善光寺(長野市)

善光寺(長野市)

 「牛に引かれて善光寺参り」で 知られる 信州善光寺しんしゅうぜんこうじ(長野県)。 浄土宗大本山善光寺大本願(だいほんがん)と天台 宗大本山善光寺大勧進(だいかんじん)の二宗派の 大本山によって護られています。
 その御本尊 「一光三尊阿弥陀如来いっこうさんぞんあみだにょらい」 の御身代わり「前立本尊まえだちほんぞん」の 御開帳が、令和4年4月3日 (日)から6 月3日 (水)まで、さまざまな盛儀が営まれます。

山門
江戸時代中期の寛延3(1750)年に建 立され、国の重要文化財に指定されて います。様式は五間三戸二階二重門、 屋根は入母屋いりもや造りの栩葺とちぶきで、高さ、間口 とも約20bあります。老朽化により約40 年間、2階への登楼参拝は中断されて いましたが、「平成の大修理」によって 平成20(2008)年から再開しています。 2階には文殊菩薩騎獅もんじゅぼさつきし像が安置され、 「智慧の門」として受験生に人気。楼上 から望む門前町の景色は壮観です。

善光寺(長野市)
 「善光寺縁起えんぎ」によれば、一光 三尊阿弥陀如来は、インドから 朝鮮半島へ渡り、欽明きんめい天皇13年 (552)、 仏教伝来の折りに 百済くだらから日本へ伝えられた日本最 古の仏像とされます。
 信濃国司しなのこくしの従者として都に 上った本田善光ほんだよしみつと出合い、 今の長野県飯田市おまつりされ、後に 皇極こうぎょく天皇元年(642)に、現 在の地に遷座されました。同3年 (644) には勅願ちょくがん により 伽藍がらんが 造営され、本田善光の名から「善光寺ぜんこうじ」と 名付けられました。
 

善光寺(長野市)
 やがて江戸時代になり泰平の世 が続くと、「一生に一度は善光寺 参り」と多くの人々が参拝するよ うになりました。阿弥陀如来は、 念仏をとなえて一心に祈る者は性 別・身分を問わず、誰であっても 極楽浄土に導いてくださると、一 貫して無差別平等の救済を説く寺 院として知られていたため、女性 の参拝者が多いことが善光寺参り の特徴でした。
 多くの人々から尊崇を集めた 「一光三尊阿弥陀如来」は、絶対 秘仏で、誰しもが直接拝むことが できません。
 しかし、七年に一度の御開帳の 時にだけ、その秘仏の前に安置さ れる前立本尊(本尊の身代わりと なる同じ姿をした仏さま) の扉が 開かれます。御開帳の期間 前立本尊の指先から善の綱が本堂 前に建てられた回向柱えこうばしらに結ばれ、 柱に触れることで本尊とご縁を結 ぶことができるのです。

善光寺(長野市)
  鐘楼 (梵鐘 :重要美術品)
現在の鐘楼は嘉永六年(1853年)の再建で、六本 の柱をもつ珍しい形式で す。柱の本数は「南無阿弥 陀仏」の六字名号にちなむ と言われています。
梵鐘(重要美術品)は寛文 7年(1667年)鋳造の 名鐘で、毎日の時の鐘とし て用いられています。平成8年には「日本の音風景百 選」に選ばれ、平成10年2月7日の長野冬季オリン ピックでは、この鐘の音が 開会の合図として全世界に響き渡りました。

善光寺(長野市)
 濡れ仏 重要美術品
享保7年(1722年)に完 成した、高さ約2.7メート ルの延命地蔵菩薩座像で す。六十六部(日本全国を 行脚する巡礼者)の供養の ため、法誉円信が広 施主を募って造立したものです。
江戸の大火の火元として処刑され、のちに歌舞伎や浄 瑠璃の題材となった「八百 屋お七」の冥福を祈り、恋 人の吉三郎が造立したとい う伝説もあります。

善光寺(長野市)
 六地蔵
六地蔵は、われわれ衆生が 輪廻を繰り返す六つの世界 (六道)に現れ、迷いや苦し みから衆生を救ってくださ る菩薩です。向かって右か ら、地獄界・飢餓界・畜生 界・修羅界・人界・天界の地 蔵菩薩です。地獄界の地蔵 菩薩が蓮台から片足を踏 み出しているのは、一刻も早 く衆生を救いにいこうとい うお気持ちの顕れだと言わ れています。