鍵屋の辻決闘

事件の発端は、寛永7年(1630)7月21日の夜、備前国岡山藩士河合又五郎が同僚の渡辺源太
夫を殺害して、行方をくらましたことにはじまります。時に又五郎は19歳、源太夫は17歳でした。
藩主池田忠雄候は、又五郎の行方を探らせたところ、江?で直参の旗本安藤治左衛門方に
かくまわれていることが判明したので、身柄の引き渡しを申し出ましたがこれに応じなかったので
事件は大名と旗本との対決へと発展しました
源太夫の兄渡辺数馬は、藩主より上意討の免許をあたえられ、大和国郡山藩につかえる姉婿荒
木又右衛門に助太刀を頼み又五郎の行方を追い求めて旅立ちました。
諸国を逃げ回っていた又五郎は、武芸の達人河合甚左衛門、桜井半兵衛らに警護され江?に
下ろうと、寛永11年11月6日には奈良から笠置を越え、その夜、伊賀国島ヶ原に投宿しました。
これを知った数馬、又右衛門の主従4人は、翌7日、伊賀上野城下西のはずれの鍵屋ノ辻にある
茶屋萬屋で待ち伏せていました。
又五郎の一行11人は人目をはばかるように早朝の宿をたち、鍵屋ノ辻にさしかかったところ、
数馬、又右衛門は一行の前に立ちふさがり、仇討の主意を伝え、斬りかかりました。
又右衛門は、河合甚左衛門、桜井半兵衛とわたりあってこれを討ちとり主勢を崩しましたが、
まだ又五郎と数馬の勝負はついていなかったので、かけつけた又右衛門は数馬を叱し、激闘の
すえ遂に大願を成就しました。検視に立ち合った藤堂藩は、武門の作法にならい数馬、又右衛門
の武勇を讃えるとともに、又五郎の霊を懇ろに弔いました。世にこの本懐を「伊賀越鍵屋ノ辻の
血闘」とよび芝居などで天下の話題となりました。 (説明版より)

