おくのほそ道
夏休みは何処へ行こうか、何をしようか?何時ものように考え耽っていた。
時間はいっぱいある。そんな思いをしているときに、自転車で日本縦断するニュースを聞いた。
中学生ですか、頑張っているなー!HPをみていたら、日本一周12,000キロ自転車の旅をみつける。
これに関する本を探しに行く。無い。HP
では様々な方が挑戦し、その報告があるのに?日本一周も面白いぞ!息子の自転車を借り、トレーニングに出発。
疲れる、大変だ!12,000キロどころではない。50キロ60キロの世界でアップアップだ。
狭山湖一周や玉川上水、多摩川50キロ、払沢の滝などなど、トレーニングを兼ねて様々な場所を走った。
こんなことを繰り返しながら2年がたった。体力、気力ともに充実し、これなら回れるかも?
しかし、1日100キロ走っても4ヶ月かかる。長すぎる。途中で断念する可能性大である。
もっと短い1000キロ程度のコースは無いものか再度書店へ出向く。
このころになると日に1回、面白い読み物がないか物色していた。
あった!「奥の細道」松尾芭蕉と曾良の旅である。320年ぐらい前の旅である。
600里(2,400キロ)の行脚の旅!電車で近くの駅、そして自転車で「奥の細道」の句碑の写真を撮る。
句碑のほとんどは神社や寺院の境内にある。正確な場所も地図からMAPコードとして得られる。
近くの駅からナビに案内してもらう。これなら、2,400キロを電車と自転車、
徒歩で句碑を撮って回る事は出来るだろう。…
そして、第1日目「奥の細道」の資料と出発地点の確認をしに江戸深川へ向かう。
初めの一歩である。
私の歩く道は「奥の細道」と同じ道ではない。ときには同じ街道を歩き、
時には、船の代わりに電車、馬の代わりに自転車で回り「歌まくら」を求め旅を始めた。 H23年5月
月日は百代の過客
にして、
行きかふ
年もまた
旅人なり。舟の上に
生涯をうかべ馬の口とらへて
老を
迎ふる物は、日々旅にして旅を
栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、
片雲の風に誘
われて漂泊の思ひやまず、
海浜にさすらへ、去年の秋、
江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も
暮、春
立てる
霞の空に、
白川の関
越えんと、そぞろ神の
物につきて心をくるはせ、
道祖神の招きにあひて、
取るもの手につかず、ももひきの
破れをつづり、笠の
緒つけかえて、
三里に
灸すうるより、松島の月
先づ心にかかりて、
住める
方は人にゆづり、
杉風が
別墅に移るに、
"草の戸も 住みかはる代ぞ ひなの家"
(くさのともすみかえるよぞひなのいえ)
面八句を
庵の柱にかけおく。
2.採茶庵
そして、"奥の細道"の出立の場所と
なった海辺橋のたもとの採茶庵へ移り住む。
旅支度
弥生も末の七日、明ぼのの空朧々
として、月は有明にて、光をさまれるものから、
不二の峯幽
かに見えて、上野・谷中の花の
梢またいつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは
宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住
といふ所にて舟をあがれば、前途三千里
のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに
離別の涙をそそぐ。
"行く春や 鳥啼き魚の 目は涙"
(いくはるや とりなきうおの めはなみだ)
これを矢立の
初
めとして、行く道なを進まず。人々は途中に立ちならびて、後
かげの見ゆるまではと見送るなるべし。
ことし、元禄二とせにや、
奥羽長途の
行脚、只
かりそめに思ひ立ちて、呉天に
白髪の
恨を重
ぬといへども、耳にふれて、いまだ目に見ぬさかい、若
し生きて帰らばと、定なき
頼の
末をかけ、
その日漸う草加
というふ宿にたどり
着にけり。
痩骨の肩にかかれる物
先づ苦しむ。
只身すがらにと
出立
侍るを、
紙子一衣
は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき
餞などしたるは、さすがに
打捨がたくて、
路次の
煩ひとなれるこそわりなけれ。
私も芭蕉たちの跡を辿ってみようと、此処千住の"奥の細道"の
出発地点といわれている所へ来てみた。
矢立ての初句
室の八島に
詣す。
同行曾良がいはく、
「この神は木の花さくや姫の神と
申して、
富士一躰なり。
無戸室に入て焼やき
給ふ
誓ひのみ中に、
火々出見のみこと生れ給ひしより、室の八島と
申す。また煙を詠
みならはし
侍るもこの
謂れなり。はた、このしろといふ魚を禁ず。
縁起の
旨、世に伝ふ事も
侍し。
"糸遊に 結びつきたる けぶりかな"
(いとゆうに むすびつきたる けぶりかな)
この句が奥の細道の句の中に入っていない…?
大神神社
卅日、日光山の麓に泊る。あるじのいひけるやう、
「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。
よろづ正直を旨とする故に、人かくは
申し
侍るまま、一夜の草の枕も
打ち解けて休み給へ。」といふ。いかなる仏の濁世塵土に
示現して、かかる
桑門の
乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をととめてみるに、
唯無智無分別にして、正直
偏固の者なり。
剛毅木訥の
仁に近きたぐひ、
気稟の
清質もつとも尊ぶべし。
卯月朔日、
御山にも
詣拝す。
往昔この御山を
二荒山と書きしを、空海大師は開基の時、「日光」と
改給ふ。
千歳未来をさとり給ふにや、今この
御光一天にかかやきて、
恩沢
八荒にあふれ、
四民、
安堵の
栖
穏かなり。なお、
憚り多くて、筆をさし置きぬ。
"あらたふと 青葉若葉の 日の光"
(あらたふと あおばわかばの ひのひかり)
黒髮山は、
霞かかりて、雪いまだ白し。
"剃り捨てて 黒髪山に 衣更" 曾良
(そりすてて くろかみやまに ころもがえ)
曾良は
河合氏にして
惣五郎といへり。芭蕉の
下葉に
軒をならべて、
予が
薪水の労をたすく。このたび松島・
象潟の
眺共にせんことを
悦び、かつは
羈旅の
難をいたはらんと、旅立
暁、髪を剃りて
墨染にさまをかへ、惣五を改めて宗悟とす。よつて黒髪山の句あり。
衣更の二字、力ありてきこゆ。
日光(安良沢小学校)
廿余丁、山を登つて滝あり。
岩洞の
頂より飛流して百尺、
千岩の
碧潭に落たり。
岩窟に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの滝と申し伝へ
侍るなり。
"しばらくは 滝に籠るや 夏の初"
(しばらくは たきにこもるや げのはじめ)
那須の
黒羽といふ所に知る人あれば、
是より
野越えにかかりて、
直道を行かんとす。
遥かに
一村を見かけて行に、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、
明くればまた野中を行く。そこに
野飼の馬あり。
草刈るをのこになげきよれば、
野夫といへども、さすがに
情知らぬには
あらず。「いかがすべきや。されどもこの野のは
縦横にわかれて、うひうひしき旅人の道ふみたがえん、
あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ。」と貸しはべりぬ。ちひさき者ふたり、馬の
跡したひて走る。
ひとりは小姫にて、名を「かさね」といふ。
聞きなれぬ名のやさしかりければ、
"かさねとは 八重撫子の 名成るべし"
(かさねとは やえなでしこの ななるべし) 曾良
やがて人里に至れば、あたひを
鞍つぼに
結びつけて馬を返しぬ。
西教寺にて。
黒羽の
館代浄法寺何がしの方に
音信る。思ひがけぬあるじの
悦び、
日夜語つづけて、その弟
桃翠などいふが、
朝夕勤めとぶらひ、
自らの家にも伴ひて、
親属の
方にも招かれ、日をふるままに、ひとひ
郊外に
逍遥して、
犬追物の跡を
一見し、
那須の
篠原をわけて、
玉藻の前の古墳をとふ。それより
八幡宮に
詣づ。
与市
扇の
的を
射し時、「別してはわが国
氏神正八幡」とちかひしも、この神社にて
侍ると聞ば、
感応
殊にしきりに覚えらる。
暮れば桃翠宅に帰る。
修験
光明寺といふあり。そこにまねかれて
行者堂を拝す。
"夏山に 足駄を拝む 首途哉"
(なつやまに あしだをおがむ かどでかな)
修験光明寺跡にて。
当国
雲巌寺のおくに、
仏頂和尚山居の
跡あり。
「竪横の五尺にたらぬ草の
庵
むすぶもくやし雨なかりせば
と松の炭して岩に書きつけはべり。」と、いつぞや
聞え給ふ。
その
跡みんと
雲巌寺に
杖を
曳
けば、
人々
進んで共にいざなひ、
若き人多く
道のほどうちさわぎて、おぼえずかの
麓に
到る。山はおくあるけしきにて、
谷道遥かに
松杉黒く
苔しただりて、
卯月の
