青石畳通り

青石畳通り


美保関の歴史
 島根半島の東端に位置する美保関は、古くから海運の拠点として 重要な位置にあり、江戸時代には北前船の寄港地としても繁栄しま した。現在に残る青石畳通りやおかげの井戸、町なみの風景は当時 の面影を伝えるものです。
 また、美保関は「古事記」や「日本書記」に見られる国譲り神話 の舞台としても有名で、美保神社には神話に因んだ「青柴垣神事」 と「諸手船神事」が伝承されています。
 神話と歴史が息づくみなと町「美保関」のまち歩きをお楽しみ下 さい。



三代家住宅主屋

三代家住宅主屋

 松江市登録歴史的建造物
登録番号 :第4号
登録年月日:平成29年8月23日
三代家住宅主屋
Main Residence of the Mishiro Family
 三代家住宅主屋は、青石畳通り沿いに位置し、かつて廻船問屋が建ち並んでいた当時の面影を伝え る木造2階建の建物です。
 三代家の「米子屋」という屋号は、廻船業で米子の商人との取引を主としていたことに由来します。
 現在の建物は昭和5年(1930)に3軒の建物を1軒に改修したもので、往時は正面から向かって 右側が米子屋本家、真ん中が丸屋、左側が米子屋分家でした。米子屋分家部分には文久2年(1862) の棟札が残っています。
 外観には桟瓦や板壁、格子などを使用し、美保関の町家の特徴である出桁や持ち送り梁といった意 匠が施されています。日本海沿いの海運の拠点として栄えた美保関の歴史を語る上で貴重な建物です。

青石畳通り

 

美保館

青石畳通り

 松江市登録歴史的建造物
登録番号第14号
。 登録年月日:令和3年3月22日
 旅館美保館本館
 Mihokan main building (Traditional Japanese-style Inn)
 旅館美保館本館は、青石畳通り沿いに位置する老舗和風旅館です。所有者の定秀家は、江戸 時代には北前船との取引を行い、廻船問屋として栄えてきました。明治38年(1905)からは、 旅館業を営み、明治41年(1908)に本建物の青石望通りに面する部分を建築、大正期に海岸 側に立つ部分を建築し、その後昭和初期の増築などを経て、現在も旅館や迎賓会場として営業 を続けています。
 青石畳通り側の部分と海岸側の部分との間には、光が差し込む大きな吹抜け空間がありま す。全体的に繊細な数寄屋風で、窓・欄間・手摺など各所に趣向が凝らされ、特に玄関の唐破 風は客人の目を引きます。明治後期から昭和初期の旅館建築の面影を伝えるとともに、美保神 社への参拝などで多くの要人、文人墨客が逗留するなど美保関の歴史を語る上でも貴重な建物 であるといえます。

青石畳通り

 

青石畳通り

 

青石畳通り

 

青石畳通り

 

三保神社

三保神社

 美保神社に伝わる伝統行事
●青柴垣神事(あおふしがきしんじ)
 美保神社で毎年4月7日に行われる神事 です。
 事代主命が、大国主命の使者から国譲 りの相談を受け、承諾した後に自ら海中 に青い柴垣を巡らせて籠ってしまったと いう出雲神話に因んだものです。
 事代主命と三穂津姫命の依り代となっ た2人の當屋が2隻の船に乗って美保湾を 巡ります。
●諸手船神事(もろたぶねしんじ)
 青柴垣神事と同様に国譲り神話に因 んだ神事で、毎年12月3日に行われま す。
 大国主命の使者が熊野諸手船に 乗って国譲りの相談に来る様子を再 現したもので、美保湾内で2隻の諸 手船が水を掛け合いながら廻る様子 が有名です。

三保神社

 

三保神社

 

佛谷寺

佛谷寺

山陰第2の古刹
 国の重要文化財五?
   薬師如来  日光菩薩  月光菩薩
   ?空藏菩薩 聖觀世音菩薩
これは約千二百年前平安初期、貞観仏)の一木造り 出雲様式の代表的仏像で山陰最古の一木像仏で あります 昔 海中に三ツの怪火が現われ波風荒れ 狂い住民航海者は難を極め三火ミホ)と呼んで恐れ ていました この諸仏はその頃行基菩薩がこの地を巡?し 諸人の難を救う為  海中の三火を封じて斎戒精進し 彫刻されたと伝えられる 霊仏であります
その他 阿弥陀如来 毘沙門天の二?も安置しています

佛谷寺

 

佛谷寺

 

