法隆寺

法隆寺

 史跡 法隆寺境内 法隆寺は聖徳太子創立、およそ一千四百年の 伝統をもつ大伽藍である  金堂、塔を中心とする西院伽藍は、よく上代 寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築 として、極めて価値が高いその寺地は天平十九 年の当寺資財帳に「方一百丈」とあり、また鎌倉 時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ 合致している。  夢殿を中心とする東院伽藍は、天平十二年行 信により聖徳太子の斑鳩宮故地に創立された が、天平宝字五年の東院資財帳に示される寺域 は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみ られる。  すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全 域は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を? 包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍などの重要遺跡 をもあわせて、その歴史的並びに宗教的価値は きわめて高いものである。

法隆寺
 南大門 法隆寺の玄関にあたる総門。三間一戸の八脚門で、当初は中門前 の石段上に建っていたが、寺域の拡張により現在の場所に移され た。法隆寺の伽藍への主たる入口であり、門前の松並木からこの門 を潜り抜けると幅広い参道に出る。永享7年(1435)に焼失し、現 在の建物は、永享10年(1438)の再建である。組入天井を張り、木 鼻や花肘木が用いられ、軒は中央から大きく反り上がっている。
 
法隆寺
 
 
法隆寺
 
 
法隆寺
 西室 西室は西院伽藍回廊の西に位置する僧房で、かつては僧侶が居住していた。 しかし承暦年間(1077~1081)に焼失、現在の建物は寛喜3年(1231)に再 建されたもので、北側十二間を西室、南側七間を三経院とする。西室は扉口と 連子窓を設け二間で1房をなす僧房で、内部は小部室に区分されていたが、 現在は間仕切のない広間とする。一方、三経院は蔀戸や側面に板扉がある住 宅風仏堂で、聖霊院とよく似た外観である。三経院の名称は聖徳太子が著さ れた『三経義疏』(勝鬘経・維摩経・法華経の3つの経典の注釈書)にちなむ ものである。毎年5月16日から8月15日までの夏安居の3カ月間、後方の西室 では太子の遺言によって、寺僧が三経の講義を行っている。
 
法隆寺
 西円堂 光明皇后の母、橘夫人が建立を発願し、行基菩薩が養老2年(718)に建立したと伝える。 八角円堂で、現在の建物は建長2年(1250)の再建であるが、凝灰岩の礎石や二重の須 弥壇に天平の創建当初の名残がみられる。堂内中央には薬師如来像を安置し、その周り を十二神将が囲む。また東面に千手観音像、北面に不動明王像が祀られる。西円堂では 毎年2月1日から3日まで、弘長元年(1261)から続く修二会(薬師悔過)が厳修される。ま た3日目の結願法要に続いて追儺会(鬼追式)が行われ、3匹の鬼が基壇の上から松明を 投げ、毘沙門天がその悪鬼を追い払う。 本尊の薬師如来像は、奈良時代に造られた丈六の大きな脱活乾漆造で「峯の薬師」と呼 ばれて親しまれている。光背は鎌倉時代の後補で、七仏薬師と千体仏が取り付けられて いる。八角形の裳懸座に結跏趺坐する大らかな像容で、左手には薬壺を持ち、病を治して くださる仏として、今も篤い信仰を集めている。また本尊には、自分が大事にする刀や弓、 鏡や櫛など、数多くの品々が各地から奉納されており、今も1万点を超える品々が保管さ れている。
 
法隆寺
 金堂 創建当初は同口八間で食堂と呼ばれ、塔と金堂の北側で閉じられた回廊の外に あり、設名たちが仏教を学ぶ場所として使われていた。延長3年(925)に落雷に よって焼失し、現在の建物は仏教研顔の中心的殿堂として、正暦元年(990)に創 建時とほぼ同じ規模で再建され、本的にその再建に合わせて造立した薬師三尊 像(国宝)が祀られた。中尊の薬師如来座像は高さ約2.5m、両脇に日光菩薩と月 光菩薩が坐し、須弥檀の前には、法要の際に講師と読師の僧が坐す高座が一対 設けられている。
 