天
今なほ寒し。
十景
尽る所、
橋を
渡って
山門に
入る。
さて、かの
跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、
石上の
小庵、
岩窟にむすびかけたり。
妙禅師の
死関、
法雲法師の
石室を見るがごとし。
"木啄も庵はやぶらず夏木立"
(きつつきも いおはやぶらず なつこだち)
と、とりあへぬ一句を柱に残し侍りし。
(殺生石(せっしょうせき)へ向かう。)
雲巌寺。
黒羽は、まだまだ多くの句碑がある。
今回は、矢板から、自転車で黒羽を廻ってみることにした。
"秣負ふ 人を枝折の 夏野哉"
(まぐさおふ ひとをしおりの なつのかな)
此処は、芭蕉と曾良を持成した"翠桃邸跡"である。大きな説明板とその前のお墓であった。
東北地震の影響は、各地に
様々な被害をもたらした。常念寺さんも少しづつ修復をしているようだった。
"野を横に 馬引きむけよ ほととぎす"
(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)
此処は、奥の細道とは縁があるわけではないが、あまりにも立派で、
また涼しそうな感じだったので、しばらく休憩として散策。
思った以上に素晴らしかった。
まだまだ、知らない俳句がある。東京の芭蕉記念館で観た"奥の細道"の俳句は
50数首だったような気がする。この黒羽は特に長く滞在していたため、
思った以上の収穫であった。
"田や麦や 中にも夏の ほととぎす"
(たやむぎや なかにもなつの ほととぎす)
この後のスケジュールから、雲巌寺の「啄木鳥も庵はやぶらす夏木立」の句碑は、
またの機会とした。残念である。曇り時々にわか雨の天気予報は外れ、
35度の猛暑であったことも次回にまわした大きな理由である。
初めから、宇都宮で宿泊して翌日、自宅へ帰る予定でいたので
なぜか、焦らず、ゆっくりと自転車を走らせた。帰りのコースは
小さな峠を5か所ぐらい超えての60キロは大変でした。
今日は、良く走ったので"ビール"2杯とした。
浄法寺高勝邸(黒羽藩家老で芭蕉から俳句の指導を受けていた)の鶴の絵を見て、
鶴の鳴き声で絵の中の芭蕉の葉も破れ散ってします。と詠んだ句。
"鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし"
(つるなくや そのこえにばしょう やれぬべし)
"山も庭も 動き入るや 夏座敷"
(やまも にわも うごきいるや なつざしき)
芭蕉は元禄二年四月三日黒羽を訪れ十四日間滞在し、その間に歌仙の興行があった。
秣お小人を枝折の夏野哉
を発句とした三十六句の中から、明王寺の境内に最も相応しい句として、
"今日も又 朝日を拝む 石の上"
(きょうもまた あさひをおがむ いしのうえ)
を選び石に刻んだ。
これより
殺生石に
行く。
館代より馬にて送らる。この
口付のおのこ、「
短冊
得させよと。」
乞ふ。やさしき事を
望
侍るものかなと、
"野を横に 馬引きむけよ ほととぎす"
(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)
殺生石は
温泉の
出づる
山陰にあり。石の
毒気いまだほろびず、
蜂・
蝶のたぐひ、
真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
また、
清水ながるるの
柳は、
蘆野の里にありて、田の
畔にのこる。
この所の
郡守、
戸部某の、
「この柳みせばや」など、
折々にのたまひ
聞きこえ給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、
今日きょうこの柳のかげにこそ
立たちより
侍はべりつれ。
"田一枚 植て立去る 柳かな"
(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)
遊行柳。
境の明神の地に二社ある。その一つは天喜元年(1053年)四月十四日、
紀州和歌の浦玉津島神社を歓請したと伝えられている。祭神は衣通姫(そとおりひめ)
である古代国境には住吉神社(中筒男命:なかつつおのみこと)と玉津島神社の
両神を祭ることが慣わしであったという。 京の都と奥州を結ぶ道は、古代には
東山道(のち関街道)があり、伊王野谷を流れる三蔵川を北上し白河の関に至る道である。
途中の追分には追分明神(住吉玉津神社という)が鎮座している。祭神は衣通姫である。
中世(鎌倉時代)には鎌倉と奥州を結ぶ奥大道(おくのだいどう:鎌倉街道)が確認されている。
さらには奥州道中の前身(芦野では往古海道の呼称がある)がいくつかの紀行文から知られている。
近世(江戸時代)になって江戸と奥州を結ぶ奥州街道が整備され、参勤交代をはじめ交通、
流通の基幹として多くの人馬の往来があった。
境の明神は、このような時代背景の中、旅する人々によって道中安全の神として
信仰の対象となったものである。近年、境明神の二社をめっぐって祭神の異説があるが、
江戸時代の文献には二社とも「大明神」「玉津島神社」とし、
宿村大概帳や奥州道中分間延絵図には、関東側を玉津島神社とし、
奥州側を境明神としている。
境の明神に二社が並立しての存在が確認できるのは極めて稀である。説明板より
アルバム
境の明神の由緒は不詳であるが、文禄四年(1595)に当時白河を
支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは弘化元年(1844)に
建てられた小祠である。奥州街道は五街道の一つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し
旅人や商人などの往来も盛んであった。
このため道中の安全を祈り、和算額を奉納したり、
灯篭や碑の寄進なども盛んに行われた。
境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した
灯篭が並び、
松尾芭蕉の
"風流の はじめや奥の 田植え唄"
(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)
などの句碑や歌碑も多く建立されている。
玉津島明神(女神:衣通姫「そとおりひめ」)と住吉明神(男神:中筒男命「なかつつおのみこと」)
は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)
という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」
とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。説明板より
アルバム。
心こころもとなき日かず
重かさなるままに、
白河しらかはの
関せきにかかりて
旅心たびごころ
定さだまりぬ。いかで
都みやこへと
便たより
求もとめしもことわりなり。中にもこの
関せきは
三関さんかんの
一いつにして、
風騒ふうそうの
人ひと心をとどむ。秋風を耳に残し、
紅葉もみじを
俤おもかげにして、青葉の
梢こずえなほあはれなり。
卯うの花の
白妙しろたえに、
茨いばらの花の
咲さきそひて、雪にもこゆる
心地ここちぞする。
古人こじん
冠かんむりを
正ただし、
衣装いしょうを
改あらためし事など、
清輔きよすけの筆にもとどめ
置おかれしとぞ。
"卯の花を かざしに関の 晴れ着かな" 曾良そら
(うのはなを かざしにせきの はれぎかな)
白河の関では、曾良の句のみを残し、芭蕉自身の句は残していない。
これより「みちのく」芭蕉と曾良の二人はどんな思いで、
この白河の関所を越えたのであろうか?
現在では、車で簡単に行くことができるが1689年ごろは馬に乗る程度である。
芭蕉もこの旅で馬に乗った記録はあるが、それでも
大変な思いで「みちのく」へ入って行ったと思う。
その昔、多くの文人たちが"歌枕"を求めてみちのくへ足を
踏み入れ感激し、歌を詠み旅に命をささげたことだろうか。
現在では、電車や車で簡単に行けるところである。……
そして、
今、私は芭蕉と曾良が通った此の
関所に来ている。
文明十三年(1481年)白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で一日一万句の連歌興行を催した。
これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠、宗祇法師が、はるばら奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、
一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。その時宗祇は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、
