可睡斎

可睡斎

 可睡斎かすいさいの由来
可睡斎は寺の名前で、山号を万松山といい曹洞宗屈 指の名刹、およそ六00年前恕仲天ァ禅師のお開きに なった寺で、降って十一代時の住職仙麟等膳和尚 は、幼い家康とその父を戦乱の巷から救い出しました。 その後、浜松城主となった家康公は親しく和尚を 招いて旧恩を謝し、その席上でコクリコクりと無心に いねむりをす和尚を見て家康公はにっこり せられ、「和尚我を見ること愛児の如し、故に安 心して眠る。我れその親密の情を喜ぶ和尚睡る可し」 と言ってそれ以来「可睡和尚」と愛称され、後に 寺号も「可睡斎」と改め、駿河、遠州、三河、伊豆 四ヶ国の総録司という取締りの職をあたえ 拾万石の待遇にせられ、以来、歴代の住職は高僧 が相次ぎ、名実ともに東海道における、禅の大 道場として面目をほしままにしております。

可睡斎
   山門
禅宗寺院の七堂伽藍がらん の一つで、寺院の正式な入口。 古くは寺の南と東西に面して三つ、あるいは参道に沿って三つ設け られたところから三門または、山門と書かれた。
また一つの門でも、空(くう)、 無相(むそう)、 無作(おさ)の 三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。
また、可睡斎の山門は、昭和十年に当時、建築界の重鎮 特に寺社 建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼しておりましたが、完成にまで至らず、 七十六年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成二十二年に落慶いたしました。
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。
開口の阿形(あぎょう)像と、ロを結んだ半形(うんぎょう)像の ニ体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、 仁王(本来はニ王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。
言語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つも の」の意。
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば 見かける。
像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わに し、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。
こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。
* 伊東忠太博士は、一八六七年〜一九五四年は、山形県米沢市出身の明治〜昭和期の 建築家、建設史家である。主な建築物は築地本願などある。

可睡斎
 輪蔵りんぞう
 輪蔵とは、仏教の法宝である経典(総称を「大蔵経」または 「一切経」と称す)を収め置く、 寺院建築において古来より重要視 されてきた堂宇であり、由緒名刺寺院には欠くことのできない 大切なものです。
 可睡斎の輪蔵は、平成十八年の伽藍修復工事の一環で移築した 際建築当時の棟札が出てきた。
棟札の記述によると輪蔵建築の発願者は、可睡斎四十八世 日置黙仙禅師、後の大本山永平寺の第六十六世貫首貌下である。 日置禅師の意志を受け継ぎ、大正八年輪蔵を上棟したのは、 可睡斎 四十九世秋野孝道禅師、後の大本山総持寺独住七世貫首貌下であります。
 輪蔵を考案した傳大士ふだいし様(中国南北時代、斉の東陽の人 四九七年から五六九年)は明るい将来には、「大蔵経」に親しむ にありとして、当時、文字を知らぬ人、修学する環境にない人々 にも、広く仏教と縁を結ばせる為に輪蔵(八角の書架が中心に ある軸で回転できるもの)を考案したと伝わる。
 「輪蔵」を時計回しに一回転させると「大蔵経」を修学するのと 同じ功徳を得られるとされ、経蔵に対する信仰が深まった。

可睡斎
 『出世六の字穴』の伝説
 戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠江・森、袋井方面へと 攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。
 その後、家康は浜松城主となり、やがて駿府城、江戸城などを築き国を平定し、 江戸幕府を開いて将軍となった。
 その出世の故事になぞらえ、当齊のほら穴は、家康公の威徳を称えていつしか「権現洞」と、 また「出世六の字 穴」とも呼ばれるようになった。
 出世六の字とは、六道(地獄・餓鬼 ・畜生・修羅・人間・天上)の世間から解脱する 「出世間」からとも、あるいは六観音や六地蔵に由来するとも伝えられる。
なお、当齊にはその後、徳川幕府より駿河・遠江・三河・伊豆の寺院を統括する 「僧録司」の職と十万石の待遇が与えられた。

可睡斎
 大黒天