佛谷寺

     吉三地蔵
  天和二年(一六八二年)十二月江戸丸山に大火があり 八百屋お七の一家は駒込の吉祥寺に仮宅する ようになった 寺には住職に可愛がうれている寺小姓の吉三が おり二人は たちまち深い仲となった まなく お七の家が新築 成ったので丸山に帰ると お七は吉三に自由に会ない余り 床に臥してしまった その時 吉祥寺の門番の子、もう一度 自宅に火をつければ吉三に会えると そそのかされた天和三年 三月お七は放火の罪による 鈴ヶ森刑場で火刑となた それを知った吉三は お七の冥福を祈るため出家西運・ 称して江戸から西へ向かい各地の名刹にお七のお地蔵を 建て遺品を納めた
 元文二年(一七三七年)十月四日當寺に於いて七十歳で 亡くなった 過去帳に「門横に葬る」と記されてある 人々は この死を悼み御堂を建立寺 吉三とお七の霊を弔った

弁天波止場の常夜燈

弁天波止場の常夜燈

 弁天波止場の常夜燈
 弁天波止場の常夜燈は、灯台の役割 を果たす燈籠として、天保13年 (1842)に建てられました。
 その後明治3年(1870)に再建され ましたが、風化により老朽化したため、 平成23年度に来待石で再建しました。 海運で栄えた美保関のシンボルです。  平成24年3月 松江市

弁天波止場の常夜燈

 

弁天波止場の常夜燈

 

小泉八雲記念公園(島屋跡地)

小泉八雲記念公園(島屋跡地)

 小泉八雲記念公園(島屋跡地)
ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の美保関滞在
 ハーンは明治二十四年、同二十五年、同二十九年の各夏、三回にわたり 美保関を訪れ滞在した。一回目は松江から伯耆各地を経て帰りに立ち寄り、 二回目は熊本から隠岐に遊び境港からこの地に来て、境港に入る下関行きの 汽船を待った。いずれもセツ夫人同伴であった。三回目は神戸からセッ 夫人、長男一雄を同伴し、松江を経てこの地に約一ヶ月留まり遊んで、一雄 に水泳の手ほどきをした。
ハーンと島屋
 ハーンの美保関での宿屋は一回目が島屋(門脇寛一)、二回目が福間館 (福間治兵衛)にしばらく滞在し、あと島屋へ、三回目も島屋であった。
 二回目から島屋の遠縁の恩田カネが頼まれてセツ夫人の髪を結った。 カネ はそれまでの「銀杏(いちょう) 返し」を「丸髷(まげ)」に直したところ、 ハーンがとても気に入り喜び、その当時の髪結い賃は普通五銭であったが、 ハーンは壱円を祝儀としてはずんだ。

小泉八雲記念公園(島屋跡地)

 小泉八雲はここ美保関を三度訪れ、町はずれの船宿 「島屋」に宿をとった。 港町での様々な生活風習を題 材にした紀行文「美保関にて」を世界へ向けて 発信した。
このレリーフは、1896年(明治 29年)に神戸で撮影され た写真をもと に制作したもので、同年7月には家族そ ろって美保関を訪れている。
(左から八雲・長男一雄・妻セツ)

小泉八雲記念公園(島屋跡地)

 美保関と小泉八雲
 美保関には古くから文人墨客が多数訪れてい ます。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もそ の一人で、三度来関し、美保湾の美しい風景を 「深いきれいな水をたたえた半月形の入江」と 日本瞥見記*1) の中で表現しています。
 小泉八雲が来関した際に宿泊した宿屋「島 屋」の跡地は「小泉八雲記念公園」として整備 されています。
*1)「美保関にて」
 二階から海を見晴らすこの小ぎれいな小さな 宿屋は、ちょうど三日月なりをした美保の関の 町の、ほとんどはずれに近いところにある。そ して美保神社は、宿からいうと、ちょうどその 反対のはずれにあるのだから、神社へ参詣を するには、歩いて町をずーっと通りぬけなければ ならない。

〜 中略 〜

 しかもその通りの狭いことは、こっちの浜がわの家の二階から、むこうの 山がわの家の二階へ、ひょいと飛び越せそうなくらいである。が、狭い けれども、屋根のひさしや、拭きこんだ二階の手すり、ひらひらはためく のれんのぐあいなど、絵にかいたようになかなか美しい町だ。
 この本通りから、幾本かの路地が、水ぎわへとだらだらに降りていて、 路地路地のはずれは、みな石段になって尽きている。
            『日本瞥見記・第十章 美保の関』の一節
                       (平井呈一訳)
  平成二十四年三月  松江市

夫婦岩

夫婦岩

 夫婦岩

弁天波止場の常夜燈

 

弁天波止場の常夜燈