女はすぐに「阿武隈川の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌で答えた。
これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返したと言い伝えられています。
"早苗にも 我色黒き 日数哉"
(さなえにも われいろくろき ひかずかな)
芭蕉が白河の関を越えたおりの句で、須賀川から
白河の俳人可云(かうん)に当てたてがみのなかにあります。
(説明板より)
アルバム
とかくして、越行こえゆくままに、
阿武隈川あぶくまがわを
渡わたる。
左ひだりに
会津根あいづね高く、右に
岩城いわき・
相馬そうま・
三春みはるの
庄しょう、
常陸ひたち・
下野しもつけの地をさかひて山つらなる。
影沼(かげぬま)といふ
所ところを
行ゆくに、
今日きょうは空曇くもりて
物影ものかげうつらず。
須賀川すかがわの
駅えきに
等窮とうきゅうといふものを
尋たづねて、
四五日しごにちとどめらる。
先まづ、「白河の関いかに越えつるや。」と
問とふ。「
長途ちょうどの
苦くるしみ
身心しんじんつかれ、かつは風景に
魂たましいうばはれ、
懐旧かいきゅうに腸はらわたを
断たちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
十念寺
"風流の 初やおくの 田植うた"
(ふうりうの はじめやおくの たうえうた)
無下むげにこえんもさすがに。」と
語かたれば、
脇わき・
第三だいさんとつづけて、
三巻みまきとなしぬ。
この
宿しゅくの
傍かたわらに、大きなる
栗くりの
木蔭こかげをたのみて、世をいとふ僧あり。
橡とちひろふ
太山みやまもかくやと
間しづかに
覚おぼえられて、ものに
書かき
付つけ
侍はべる。
その
詞ことば、
栗くりといふ
文字もじは、西の木と
書かきて
西方さいほう
浄土じやうどに
便たよりありと、
行基菩薩ぎょうぎぼさつの一生
杖つえにも柱にもこの木を
用もちひ
給たまふとかや。
"世の人の 見付ぬ花や 軒の栗"
(よのひとの みつけぬはなや のきのくり)
可伸庵跡
等窮とうきゆうが
宅たくを
出いでて五里ばかり、
檜皮ひわだの
宿しゅくを離れて、
浅香山(あさかやま)あり。
路みちより近し。このあたり沼多し。かつみ
刈かるころもやや近うなれば、「いづれの草を花かつみとはいふぞ。」と人々に
尋たづね侍はべれども、
更さらに知しる人なし。沼を
尋たづね、人にとひ、かつみかつみと
尋たづねありきて、日は山の
端はにかかりぬ。
二本松にほんまつより右にきれて、
黒塚くろづかの
岩屋いはや
一見いっけんし、福島に
宿やどる。
あくれば、しのぶもぢ
摺ずりの石を
尋たづねて
忍しのぶの里に
行ゆく。
遥はるか
山陰やまかげの
小里こざとに石
半なかば土に埋うずもれてあり。里の
童わらべの
来きたりて教をしへける、「昔はこの山の上に
侍はべりしを、
往来ゆききの人の
麦草むぎくさをあらしてこの石を
試こころみ侍はべるをにくみて、この谷につき
落おとせば、石の
面おもて下しもざまにふしたり。」といふ。さもあるべき事にや。
文知観音堂
"早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺"
(さなへとる てもとやむかし しのぶずり)
月の輪のわたしを
越こえて、
瀬せの
上うへといふ宿に
出いづ。
佐藤庄司さとうしょうじが
旧跡きゅうせきは左の
山際やまぎわ一里半ばかりにあり。
飯塚いひづかの里
鯖野さばのと
聞ききて、
尋たづね
尋たづね行くに、
丸山まるやまといふに
尋たづねあたる。これ
庄司しょうじが
旧館きゅうかんなり。
麓ふもとに
大手おおての跡など、人の
教をしふるにまかせて
涙なみだを
落おとし、
又またかたはらの
古寺ふるでらに
一家いっけの
石碑せきひを残す。中にも
二人ふたりの
嫁よめがしるし、
先まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に
聞きこえつるものかなと
袂たもとをぬらしぬ。
堕涙だるいの
石碑せきひも遠きにあらず。寺に
入いりて茶を
乞こへば、ここに
義経よしつねの
太刀たち、
弁慶べんけいが
笈おいをとどめて
什物じゅうもつとす。
医王寺
"笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟"
(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
五月朔日さつきついたちの事なり。
その夜
飯塚いいづかにとまる。
温泉いでゆあれば
湯ゆに入りて
宿やどをかるに、
土座どざに
莚むしろを
敷しきて、あやしき
貧家ひんかなり。
灯ともしびもなければ
ゐいろりの
火ほかげに
寝所ねどころをまうけて
臥ふす。夜に
入いりて
雷鳴かみなり、雨しきりに
降ふりて、
臥ふせる上よりもり、
蚤のみ・
蚊かにせせられて
眠ねむらず。
持病じびょうさへおこりて、
消きえ
入いるばかりになん。
短みじか
夜よの空もやうやう
明あくれば、また
旅立たびだちぬ。なほ
夜よるの
余波なごり、
心こころすすまず。
馬うまかりて
桑折こおりの
駅えきに
出いづる。
遥はるかなる
行末ゆくすえをかかへて、かかる
病やまひ
覚束おぼつかなしといへど、
羇旅辺土きりよへんどの
行脚あんぎゃ、
捨身無常しゃしんむじょうの
観念かんねん、
道路だうろに
死しなん、
是これ天の
命めいなりと
気力きりょく
聊いささかとり直し、
路みち
縱横じゅうおうに
踏ふんで、
伊達だての
大木戸おおきどを
越こす。
元禄二年のころまでは、"飯塚"と呼ばれていたが、この時代以後は
"飯坂"と呼ばれるようになった。
奥の細道随行日記では"飯坂"とあるようだ。温泉地ではあるが、
芭蕉たちが泊った所は"貧しい農家"で土間で寝、
蚤や蚊に食われ、大変な思いをしたようである。……
曾良随行日記より
三日 ・・・
堂有り。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ、
兄弟ノ石塔有。・・・・・・・・
サイ川ヨリ十町程前二、万ギ沼、万ギ山有。ソノ下ノ道、
アブミコフシト云岩有。二町程下リテ右ノ方二、次信・
忠信ガ妻ノ御影堂有。同幌白石二宿ス。
甲冑堂
祭 神 佐藤継信・忠信兄弟の妻 楓・初音(楠の木造二体)
彫 刻 小室 達 (宮城県柴田町出身 日展無鑑査)
壁 画 岡田華郷 (宮城県仙台市出身 日本画家)
堂設計 小倉 強 (元 東北大教授)
再建落成 昭和14年 11月(以前のものは文亀年間にでき、明治8年消失)
源平合戦のとき 源義経の家臣として平泉時代から仕えた大鳥城主佐藤庄司基治の息子継信・
忠信は、平家追討に数々の武勲をたてた。しかし兄継信は元暦元年(1184)四国八島の戦いにおい
て義経の身代わりとなって、平能登守教経の矢を受けて壮烈な戦死をとげた。弟忠信は、義経
が兄頼朝と仲たがいとなり吉野の山にこもって敵方に襲われたとき、自ら義経と名乗り唯一人
敵と戦い主人一行を落ちのびさせたあと、京都の堀川の館に潜んでいたところ文治二年(1186)
200名の敵に襲われた。これまでと「奥州武士の最後を見よ」とばかりに、腹かき切って壮烈な最
期をとげた。
文治三年義経一行は世を忍ぶ山伏姿で奥州にたどり着いた。
兄弟ふたりの死を知った母親の悲しみは、計り知れなかった。ふたりの嫁は自分たちの悲しみ
を押さえて母を認めたが嘆きは大きかった。最後に考えついたのが形見の甲冑を着て「継信・忠
信ただ今凱旋致しました。」と母にふたりの子の姿を見せて喜ばせたという。
奥州征伐のため大鳥城におれなくなった一族は宮城・山形に隠れ住んでいたが、菩提を弔うた
め大島城・医王寺に近くとこの地に甲冑堂を作り木造にてふたりを刻み後世に孝心を伝えようとした。
俳聖芭蕉も元禄二年(1689)奥の細道行脚の折り、二女の心に涙したという。随行の曾良の日
記にも「馬牛沼の下、鎧越しという岩あり(アブミコフシト云岩有)、この岩より下りて二町程右の方に継信・忠信の妻の御
影堂あり」と記している。
・・・ (説明および資料より)
松尾芭蕉たちは元禄二年(1689年)五月三日、桑折の宿を通っている。
当時の俳人佐藤馬耳が
"風流の 初めや奥の 田植歌"
(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)
…という句の短冊を埋めて、「芭蕉翁」と刻んだ石碑を建てて田植塚を作った。
"笠島は いづこさ月の ぬかり道"
(かさじまは いづこさつきの ぬかりみち)
鐙摺あぶみずり・
白石しろいしの
城じょうを
過すぎ、
笠島かさじまの
郡こおりに入れば、「
藤中将実方とうのちゅうじょうさねかたの
塚つかはいづくの
程ほどならん。」と人にとへば、「これより
遥はるか右に見ゆる
山際やまぎはの里をみのわ・
笠島かさじまといひ、
道祖神どうそじんの
社やしろ、かたみの
薄すすき、今にあり。」と
