を入手し、時の帝一条天皇に奏するに、
帝このあたりを探索せしめ給ふ、時に野谷光盛なる武士、山頂に不思議なる
塚あり、阿育王塔定めしその内ならぬと奏上するに、帝勅使平恒昌をつかわし、
光盛等と共に発掘せしに、大塔出現したり。
この事、帝に奏するに、帝の叡感浅からず、往古人皇三十三代推古天皇の
御世聖徳太子、近江の国に四十八箇寺の伽藍を建立し給ふ、その最後の
結願の建立で、本願成就寺と称せしに、四百年後の今、亦阿育王塔を得たり、
仏縁深き霊地ならんと、七堂伽藍建て改め、石塔寺と号を下し給ふ、時に
寛弘三年なり。それより以後、近郷は勿論異郷他国の人々の信仰をあつめ、
善根功徳の為に五輪塔石仏を山上に奉納したるに、年を重ねて無数になれり、
但し現在の如く整然たるは、昭和初期、岡山県の福田海を大施主とする、
集坐偉業の賜物なり。
尚学説に依れば、阿育王塔は推定飛鳥時代と云われ、日本最古の塔であることは
定説であるが、応仁の乱、織田信長の元亀の兵火等に罹り、伽藍文献等を
焼失し、八十余坊を数えし末坊等も僅かに小字名等に残るは遺憾なり。
但し無数の石塔石仏は王塔をめぐり無碍の浄土に安住する如く、無量無辺の
醍醐味と利益功徳を施与し給わん。
経日 「一見卒塔婆 永離三悪趣」 合掌 (パンフレットより)
国重要文化財の阿育王塔
総高7.5m
壇上の宝塔、五輪塔は国重要文化財で左から
・宝 塔 正安四年(1302)
・五輪塔 嘉元二年(1304)
・五輪塔 貞和五年(1349)