猿橋(さるはし)
猿橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、
推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、
この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を作る」
とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、志耆麻呂(しきまろ)
と様々あるが、これ以外の伝説は見当たらない。
応永三十三年(1426)
竹田信長と足利持氏、大永四年(1524)竹田信虎と
上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地
でもありました。
江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州街道中の要衝と
して、御普請所工事(直轄工事)にて九回の架け替えと、
十数回に及ぶ修理が行われてきました。
この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖を
とめて、多くの作品を今に残しています。
昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定
を受け今に至っています。昭和九年、西方にある新猿橋の完成により
、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、
その後も名称として生き続けています。・・・
橋の長さ30.9メートル、橋の幅3.3メートル、
橋より水際まで30メートルです。 (説明板より抜粋)
(Map-Code#161 717 478)
日本の橋へ
橋脚を作れない所なので
両岸の側面からはね木をせり出させ、長さ31メートルの幅を
四層のはね木により橋を支えた珍しい構造である。
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