教おしゆ。
用水路を渡り、芭蕉碑の右側を行くこと50メートル、西行の碑とともに…。
藤原中条実方の墓
このごろの
五月雨さみだれに道いとあしく、身つかれ
侍はべれば、よそながら
眺ながめやりて
過すぐるに、みのわ・
笠島かさじまも
五月雨さみだれの
折おりにふれたりと、
"笠島は いづこさ月の ぬかり道"
(かさじまは いづこさつきの ぬかりみち)
岩沼いはぬまに宿る。
武隈たけくまの
松まつにこそ
目覚めさむる
心地ここちはすれ。
根ねは
土際つちぎはより
二木ふたきにわかれて、むかしの
姿すがたうしなはずと
知しらる。
先まづ
能因法師のういんほうし思ひ
出いづ。
往昔そのかみ、
陸奥守むつのかみにて
下くだりし人、この木を
伐きりて
名取川なとりがはの
橋杭はしぐいにせられたる事などあればにや、
「松はこのたび
跡あともなし」とは
詠よみたり。
代々よよ、あるは
伐きり、あるひは
植ゑ継うえつぎなどせしと
聞きくに、今はた
千歳ちとせのかたちととのほひて、めでたき松のけしきになん
侍はべりし。
二木の松(武隈の松)
「武隈たけくまの
松まつみせ
申まうせ
遅桜おそざくら」と、
挙白きよはくといふものの
餞別せんべつしたりければ、
"桜より 松は二木を 三月ごし"
(さくらより まつはふたきを みつきごし)
曾良の「随行日記」には「岩沼入口ノ左ノ方二、竹駒明神ト云有リ。
ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈の松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。」
"桜より 松は二木を 三月ごし"
(さくらより まつはふたきを みつきごし)
竹駒神社
名取川なとりがわを
渡わたって
仙台せんだいに
入いる。あやめふく日なり。
旅宿りょしゅくを
求もとめて
四五日しごにち
逗留とうりゅうす。ここに
画工がこう
加右衛門かえもんといふものあり。
聊いささか心あるものと
聞ききて、知る人になる。この者、「
年としごろさだかならぬ
名などころを
考かんがへ
置おき
侍はべれば」とて、
一日ひとひ
案内あないす。
宮城野みやぎのの
萩はぎ茂りあひて、秋のけしき思ひやらるる。
玉田たまだ・よこ
野の・つつじが
岡おかはあせび
咲さくころなり。
日影ひかげももらぬ松の林に
入いりて、ここを
木この
下したといふとぞ。
昔むかしもかく
露つゆふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂やくしどう・
天神てんじんの
御社みやしろなど
拝おがみて、その日はくれぬ。
陸奥国分寺跡
なほ、
松島まつしま・
塩釜しおがまの
所々ところどころ
画えにかきて送る。かつ
紺こんの
染緒そめおつけたる
草鞋わらじ二足
餞はなむけす。さればこそ、風流のしれもの、ここに至りてその
実じつを
顕あらわす。
"あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒"
(あやめぐさ あしにむすばん わらじのお)
榴岡天満宮
、 妙心院(蓑塚)
かの
画図えずにまかせてたどり
行ゆけば、おくの
細道ほそみちの
山際やまぎはに
十符とふの
菅すげあり。今も
年々としどし
十符とふの
菅菰すがごもを
調ととのへて、
国守こくしゆに
献けんずといへり。
東光寺とうこうじの前の道を西に400mほど行った所から右(山)のほうへ行った所に”十符の菅”が
個人こじんの家に今も残っているようである。この辺りの道が「
細ほそい
道みち」だったようだ。
東光寺
壺碑つぼのいしぶみ
市川村多賀城いちかわむらたがじょうにあり。
つぼの
石いしぶみは、高サ
六尺余ろくしゃくあまり、
横三尺よこさんじゃくばかりか。
苔こけを
穿うがちて
文字もんじ
幽かすかなり。
四維国界しいこくかいの
数里すうりをしるす。「
此城このしろ、
神亀じんき
元年がんねん、
按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所置也あぜちちんじゅふしょうぐんおほののあそんあづまひとのおくところなり。
天平宝字てんぴようほうじ六年、
参議東海東山節度使さんぎとうかいとうさんのせつどし、
同将軍恵美朝臣おなじくしょうぐんえみのあそん
朝狩あさかり
修造也おさめつくるなり。十二月
朔日ついたち」とあり。
聖武しょうむ
皇帝こうていの
御時おおんときに
当あたれり。むかしよりよみ
置おける
歌枕うたまくら、
多おほくかたり
伝つたふといへども、山
崩くづれ、川
流ながれて、道あらたまり、石は
埋うずもれて土にかくれ、木は
老おいて
若木わかきにかはれば、
時移ときうつり
代よ
変へんじて、その
跡あとたしかならぬ事のみを、ここに至りて
疑うたがひなき
千歳せんざいの
記念かたみ、今
眼前がんぜんに
古人こじんの心を
閲けみす。
行脚あんぎゃの
一徳いつとく、
存命ぞんめいの
悦よろこび、
羇旅きりよの
労ろうを
忘わすれて、なみだも
落おつるばかりなり。
それより
野田のだの
玉川たまがわ・
沖おきの石を
尋たづぬ。
末すえの
松山まつやまは寺を
造つくりて、
末松山まつしょうざんといふ。松のあひあひみな
墓原はかはらにて、
はねをかはし
枝えだをつらぬる
契ちぎりの末も、
終ついにはかくのごときとかなしさも
増まさりて、
塩釜しおがまの
浦うらに
入相いりあいのかねを
聞きく。
五月雨さみだれの空
聊いささかはれて、
夕月夜ゆうづくよ
幽かすかに、
籬まがきが
島しまもほど近し。
蜑あまの
小舟おぶねこぎつれて、
肴さかなわかつ
声々こえごえに、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとど
あはれなり。その夜、
目盲法師めくらほうしの
琵琶びわをならして、
奥浄瑠璃おくじょうるりといふものをかたる。
平家へいけにもあらず、
舞まいにもあらず、ひなびたる
調子ちょうしうち
上あげて、
枕まくらちかうかしましけれど、
さすがに
辺土へんどの
遺風いふう
忘わすれざるものから、
殊勝しゅしょうに
覚おぼえらる。
多賀城跡
早朝そうちょう、
塩釜しおがまの
明神みょうじんに
詣もうづ。
国守こくしゅ
再興さいこうせられて、
宮柱みやばしらふとしく
彩椽さいてんきらびやかに、石の
階きざはし
九仭くじんに
重かさなり、
朝日あさひあけの
玉垣たまがきを
輝かがやかす。かかる道の
果はて、
塵土じんどの
境さかいまで、
神霊しんれいあらたにましますこそ、わが
国くにの
風俗ふうぞくなれと、いと
貴たふとけれ。
神前しんぜんに古き
宝燈ほうとうあり。かねの
戸とびらの
面おもてに、「
文治ぶんじ三年
和泉いづみの
三郎さぶらう
奇進きしん」とあり。
五百年ごひゃくねん
来らいの
俤おもかげ、
今いま目の前にうかびて、そぞろに
珍めづらし。かれは勇義忠孝の
士しなり。
佳命かめい今に至りて、したはずといふ事なし。
誠まことに人能よく道を
勤つとめ、義を
守まもるべし。「名もまたこれにしたがふ」といへり。
日既すでに
午ごにちかし。
船ふねをかりて
松島まつしまにわたる。その
間かん二里
余よ、
雄島おじまの
磯いそにつく。
塩釜神社・志和彦神社
曾良の随行日記によると元禄二年五月八日(陽暦六月二十四日)午後二時頃、
塩釜に着いた芭蕉は野田の玉川、末の松山などの歌枕を巡り帰った。
「宿、治兵へ、法蓮寺門前。…」とあり止宿したのは、この付近である。
隆盛をきわめた塩釜神社別当法蓮寺は明治四年廃寺となった。
宿泊した場所は塩釜神社の東参道の入り口付近とされ芭蕉の止め宿の碑がある。
抑そもそもことふりにたれど、松島は
扶桑ふそう第一の
好風かうふうにして、およそ
洞庭どうてい・
西湖せいこを
恥はぢず。東南より海を
入いれて、
江えの
中うち
三里さんり、
浙江せっこうの
潮うしおをたたふ。島々の数を
尽つくして、
欹そばだつものは天を
指ゆびさし、伏すものは波に
匍匐はらばふ。あるは
二重ふたえにかさなり、
三重みえに
畳たたみて、左にわかれ右につらなる。
負おへるあり
抱いだけるあり、
児孫じそん愛すがごとし。松の緑こまやかに、
枝葉しよう
汐風しおかぜに
吹ふきたわめて、
屈曲くっきよくおのづからためたるが如し。その
気色?然けしきようぜんとして、美人の
顔かんばせを
粧よそおふ。ちはやぶる神のむかし、
大山おおやまつみのなせるわざにや。
造化ぞうかの
天工てんこう、いづれの人か筆をふるひ、
詞ことばを
尽つくさむ。
雄島おじまが
磯いそは地つづきて、海に
出いでたる島なり。
雲居禅師うんごぜんじの
別室べつしつの
跡あと、
坐禅石ざぜんせきなどあり。はた松の
木陰こかげに世をいとふ人も
稀々まれまれ見え
侍はべりて、
落おちぼ・
松笠まつかさなど
打煙うちけふりたる草の
庵いほり
閑しずかに
住すみなし、いかなる人とは知られずながら、
先まづなつかしく
立たち
寄よるほどに、
