宝厳寺
一遍上人の誕生地
愛媛県指定記念物(史跡)
昭和二四年九月一七日指定
宝厳寺は一遍誕生の地といわれ、寺
伝によると、天智天皇七(六六八)年
斉明上皇の勅願で、国司越智宿弥守興
が創建、当初は法相宗に属し、その後
天台宗に転じた。後、時宗が隆盛し弟
子の仙阿がここに住むようになって、
正応五(一二九二)年寺は再建され時
宗に改めたとある。
時宗の開祖一遍は、河野通広の第二
子として延応元(一二三九)年に生ま
れた。幼くして僧門に入り、文永十一
(一二七四)年時宗を開き、翌年熊野
の地で神勅を受けて「南無阿弥陀仏」
と記した賦算を始めた。弘安二〇一二
七九)年には信濃国佐久郡で念仏踊り
を始めた。その後、正応二(一二八九)
年神戸真光寺で死すまで全国各地を念
仏遊行し、一所不在、
捨聖、
遊行上人
と尊崇された。
「一遍上人御誕生旧跡」の碑は、河
野一族の得能通綱が建立したと伝えら
れている。
松山市教育委員会
色里や十歩はなれて秋の風
正岡子規 (1867〜1902、慶応3年〜明治35年)
明治28年10月6日、快晴の日曜日だっ
たので、子規は同居の漱石と道後へ吟行、
この日のことを記した『散策集』に、「宝厳
寺の山門に腰うちかけて」と前書きしてこ
の句がある。文字は句集『寒山落木』の自筆
拡大。この日に
因
み80年目の昭和49年
10月6日建立。
子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋
酒井黙禅 (1883〜1972、明治16年〜昭和47年)
子規忌は9月19日、一遍忌は旧暦8月
23日、太陽暦9月16日に当たる。一遍
が紀州熊野権現で成道したのが1275年、
昭和49年(1974)がそれより700年
目に当たるのを記念して、昭和49年1月
に建立。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
安か
・
・と
一本の道 通り多里
霊剋る
和が
命奈りけり
斎藤茂吉 (1882〜1953、明治15年〜昭和28年)
あとやさき 百寿も露の いのち哉
河野 静
雲
(1887〜1974、明治20年〜昭和49年)
一遍上人和歌
身を数つる
す徒累心を
寿轉つ
連半
於裳日なき世
耳 すみ
曽めの袖
弘安3(1280)年の秋、白河の関を
こえて奥州に入った一遍上人は、
江刺の
郡(岩手県北上市)に
祖父河野通信の
墓をたずね、その菩提を弔っています。
この歌はその折に詠まれたものです。
世を捨て、身を捨て、心を捨てた一遍
上人が、その墨染の姿を祖父の墓前に
見せて、祖父の浄土往生を祈るという
ことであります。
「一子出家すれば九族天に生まれる」と申します。
一遍上人をはじめ従う僧尼の念仏に
よって通信も昔の迷いの夢を捨てて、
極楽へ往生したであろうと思います。
糞掃衣 裾の短く くるぶしも
艦もあらはに
わらんぢも 穿かぬ素足
者 国々の 道の長手
能
土をふみ 石をふみ来て にじみたる 血さへ見ゆがに
以たましく 頬こけおちて
おとがひも しゃくれ尖るを
眉は長く 目見の静けく
たぐひなき 敬虔をもて
合わせる 掌のさきよりぞ
光さへ 放つと見ゆれ
伊豫の国 伊佐庭の
山乃 み湯に来て 為すこともなく
日をかさね吾
者遊ぶを こ
能郷余生れな
可らも
こ能み湯
尓浸るひまなく西へ行き
東へ往きて
念佛もて
歓化したまふ みすがたを
ここに残せる 一遍上人
於豫州寳厳寺 川田順
時宗 寶厳寺
当寺は時宗清浄光寺末、豊國山遍照院と号し、本尊は阿弥陀
如来である。寺伝によると、越智守興の発願法興律師を開山と
して、天智四年(六六五)の開創とされており、古来より名刹で
あった。初めは法相宗であったがのち天台宗となっていた。
一遍の父河野通広(如仙)がこの寺の前方十二院の一つに隠棲し
一遍が生まれた頃は、天台宗であったが、一遍の死後、仙阿が
中興して時宗奥谷派を開いた。ほどなく解消して遊行派に
属することになったが、その頃この寺を中心に連歌が盛んに
行われていた。元弘四年(一三三四)河野通綱が総門脇に「一遍
上人御誕生旧跡」碑を建立し寺領を寄進して本寺と塔頭
十二院を有する大寺となっていたが、江戸時代末頃までに、
塔頭は、ほぼ衰退し総門もなくなりその脇にあった旧跡碑は
山門前に移された。
本堂・庫裡共、平成二十五年(二〇三三)八月に火災により焼失
したが平成二十八年(二〇一六)五月 本堂・一遍上人堂・庫裡共
完成し落慶法要を行った。本堂は一遍上人が活躍した鎌倉時代
中期を想定して古川禎一氏が設計し菅野建設(社長 菅野隆次、
棟梁 深田登生男)が建立した。
建物は武士の時代を反映して、荒けずりであるが力強いものと
なっている。境内には外観がお堂の形となっている一遍上人堂
があり、内部はミニ美術館となっており、一遍上人像・一遍聖絵が
展示されております。 (説明板より)
平和の礎
今日の平和と繁栄は、先の大戦で尊い生命を
捧げられた英霊と、犠牲になられた数多くの
人々のおかげであることを忘れてはならない。
一切を包容する思いやりの心こそ、人類の平和と
進歩に最も大切なことである。故に私たちは
終戦七十年を期し、碑に「恕」を記す。
平成二十八年五月吉日
愛媛県終戦七十年記念事業奉賛会
会長 中山紘治郎
一遍上人像