法隆寺
 五重塔 現存する木造の五重塔としては世界最古の塔で、高さ約34m。飛鳥時代の建立 で、初重の塑像群が造立された和銅4年(711)には、すでに完成していたと考えら れる。塔を貫く心柱は、6世紀末に伐採されたヒノキ材が用いられた。初重には心 柱の周りに四天柱が立ち、それを覆うように塑土で須弥檀が築かれ、仏伝世界を 表す4つの場面が洞窟状の須弥山に表現されている。塔は初重から上層になるほ ど規則正しく搭身が細くなり、五重目の軸部は初重の約半分になる安定した姿が 特徴的である。初重には裳階が付き、上層の卍崩しの高欄や雲斗・雲月肘木などに 飛鳥時代の建築様式がみられる。また心礎は塔の基檀の下、約3mの地中深くに あり、そこにガラス製の舎利容器に入った仏舎利が納められている。なお五目の 上に延びる相輪には4本の大鎌が掛けられている。雷が落ちないための魔除けと 考えられ、法隆寺の七不思議の1つに数えられている。 現存する界最古の木造建築であり、五重塔と並び法隆寺西院議の中心となる 建造物である。入母屋造、二重の本瓦葺で、初重には板葺きの裳階が付く。桁行五 間、梁行四間の正方形に近い平面を持ち、天井は高く、支輪を折上げた組入天丼 とする。強い銅張りをもつエンタシスの柱、人字型の割束、雲斗や雲肘などの組 み物、卍崩しの高欄など、飛鳥時代に伝来した築様式や技法が随所にみられ る。堂内には正面三間、奥行き二間の須弥壇が設けられ、中の間に釈迦三尊像 (飛鳥時代)、東の間に薬師如来像(飛鳥時代)、西の間に阿弥陀三尊像(鎌倉時 代)が安置され、それぞれの頂上には華麗な天蓋が吊り下げられている。かつて壁 面には浄土図や飛天図などの壁画が描かれていたが、昭和24年(1949)1月26日 に起きた火災で小壁飛天図を除き焼損した。これを契機として、翌年に文化財保 護法が制定されている。なお現在、堂内の壁面を荘厳するのは、昭和43年(1968) に再現模写されたい壁画である。須弥壇上にはほかに、釈迦三尊像の両横に毘沙門 天像(平安時代)と吉祥天像(平安時代)、四隅に四天王像(飛鳥時代)が安置され ている。
 
法隆寺
 相輪
 
法隆寺
  聖霊院 法隆寺を創建した聖徳太子の尊像を安置する殿堂で、聖徳太子が薨去されて五百年に 当たる保安2年(1121)に、僧房東室の南端三房分が御堂とされ、弘安7年(1284)に建て 替えられて現在の姿となった。聖霊院内陣の奥にある唐破風を付けた厨子は三部屋に区 切られ、その中央には、同年に開眼された等身大の聖徳太子像、向かって右側の厨子に は、太子の仏教の師である高句麗僧の恵慈法師と太子の弟君にあたる卒末呂王、背後に 地蔵菩薩像、向かって左側の厨子には、太子の長子である山背大兄王と太子の弟君にあ たる殖栗王、背後に如意輪観音像が祀られている。
聖徳太子像 聖徳太子(574~622)は、6世紀半ばに中国大陸から日本に伝来した仏教の普及におい て、中心的な役割を果たした人物で、本像は推古天皇の御前で勝鬘経を講説された35歳 または46歳の時、あるいは摂政の姿とされる。毎年3月22日には厨子の扉を開いて、太子 の御命日法要であるお会式が営まれる。このとき大山立と言われる供物などで室内が荘 厳される。
 
法隆寺
 夢殿 宝珠が印象的な八角円堂で東院の本堂である。天平時代の創建で、鎌倉時代 の寛喜2年(1230)に高さや軒の出、組み物などが大きく改造された。軽やかで かつ安定した外観は、法隆寺の数ある建造物のなかでもひときわ美しい。また 夢殿の名称は、聖徳太子の夢の中に現れた金人の伝説に由来する。八角形の 堂宇は供養堂として建てられたものが多く、夢殿も例外ではない。この場所は 聖徳太子が住んでおられた斑鳩宮の跡地で、朝廷からの信任も厚い学僧で あった行信僧都は、その荒廃ぶりを嘆き、太子と一族の供養のために伽藍の建 立を発願し、天平11年(739)に夢殿を造営した。堂内には、聖徳太子の等身像 と伝える救世観音像のほか、行信僧都坐像、平安時代に東院を復興した道詮 律師坐像などが安置されている。
 
法隆寺
 
 
法隆寺