月海つきうみにうつりて、昼のながめまたあらたむ。
江上こうしょうに帰りて宿を
求もとむれば、窓をひらき二階を
作つくりて、風雲の
中うちに
旅寝たびねするこそ、あやしきまで
妙たえなる
心地ここちはせらるれ。
"松島や 鶴に身をかれ ほととぎす" 曾良そら
(まつしまや つるにみをかれ ほととぎす)
予よは口をとぢて、眠らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、
素堂そだう松島の詩あり。
原安適はらあんてき松がうらしまの
和歌わかを贈らる。袋ふくろを
解ときて、こよひの友とす。
かつ、杉風さんぷう・濁子じょくしが
発句ほっくあり。
右側の句碑が曾良の句碑です。
十一日、
瑞岩寺ずいがんじに
詣もうづ。
当寺三十二世たうじさんじふにせの
昔むかし、
真壁まかべの
平四郎へいしろう出家して、
入唐にっとう、
帰朝きてうの
後のち開山す。その後に、
雲居禅師うんごぜんじの
徳化とくくわによりて、
七堂しちどう
甍いらか
改あらたまりて、
金壁こんぺき
荘厳しょうごん光を
輝かがやかし、
仏土成就ぶつどじょうじゅの
大伽藍だいがらんとはなれりける。かの
見仏聖けんぶつひじりの寺はいづくにやとしたはる。
十二日、平泉と心ざし、あねはの松・
緒おだえの橋など
聞きき
伝つたへて、
人跡じんせき
稀まれに、
雉兎ちと・
蒭蕘すうじょうの行きかふ道、そこともわかず、
終ついに道ふみたがへて、石の巻といふ
湊みなとに
出いづ。「こがね花
咲さく」とよみて
奉たてまつりたる
金花山きんかざん、
海上かいじょうに見渡し、数百の
廻船かいせん
入江いりえにつどひ、
人家じんか地をあらそひて、
竃かまどの煙
立たちつづけたり。思ひかけずかかる所にも
来きたれるかなと、宿からんとすれど、
更さらに宿かす人なし。
曾良の随行日記によると「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海
目前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。
"雲折々 人を休める つきみかな"
鹿島御児神社
石巻を後にした芭蕉たちは、北上川に沿った一の関街道を平泉へと足を運んだ。
途中、この八雲神社へ参拝した。
"川上と この川下や 月の友"
八雲神社
やうやうまどしき
小家こいえに一夜をあかして、
明あくれば又しらぬ道まよひ行く。
袖そでのわたり・尾ぶちの
牧まき・
真野まのの萱原かやはらなどよそ目に見て、
遥はるかなる堤つつみを行く。心細き長沼にそうて、
戸伊摩といまとふ所に一宿して、
平泉ひらいずみに至いたる。その
間かん
二十にじゅう余里ほどとおぼゆ。
芭蕉一宿の跡
"降津とも 竹植える日は 美能登笠"
登米神社
"此の梅に 牛も初音と なきつべし"
"梅が香に のっと日の出る 山路かな"
配志和神社
三代の
栄耀えいよう
一睡いつすいの
中うちにして、
大門だいもんのあとは一里こなたにあり。
秀衡ひでひらが
跡あとは
田野でんやに
成なりて、
金鷄山きんけいざんのみ形を残す。
先まづ
高館たかだちにのぼれば、北上川
南部なんぶより流るる
大河たいがなり。
衣川ころもがはは
和泉いずみが
城じょうをめぐりて、
高館たかだちの
下したにて大河に
落おち入る。
康衡やすひら
等らが
旧跡きゅうせきは、
衣ころもが
関せきを
隔へだてて
南部口なんぶぐちをさしかため、
夷えぞをふせぐと見えたり。
さても
義臣ぎしんすぐつてこの
城しろにこもり、
功名こうみやう一時いちじの
叢くさむらとなる。「国破れて
山河さんがあり、城春にして
草青くさあおみたりと。」笠うち敷しきて、時のうつるまで
なみだを
落おとし侍はべりぬ。
"夏草や 兵どもが 夢の跡"
(なつくさや つはものどもが ゆめのあと)
高館義経堂
"卯の花に 兼房みゆる 白毛哉" 曾良そら
(うのはなに かねふさみゆる しらがかな)
かねて
耳驚みみおどろかしたる二堂
開帳かいちょうす。
経堂きようどうは
三将さんしょうの像をのこし、
経蔵(経堂)
金色堂
光堂ひかりどうは三代の棺ひつぎを納め、
三尊さんぞんの仏ほとけを安置す。
七宝しっぽう散ちりうせて、
珠たまの扉風にやぶれ、
金こがねの柱霜雪そうせつに
朽くちて、既すでに
頽廃空虚たいはいくうきょの
叢くさむらとなるべきを、四面新あらたに
囲かこみて、
甍いらかを
覆おおひて風雨を凌しのぐ。
暫時しばらく千歳ちとせの
記念かたみとはなれり。
金色堂覆堂
"五月雨の 降のこしてや 光堂"
(さみだれの ふりのこしてや ひかりだう)
中尊寺・金色堂
松尾芭蕉の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」を新渡戸稲造が英訳し、
毛筆で揮毫した句碑。
"夏草や 兵どもが 夢の跡"
( The summer grass 'Tis all that's left Of ancient warriors dreams )
南部道なんぶみち
遥はるかに見やりて、
岩手いわての里に泊る。小黒崎おぐろさき、みづの
小島おじまを過すぎて、
鳴子なるごの湯より
尿前しとまえの関にかかりて、
出羽でわの国に越こえんとす。
この道旅人稀まれなる所なれば、
関守せきもりにあやしめられて、漸ようようとして関をこす。
尿前の関跡
大山たいざんをのぼつて日既すでに
暮くれければ、
封人ほうじんの家を見かけて
舎やどりを求む。三日
風雨ふううあれて、よしなき山中に
逗留とうりゅうす。
"蚤虱 馬の尿する 枕もと"
(のみしらみ うまのばりする まくらもと)
封人の家
あるじのいふ、これより
出羽でわの国に大山を
隔へだてて、道さだかならざれば、道しるべの人を
頼たのみて
越こゆべきよしを
申もうす。さらばといひて、人を頼たのみ
侍はべれば、
究竟くっきょうの若者、
反脇指そりわきざしをよこたへ、
樫かしの杖つえを
携たずさへて、我々が先に立たちて行く。「けふこそ
必かならずあやうきめにもあふべき日なれ。」と
辛からき思ひをなして
後あとについて行く。
あるじのいふにたがはず、
高山こうざん森々しんしんとして
一鳥いっちょう声きかず、
木この下した
闇やみ茂りあひて、夜る行くがごとし。
雲端うんたんに土つちふる心地して、
篠しのの中踏ふみ分け踏み分、水をわたり岩に
蹶つまづきて、肌につめたき汗を流して、
最上もがみの庄しょうに出づ。かの
案内あんないせし
男おのこのいふやう、「この道必かならず
不用ぶようの事あり。
恙つつがなう送りまいらせて仕合しあはせしたり。」と、
よろこびてわかれぬ。
あとに
聞ききてさへ胸とどろくのみなり。
山刀伐峠
尾花沢おばなざわにて清風せいふうと
いふ者ものを尋たづぬ。かれは
富とめる者なれども、
志こころざしいやしからず。都にも
折々おりおりかよひて、さすがに旅の
情なさけをも
知しりたれば、
日ひごろとどめて、
長途ちようどのいたはり、さまざまにもてなし
侍はべる。
"涼しさを 我が宿にして ねまる也"
(すずしさを わがやどにして ねまるなり)
涼し塚
"這出よ かひやが下の ひきの声"
(はいいでよ かひやがしたの ひきのこえ)
水海道市の報国寺(Map-Code#18 643 834)にて撮影。
"まゆはきを 俤にして 紅粉の花"
(まゆはきを おもかげにして べにのはな)
芭蕉おもかげの丘
"蚕飼する 人は古代の すがた哉" 曾良そら
(こがいする ひとはこだいの すがたかな)
山形領に
立石寺りっしゃくじといふ
山寺やまでらあり。
慈覚大師じかくだいしの
開基かいきにして、
殊ことに清閑せいかんの地なり。
一見いっけんすべきよし、人々の
勧すすむるに依よりて、
尾花沢おばなざわよりとってかへし、その間かん七里ばかり
なり。日いまだ暮くれず、
麓ふもとの坊ぼうに宿かり
置おきて、山上の堂にのぼる。岩に
巌いわおを重かさねて山とし、
松柏しょうはく年としふり、
土石どせき老おいて
苔こけなめらかに、
岩上がんじょうの院々いんいん
とびらを閉とぢて、物の
音おと聞えず。岸をめぐり、岩を這はひて、
仏閣ぶっかくを拝し、
佳景かけい
寂寞せきばくとして心すみ行くのみ覚おぼゆ。
"閑さや 巌にしみ入 蝉の聲"
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
…若い頃にこの地に来た時とまた趣が違う。その当時は、松尾芭蕉や
曾良の銅像はなかった。…
山寺
…山形に非常に素晴らしい場所があると人々に勧められたので、
尾花沢より戻って立石寺、そして、山の上のお堂まで登った。
この"せみ塚"は芭蕉の俳句の短冊をここへ埋めて石塚を立てた。…
せみ塚
…真ん中のお堂が立石寺を開いた慈覚大師のお堂で大師の木造の尊像が安置されている。
左の小さなお堂は納経堂でその直下に大師が眠る入定窟(にゅうじょうくつ)がある。右上の建屋が五大堂といわれる道場である。道場からの眺めは
また最高である。…
五大堂
五大堂からの眺望!
…6月1日(陽歴7月17日)新庄の風流亭を訪ねる途中で、
芭蕉は涼しげな柳と清水を観て休息した。風流亭へ着いたとき
の挨拶の句として、…
"水の奥 氷室尋ぬる 柳かな"
(みずのおく ひむろたずぬる やなぎかな)
…風流亭で2泊して、最上川の上船の場、本合海へ向かった。…
柳の清水
もがみ川のらんと、
大石田おおいしだといふ所に
日和ひよりを待まつ。
ここに古き
俳諧はいかいの
種たねこぼれて、わすれぬ花のむかしをしたひ、
蘆角ろかく一声いつせいの心をやはらげ、
この道にさぐりあしして、
新古しんこふた道にふみ
迷まよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき
一巻ひとまき残のこしぬ。この度の風流、
ここに至れり。
もともとは、
"五月雨を 集めて涼し 最上川"
(さみだれを あつめてすずし もがみがわ)
と、詠まれていたが再校して「涼し」から「早し」と変えている。
最上川は、みちのくより出いでて、山形を
水上みなかみとす。
ごてん・はやぶさなど云いふおそろしき
難所なんじょあり。
板敷山いたじきやまの北を流ながれて、
果はては
酒田さかたの海に入いる。
左右さゆう山やまおほひ、茂みの中に船を
下くだす。これに稲つみたるをや、いな舟といふならし。
白糸の滝は青葉あおばの
隙々ひまひまに
落おちて、仙人堂せんにんどう
岸に臨のぞみて立たつ。
水みなぎつて、舟あやふし。
"五月雨を 集めて早し 最上川"
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
本合海
…本合海より乗船し、この清川で上陸して、
狩川を通って羽黒山へと向かった。
その当時の清川は
最上川の水の関所として栄えていた。…
六月三日、羽黒山はぐろさんに登る。
図司左吉ずしさきちといふ者を尋たづねて、
別当代会べっとうだいえ覚阿闍梨がくあじゃりに
謁えっす。
南谷みなみだにの別院に舎やどりして、
憐愍れんみんの情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊において
俳諧はいかい興行こうぎょう。
"有難や 雪をかほらす 南谷"
(ありがたや ゆきをかほらす みなみだに)
五日、
権現ごんげんに詣づ。当山
開闢かいびゃく
能除大師のうじょだいしは、いづれの
代よの人といふ事を知らず。
延喜式えんぎしきに
羽州里山うしゅうさとやまの神社とあり。
書写しょしゃ、黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、鳥の
毛羽もううをこの国の
貢みつぎに
献たてまつると
風土記ふどきに侍はべるとやらん。
月山がっさん・
湯殿ゆどのを
合あはせて
三山さんざんとす。当寺
武江東叡ぶこうとうえいに属して、
天台止観てんだいしかんの月明かに、
円頓融通えんどんゆづうの
法のりの灯ともしびかかげそひて、僧坊
棟むねをならべ、
修験行法しゅげんぎょうほふを
励はげまし、
霊山霊地れいざんれいちの験効げんこう、
人
貴とうとびかつ恐る。繁栄
長とこしなへにして、めでたき
御山みやまと
謂いつつべし。
八日、
月山がっさんにのぼる。
木綿ゆうしめ身に
引ひきかけ、
宝冠ほうかんに
頭かしらを包つつみ、
強力ごうりきといふものに
導みちびかれて、
雲霧山気うんむさんきの中に
氷雪ひょうせつを踏ふんで登る
事こと八里、更に
日月じつげつ行道の
雲関うんかんに
入いるかとあやしまれ、
息絶いきたえ身こごえて、頂上に
至れば、日没ぼつして月あらはる。笹をしき、篠しのを枕として、
臥ふして
明あかるくを待まつ。日
出いでて
雲くも
消きゆれば、
湯殿ゆどのに下くだる。
谷の
傍かたわらに
鍛冶小屋かじごやといふあり。この国の
鍛冶かじ、霊水れいすいを
撰えらびて、ここに
潔斎けっさいして
剣つるぎを打うち。
終ついに
月山がっさんと銘めいを
切きつて世に賞せらる。
かの
龍泉りょうせんに
剣つるぎを
淬にらぐとかや。
干将かんしょう・莫耶ばくやのむかしをしたふ、道に
堪能かんのうの
執しゅうあさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の
つぼみ
半なかばひらけるあり。ふり
積つむ雪の下に
埋うづもれて、春をわすれぬ遅ざくらの花の心わりなし。
炎天えんてんの
梅ばい花ここにかほるがごとし。
行尊僧正ぎょうそんそうじょうの歌のあはれもここに思ひ出でて、なほ
哀あはれもまさりて
覚おぼゆ。
惣そうじて、この
山中さんちうの
微細みさい、行者の
法式ほふしきとして
他言たごんする事を禁ず。よりて筆をとどめて
記しるさず。
坊ぼうに
帰かへれば、
阿闍梨あじゃりのもとめによりて、
三山順礼さんざんじゅんれいの
句々くく
短冊たんざくに書く。
"涼しさや ほの三日月の 羽黒山"
(すずしさや ほのみかづきの はぐろさん)
"雲の峰 幾つ崩て 月の山"
(くものみね いくつくづれて つきのやま)
月 山
"語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな"
(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)
"湯殿山 銭ふむ道の 涙かな" 曾良そら
(ゆどのやま ぜにふむみちの なみだかな)
湯殿山有料道路を通り、大鳥居から湯殿山神社までは
専用バスで5分、歩いても30分である。神社の参拝ルートより
外れたところに 芭蕉と曾良の句碑がある。
奥にあるのが芭蕉の句碑である。
6月末であるが雪がまだ残っていた。
羽黒を立たちて、鶴が岡の城下、
長山氏重行
ながやまうじしげゆきと
いふもののふの家にむかへられて、
俳諧はいかい
一巻ひとまきあり。
左吉さきちも共に送りぬ。
川舟に乗のりて酒田の
湊みなとに
下くだる。
淵庵不玉えんあんふぎょくと
いふ
医師くすしのもとを
宿やどとす。
"あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ"
(あつみやまや ふくうらかけて ゆふすずみ)
"暑き日を 海に入れたり 最上川"
(あつきひを うみにいれたり もがみがわ)
…日和山公園は酒田市の西にあり、酒田港や日本海を
一望できる丘の上にある。園内には文学の散歩道として
松尾芭蕉などの句碑が設けられている。…
酒田 、
江山水陸こうざんすいりくの
風光、
数かずを尽つくして、今
象潟きさがたに
方寸ほうすんを責せむ。酒田の
湊みなとより東北の
方かた、山を越こえ
磯いそをつたひ、いさごをふみて、その
際さい十里、
日影ひかげややかたぶくころ、
汐風しおかぜ
真砂まさごを吹ふき
上あげ、雨
朦朧もうろうとして
鳥海ちょうかいの山かくる。
闇中あんちゅうに
莫作もさくして、雨もまた
奇きなりとせば、
雨後うごの
晴色せいしよくまた頼もしきと、
蜑あまの
笘屋とまやに
膝ひざを入れて、雨の
晴はるるを
待まつ。
その
朝あした、
天てんよく
霽はれて、
朝日あさひはなやかにさし
出いづるほどに、
象潟きさがたに舟をうかぶ。
先まづ
能因島のういんじまに舟をよせて、三年
幽居ゆうきょの跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」と
よまれし桜の
老木おいき、西行法師の
記念かたみをのこす。江上に
御陵みささぎあり、
神功后宮じんぐうこうぐうの御墓みはかといふ。寺を
干満珠寺かんまんじゅじといふ。この
処ところに
行幸みゆきありし事いまだ聞きかず。いかなる事にや。
この寺てらの
方丈ほうじょうに
坐ざして
簾すだれを
捲まけば、風景
一眼いちがんの
中うちに尽きて、南に鳥海天をささへ、その
影かげうつりて江えにあり。
西はむやむやの関、路みち
をかぎり、東に堤を築きづきて、秋田にかよふ道
遥はるかに、
海うみ北にかまえて、波うち入るる所を
汐しほこしといふ。
江えの
縱横じゅうおう一里ばかり、
俤おもかげ松島にかよひて、また
異ことなり。
松島まつしまは
笑わらふがごとく、
象潟きさがたはうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、
地勢ちせい
魂たましひをなやますに似たり。
三崎峠の古道を曾良と越えたのは、元禄2年6月16日(1689年現在の暦で8月1日)であった。
その昔、有耶有耶むやむやの関が
あったというこの難所をやっと越えて象潟へ入って行った。
"象潟や 雨に西施が ねぶのはな"
(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)
"汐越や 鶴脛ぬれて 海涼し"
(しほこしや つるはぎぬれて うみすずし"
祭礼さいれい
"象潟や 料理何くふ 神祭" 曾良そら
(きさがたや れうりなにくふ かみまつり)
"蜑の家や 戸板を敷て 夕涼" 美濃の国の商人 低耳(ていじ)
(あまのやや といたをしきて ゆふすずみ)
岩上に雎鳩みさごの巣すを見る
"浪こえぬ 契ありてや みさごの巣" 曾良そら
(なみこえぬ ちぎりありてや みさごのす)
…旅の目標の一つである"象潟"へやってきた。現在の象潟
とは趣が全然異なり、当時は松島のように島が沢山あり
島の周りを船で回遊するようなところであった。しかし、
大地震で海底が隆起したためほとんどが陸地となってし
まった。当時の景観を思わせるような地名"九十九島"
だけは残っている。…
酒田の
余波なごり日を
重かさねて、
北陸道ほくろくどうの雲に
望のぞむ。
遥々ようようのおもひ
胸むねをいたましめて、加賀の
府ふまで百三十里と聞きく。
鼠ねずの関をこゆれば、越後の地に
歩行あゆみを
改あらためて、越中の国
市振いちぶりの関せきに
到いたる。
この
間かん九日、
暑湿しょしつの労に
神しんをなやまし、
病おこりて事をしるさず。
"文月や 六日も常の 夜には似ず"
(ふみずきや むいかもつねの よるにはにず)
…旅の第二の目的である"象潟"を訪れ、南下を始めた。
酒田から新潟までは船を利用したようである。
新潟では、此処、石船町が最初に訪れたところである。
ちょうど、七夕の前日である。…
岩船町 、
"荒海や 佐渡によこたふ 天河"
(あらうみや さどによこたふ あまのがわ)
…北陸道(ほくろくどう:国道7号線)を南下して、
日本海と佐渡島、そして天の川を観て、あの有名な句を詠む、
また、此処は、あの有名な
良寛の生まれた町でもある。…
今日きょうは
親おやしらず子しらず・犬もどり・駒返こまがへ
しなどいふ
北国ほっこく一の
難所なんじょを
越こえて、つかれ
侍はべれば、
枕まくら引ひきよせて
寝ねたるに、
一間ひとま
隔へだてて
面おもての
方かたに、若き女の
声こえ
二人計ふたりばかりときこゆ。
年とし
老おひたるおのこの声も
交まじりて
物語ものがたりするを聞けば、
越後えちごの国
新潟にひがた
といふ所の遊女ゆうぢよなりし。
伊勢いせに
参宮さんぐうするとて、
この関までおのこの送りて、あすは古郷ふるさとにかへす
文ふみしたためて、はかなき
言伝ことづてなどしやるなり。「
白波しらなみのよする
汀なぎさに身をはふらかし、あまのこの世をあさましう
下くだりて、定めなき契ちぎり、日々の
業因ごういん、いかにつたなし」と物いふを聞く聞く
寝入ねいりて、あした
旅立たびたつに、我々にむかひて、「
行方ゆくえ知らぬ
旅路たびぢのうさ、あまり
覚おぼつかなう悲しく
侍はべれば、見えがくれにも
御跡おんあとをしたひ
侍はべらん。
衣ころもの上の
御情おんなさけに、
大慈だいじのめぐみをたれて
結縁けちえんせさせ
給たまへ」と
涙なみだを
落おとす。
不便ふびんの事には
侍はべれども、「
我々われわれは
所々ところどころにてとどまる
方かたおほし。ただ人の
行ゆくにまかせて
行ゆくべし。
神明しんめいの
加護かご、かならず
恙つつがなかるべし。」といひ
捨すてて
出いでつつ、
哀あはれさしばらくやまざりけらし。
"一つ家に 遊女も寝たり 萩と月"
(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)
曾良そらにかたれば、
書かきとどめ侍はべる。
…新潟県の海岸線を南下して、市振の関所につく。このあたりの海岸線は、
親知らず、子知らずと云って、崖沿いの道を歩かなければならなかった。…
"しばらくは 花のうへなる 月夜かな"
(しばらくは はなのうえなる つきよかな)
…芭蕉たちが奥の細道を行脚しているときは北陸道の街道沿いにあった。
1880年頃、北陸道の街道から現在の場所に移転された。境内には有磯塚がある。…
"わせの香や 分入右は 有磯海"
(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
…此処、水橋神社の拝殿には、奉納の絵馬が多くある。なかでも、
源義経の絵馬が有名である。…
"あかあかと 日は難面くも 秋の風"
(あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)
くろべ
四十八しじゅうはちか
瀬せとかや、
数かずしらぬ川をわたりて、
那古なごといふ
浦うらに
出いづ。
担籠たごの
藤浪ふじなみは、春ならずとも、
初秋はつあきのあはれとふべきものをと、人に
尋たづぬれば、「
これより五里、
磯いそづたひして、むかふの山陰に入り、
蜑あまの
苫とまぶきかすかなれば、
蘆あしの
一夜ひとよの宿かすものあるまじ」といひおどされて、
加賀かがの国に
入いる。
"わせの香や 分け入る右は 有磯海"
(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
…放生津八幡宮(ほうしょうづはちまんぐう)には、芭蕉の句碑のほかに、
大伴家持が越中の国司在任中に詠んだ歌の歌碑もある。…
奈古の浦(放生津八幡宮) 、
…此処、奈古の浦は万葉にも詠まれた名所である。
松尾芭蕉もここで句を詠んだ。…
"早稲の香や わけ入類右は あ里磯海"
(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
卯うの
花山はなやま・くりからが
谷だにをこえて、
金沢かなざわは七月
中なかの
五日いつかなり。ここに
大坂おおざかよりかよふ
商人あきんど
何処かしょといふ者あり。それが
旅宿りょしゅくをともにす。
一笑いっしょうといふ者は、この
道みちにすける名のほのぼの
聞きこえて、世に
知人しるひとも
侍はべりしに、
去年こぞの冬、
早世そうせいしたりとて、その兄
追善ついぜんを
催もよほすに、
"塚もうごけ 我が泣く声は あきの風"
(つかもうごけ わがなきごえは あきのかぜ)
…金沢では、一笑(小杉一笑)と会えると思っていたが既に亡くなっていた。
句会では、その悲しみを句として詠んでいる。…
ある草庵にいざなはれて
"秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子"
(あきすずし てごとにむけや うりなすび)
…市振りでは親不知、子知らずを通って、大変な思いをした。
此処、金沢では一週間ほど滞在した。…
途中とちゅう吟ぎん
"あかあかと 日は難面も あきの風"
(あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)
"ちる柳 あるじも我も 鐘をきく"
(ちるやなぎ あるじもわれも かねをきく)
…本長寺の句碑は、次のようである。…
"春もやや けしき調ふ 月と梅"
(はるもやや けしきととのう つきとうめ)
金沢から小松へ行く途中で詠まれた句である。
同様の句が成学寺にもある。
"あかあかと 日は難面も 秋の風"
(あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)
小松といふ所にて
"志をらしき 名や小松ふく 萩薄"
(しをらしき なやこまつふく はぎすすき)
…このような句を詠んでいる。兎橋神社…
…建聖寺にて、…
"志をらしき 名や小松ふく 萩薄"
(しをらしき なやこまつふく はぎすすき)
…本折日吉神社にて、…
"しほらしき 名や小松ふく 萩すすき"
(しほらしき なやこまつふく はぎすすき)
この所
太田ただの神社に
詣まうづ。
実盛さねもりが
甲かぶと・
錦にしきの
切きれあり。
住昔、
源氏げんじに
属ぞくせし
時とき、
義朝よしとも公より
給たまはらせ
給たまふとかや。げにも
平士ひらざむらいのものにあらず。
目庇まびさしより
吹返ふきがへしまで、
菊きくから
草くさのほりもの
金こがねをちりばめ、
竜頭たつがしらに
鍬形くわがた打うちたり。
実盛さねもり
討死うちじにの
後のち、
木曾義仲きそよしなか
願状がんじょうにそへて、この
社やしろにこめられ
侍はべるよし、
樋口ひぐちの次郎が
使つかひせし事ども、まのあたり
縁紀えんぎにみえたり。
"むざんやな 甲の下の きりぎりす"
(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)
小松(多太神社) 、
山中やまなかの
温泉いでゆに行くほど、
白根しらねが
嶽たけ
跡あとにみなしてあゆむ。左の
山際やまぎはに
観音堂かんのんどうあり。
花山かざんの法皇、三十三
所しょの
順礼じゅんれいとげさせ
給たまひて
後のち、
大慈大悲だいじだいひの像を
安置あんちし
給たまひて、
那谷なたと
名付なづけ給たまふとなり。
那智なち・
谷汲たにぐみの二字をわかち
侍はべりしとぞ。
奇石きせきさまざまに、
古松こしょう植うゑならべて、
萱かやぶきの
小堂しょうどう、岩の上に造りかけて、
殊勝しゅしょうの土地なり。
"石山の 石より白し 秋の風"
(いしやまの いしよりしろし あきのかぜ)
動橋(那谷寺) 、
温泉(いでゆ)
に浴よくす。その
効こう
有明ありあけに
次つぐといふ。
"山中や 菊はたおらぬ 湯の匂"
(やまなかや きくはておらし ゆのにおい)
あるじとする
者ものは、
久米之助くめのすけとて、いまだ小童せうどう
なり。かれが父
俳諧はいかいを好み、
洛らくの
貞室ていしつ
若輩じゃくはいのむかし、ここに
来きたりしころ、
風雅ふうがに
辱はずかしめられて、
洛らくに
帰かへりて
貞徳ていとくの門人となつて世にしらる。
功名こうめいの
後のち、この
一村いっそん
判詞はんじの
料れうを
請うけずといふ。
今更いまさら、昔がたりとはなりぬ。
曾良そらは腹を
病やみて、
伊勢いせの国
長島ながしまといふ所にゆかりあれば、
先立さきだちて行くに、
"行き行きて たふれ伏とも 萩の原" 曾良そら
(ゆきゆきて たふれふすとも はぎのはら)
と書かき
置おきたり。行くものの悲しみ、
残のこるもののうらみ、
隻鳧せきふのわかれて
雲くもにまよふがごとし。予もまた、
"今日よりや 書付消さん 笠の露"
(けふよりや かきつけけさん かさのつゆ)
山中温泉(医王寺) 、
大聖寺だいしょうじの城外、
全昌寺ぜんしょうじといふ寺にとまる。なほ
加賀かがの地なり。
曾良そらも前の夜、この寺に
泊とまりて、
"終夜 秋風聞くや うらの山" 曾良そら
(よもすがら あきかぜきくや うらのやま)
と残す。
一夜いちやの
隔へだて千里に同じ。
吾われも秋風を
聞ききつつ
衆寮しゅうりょうに
臥ふせば、
明あけぼのの空近う
読経どきょう声すむままに、
鐘板しょうばん
鳴なつて
食堂じきどうに
入いる。けふは
越前えちぜんの国へと、心
早卒さうそつにして
堂下だうかに
下くだるるを、若き
僧そうども紙・
硯すずりをかかえ、
階きざはしのもとまで
追おひ
来きたる。
折節おりふし
庭中ていちゅうの
柳やなぎ散れば、
"庭掃いて 出でばや寺に ちる柳"
(にわはいて いでばやてらに ちるやなぎ)
とりあへぬさまして
草鞋わらじながら
書かき
捨すつ。
大聖寺(全昌寺) 、
越前えちぜんの
境さかい、
吉崎よしざきの
入江いりえを舟に
棹さおさして、
汐越しおごしの松を
尋たづぬ。
終宵よもすがら嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越しほごしの松 西行
この一首にて、数景すけいつきたり。もし
一辨いちべんを
加くはふるものは、
無用むようの指を
立たつるがごとし。
この遺跡は、芦原ゴルフクラブの海側の松林の中にあります。
イベントで非常に忙しいなか、迷わない所まで案内をしていただきました。感謝
丸岡まるおか
天龍寺てんりゅうじの
長老ちょうろう、古き
因ちなみあれば
尋たづぬ。又、金沢の
北枝ほくしといふもの、かりそめに見送りて、この
處ところまでしたひ
来きたる。
所々ところどころの風景
過すぐさず思ひつづけて、
折節おりふしあはれなる
作意さくいなど
聞きこゆ。
今いま
既すでに別わかれに
望のぞみて、
"物書て 扇引さく 余波哉"
(ものかいて おおぎひきさく なごりかな)
五十丁ごじゅっちょう山に
入いりて
永平寺えいへいじを
礼らいす。
道元禅師どうげんぜんじの
御寺おんでらなり。
邦畿ほうき
千里せんりを
避さけて、かかる
山陰やまかげに跡をのこし
給たまふも、
貴とうとき
故ゆへありとかや。
…金沢からお供をしてきた北枝(ほくし)も此の天龍寺で金沢へ戻って行った。…
松岡(天龍寺) 、
福井ふくいは
三里さんり
計ばかりなれば、
夕飯ゆうめししたためて
出いづるに、たそかれの
路みちたどたどし。ここに
等栽とうさいといふ古き
隠士いんしあり。いづれの年にか、江戸に
来きたりて
予よを
尋たづぬ。
遥はるか
十ととせ
余あまりなり。いかに
老おいさらぼひてあるにや、
将はた、
死しにけるにやと人に
尋たづね
侍はべれば、「いまだ
存命ぞんめいして、そこそこ」と、おしゆ。
市中しちゅうひそかに
引ひき
入いりて、あやしの
小家こいへに
夕顔ゆふがほ・へちまのはえかかりて、
鶏頭けいとう・
帚ほうき
木ぎに
戸とぼそをかくす。さては、このうちにこそと
門かどをたたけば、
侘わびしげなる女の
出いでて、「いづくよりわたり給ふ
道心どうしんの
御坊ごぼうにや。あるじはこのあたり何がしといふものの
方かたに行きぬ。もし用あらば
尋たづね
給たまへ。」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかかる
風情ふぜいは
侍はべれと、やがて
尋たづねあひて、その家に
二夜ふたやとまりて、名月は
敦賀つるがのみなとにと
旅たび
立だつ。
等栽とうさいも共に送らんと、
裾すそおかしうからげて、
路みちの
枝折しおりとうかれ
立たつ。
洞哉が住んでいた家の正確な場所ははっきりとしていませんが、
洞哉が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、左内町の顕本寺に建て
られたことが明らかになり、この付近に住んでいたことがわかった。 (説明板より)
漸ようよう
白根しらねが
嶽たけかくれて、
比那ひなが
嵩たけあらはる。あさむづの橋を
渡わたりて、
玉江たまえの
蘆あしは
穂ほに
出いでにけり。
鴬うぐいすの
関せきを
過すぎて、
湯尾ゆのお
峠とうげを
超こゆれば、
燧ひうちが
城じょう・
帰山かえるやまに
初雁はつかりを
聞ききて、
十四日じゅうよっかの夕ぐれ、
敦賀つるがの
津つに
宿やどをもとむ。その夜、月
殊ことに
晴はれたり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「
越路こしじの
習ならひ、なほ
明夜めいやの
陰晴いんせいはかりがたし。」と、あるじに酒すすめられて、
気比けひの
明神みょうじんに
夜参やさんす。
仲哀天皇ちゅうあいてんのうの
御廟ごびゅうなり。
社頭しゃとう
神かんさびて、松の
木この間まに月のもり
入いりたる、おまへの
白砂はくさ
霜しもを
敷しけるがごとし。「
往昔そのかみ
遊行ゆぎょう二世の
上人しょうにん、
大願發起だいがんほっきの事ありて、みづから草を
刈かり、
土石どせきを
荷になひ、
泥渟でいていをかはかせて、
参詣往来さんけいおうらいの
煩わづらひなし。
古例これい今にたえず、
神前しんぜんに
真砂まさごを
荷になひ
給たまふ。これを「
遊行ゆうこうの
砂持すなもちと
申もうし
侍はべる。」と、
亭主ていしゅのかたりける。
"月清し 遊行のもてる 砂の上"
(つききよし ゆぎやうのもてる すなのうえ)
十五日じゅうごにち、亭主の
詞ことばにたがはず
雨あめ
降ふる。
"名月や 北国日和 定なき"
(めいげつや ほくこくびより さだめなき)
"ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月"
(ふるきなの つのがやこいし あきのつき)
敦賀(気比神宮) 、
気比神宮の大鳥居前に銅像がある。
お砂持ち神事の由来
正安3年(1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が
諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、気比社の西門前の参道、
その周辺が沼地(この時代には気比神宮のあたりまで入江であった)
となって参拝者が難儀しているのを知り、
浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、
神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、
「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺
(藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。
元禄2年、奥の細道紀行で敦賀を訪れた松尾芭蕉は
月清し 遊行のもてる 砂の上″
と詠んでいる。 (説明板より) (Map-Code#192 849 153)
…文化センターの句碑は、松尾芭蕉が敦賀の月夜の海の素晴らしさを詠んだ句である。…
"国々の 八景更に 気比の月"
(くにぐにの はっけいさらに けひのつき)
…金前寺の句碑は、次のようである。…
"月いづこ 鐘は沈る うみのそこ"
(つきいづこ かねはしずむる うみのそこ)
「芭蕉翁鐘塚」
十六日じゅうろくにち、
空そら
晴はれたれば、ますほの
小貝こがいひろはんと、
種いろの
浜はまに舟を
走はしらす。
海上かいじょう
七里しちりあり。
天屋てんや
何某なにがしといふもの、
破籠わりご・
小竹筒ささえなどこまやかにしたためさせ、
僕しもべあまた舟にとりのせて、
追風おいかぜ時の間に
吹ふき
着つきぬ。浜はわづかなる
海士あまの
小家こいへにて、
侘わびしき
法花寺ほっけじあり。ここに茶を
飲のみ、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ、
感かんに
堪たへたり。
"寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋"
(さみしさや すまにかちたる はまのあき)
色が浜(本隆寺・開山堂) 、
"浪の間や 小貝にまじる 萩の塵"
(なみのまや こがいにまじる はぎのちり)
その日のあらまし、
等栽とうさいに
筆ふでをとらせて寺に
残のこす。
"衣着て 小貝拾わん いろの月"
(ころもきて こがいひろわん いろのつき)
…明星輪寺の句碑は、次のようである。…
"鳩の声 身に入わたる 岩戸哉"
(はとのこえ みにしみわたる いわどかな)
…本龍寺の句碑は、次のようである。…
"作り木の 庭をいさめる しくれ哉"
(つくりきの にわをいさめる しくれかな)
大垣藩の近藤如行(じょこう)をはじめ多くの門弟を門下にした。元禄7年大阪で病死すると、
正覚寺に芭蕉の追悼碑を最も早くたてた。また、木因の死後、木因碑をたてて、
この地を「芭蕉・木因」遺跡とした。
"あかあかと 日はつれなくも 秋の風"
(あかかかと ひはつれなくも あきのかぜ)
露通ろつうもこのみなとまで
出いでむかひて、
美濃みのの国へと
伴ともなふ。
駒こまにたすけられて
大垣おおがきの
庄しょうに
入いれば、
曾良そらも伊勢より
来きたり
合あひ、
越人えつじんも馬をとばせて、
如行じょこうが家に
入いり
集あつまる。
前川子ぜんせんし・
荊口けいこう
父子ふし、その
外ほかしたしき
人々ひとびと
日夜にちやとぶらひて、
蘇生そせいのものにあふがごとく、かつ
悦よろこび、かついたはる。
旅たびの物うさもいまだやまざるに、
長月ながつき
六日むいかになれば、
伊勢いせの
遷宮せんぐうおがまんと、また舟にのりて
"蛤の ふたみに別 行秋そ"
(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
…元禄2年8月21日(1689年10月4日)駒にたすけられて(馬に
乗って)大垣に入り"蛤の ふたみに別 行秋そ"を詠んで奥の細道
最後の句にした。
そして、再び船町港
から
伊勢神宮
へと旅立った。