算額を訪ねて

算額

 和算は元禄時代に関孝和が中国から伝わる数学を、 日本独特の数学として編み出し、 関流和算として全国 に広めた。
 算額は数学の絵馬のことで、 板で造った額に漢字 で、色彩豊かに 「図形の問題」と「答」と「解法」を書いて 神社やお寺に奉納したものである。 三島神社の説明板より、 算額の写真は福徳神社の境内に飾ってある復元された奉納額である。




春日神社(伊達郡:川俣町)

春日神社(伊達郡:川俣町)

 神宮寺とともに創建されたと推定され、江戸時代には小手郷二十六か村の 総社そうじゃであった。
 祭神は 天児屋根命あまのこやねのみこと武甕槌命たけみかつちのみこと齋主神いわいぬしのかみ姫大神ひめおおかみの 四座である。現在の社殿は、 入母屋いりもや 造りに 千鳥破風ちどりはふ唐破風からはふつきの 豪壮な建物で、十年の歳月を要して元文五年(一七四〇) に完成し 遷宮せんぐうした。 社殿は内部を前後に区分し、前を拝殿とし、後の本殿は 流造ながれづくり の一間社の神殿三棟が並び、中央に春日四所宮、右に天照大神、左は八幡大神を まつる。



春日神社(伊達郡:川俣町)

  彩色された彫刻は、霊獣や聖獣はじめ花鳥など十五種百四十八点におよび、 名君の出現を願望する霊獣の 白澤はくたくは、 本社以外に国内で見つかっておらず大変貴重である。
 江戸時代の祭礼は、旧暦九月九日に行われ、十二 膳献饌ぜんけんぜん式 と競馬くらべうま、 および 流鏑馬やぶさめが 行われ、川俣特産の絹織物の祭礼市がたち、全国の商人達も押し寄せて 大にぎわいになり、 『諸国しょこく(全国) 御祭禮番附ごさいれいばんづけ』 にる 中通り地方随一の大祭であった。
   平成三十一年三月
           川俣町教育委員会
           川俣町文化財保護審議委員会  (説明版より)



八王子住吉神社

八王子住吉神社

  住吉神社
鎮 座 地
 八王子市片倉町2475番地
御 祭 神
 上?男命うわつつおのみこと 
 中筒男命なかつつおのみこと 
 底?男命そこつつおのみこと 
由 緒
 鎌倉管領片倉城主、長井大善大夫道広が 応安5年(1372年)城の鎮守の神として摂津国 (大阪市) 住吉大社を勧請したのである。
慶安2年(1649年)10月17日コ川三代将軍より 朱印七石を受ける。
境内は城跡で、都の指定を昭和11年3月受ける。
例 祭 日
 八月第四日曜日


八王子住吉神社

     附記
当神社には嘉永4年(1851年)川幡元右衛門泰吉 および、その門人が 「数学の実力がつきますように」 という祈願された算額が奉納されています    (説明版より)


福徳神社 (中央区:日本橋)

福徳神社 (中央区:日本橋)

 福徳神社 由緒
当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世 紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物・ 食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれ て鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より 源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、 ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁 は深く、彼の神霊は当社に合祀されてい る。徳川家康は天正十八年江戸入部直後 に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九 年に参詣し、「福徳とはめでたい神号だ」 と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮 付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生 えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与 えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、 社地を三百三十坪と公定するなど当社を 篤く尊崇した事跡が伝わっている。
その後、江戸の町の発展と度重なる火災 や社家の事情などにより境内地をほとん ど失い、一時は消滅の危機に瀕した。そ れでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承 してきた結果、平成二十六年秋、日本橋 地域諸氏の尽力により往時の姿を彷彿と させる境内・社殿が再興されるに至った。
(碑文より)

福徳神社 (中央区:日本橋)

  第1問 加須市大字外野二八二ー二 棘脱とげぬき地蔵堂
 この問題は長谷川弘 - 松枝誠斉せいさい (大里村、現熊谷市) - 島田熊次郎ゆうじろう - 島田 宇市郎義門、 と続く師弟関係でこの宇市郎の弟子で塩田村の塩田喜蔵が明治6年3月に 他の門人5名と奉額した中の1問である。
 『埼玉の算額』によれば、 棘脱地蔵堂には全部で5面 の算額が記録されているが、 現在確認できるのはわずか1面のみである。
第2問 加須市多聞寺五七八  愛宕あたご神社
 この算額は平成30年に新しく作り直し再奉額されている。 明治13年4月の奉額である元の算額は社殿にそのま ま掲げられており、 新算額は境内の社務所に保管されてい る。 問題は加庭国造かにわくにぞう (加須市多門寺)の門人で南篠崎村大越栄市郎富久のものである。 加庭は松枝誠斉‐茂木柳斉 (羽生)‐加庭と続く師弟関係である。 茂木柳斉は長谷川か ら隠題免許を受けている。
第3問 加須市騎西五五二 玉敷たましき神社
都築利治の門人で、高柳村杉田辰之進の問題で、大正4年 10月の奉額である。 玉敷神社は延長5年の 『延喜式』にその名が見えるほど古くから由緒のある社である。

福徳神社 (中央区:日本橋)

  第4問 加須市中種足一二七三  雷いかづち 神社
 この問題も都築の門人である加藤幸輔、 坂口 宇之輔によ って、 明治8年3月に奉額されている。 3問あるが、どの問題をだれが出題したかについては不明。
第5問 この問題は和算の特徴の一つで、 遺題いだいと称せられ るもので和算の発展に大いに寄与した風習である。この問 題にぜひとも挑戦して解いてみてほしいというものである。 額には遺題とするため奉納地を記していないが、三郷市上 彦川戸の香取神社に奉納された算額の問題である。奉納者 は金杉清三郎清常(花又村現足立区花畑) 門人、同所深井伊 兵衛宗階で明治13年2月81歳のときである。 この問題にはすでに解法例が50数通り見つかっている有名な問題である。
(リーフレットより)

生石神社(おうしこじんじゃ)(兵庫県:高砂市)

生石神社

 

生石神社

 算額がきれいに復元されている。

生石神社

 生石おうしこ神社 のご神体として祭られている巨岩「石の宝殿」は、 「日本三奇」の一つに数えられていて、この巨岩が水面から浮揚って見える。

円満寺(奈良県:奈良市)

円満寺

 奈良県指定文化財
  円満寺の算額 一面
      平成六年三月二日指定
  江戸時代(天保十五年 1844年)
 算額は和算の問題を記して神前・仏前に
奉納した絵馬の一種である
 問題は一定の条件を示したうえで図形の 一辺の長さを求めるもので当時の和算家が 教授した典型的な出題内容である奉納者は 「当村 源治郎」とあり地元でお和算の勉強 をしていた人であると考えられ、個人で和算習 得の成果を算額として奉納したようである。
 当時行われていた和算の内容をよく表す もので大和における和算の広まりを示すととも に数少ない算額の遺例としても貴重である。
        奈良市教育委員会  (説明版より)

円満寺

 

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)(京都府:京都市)

御香宮神社

 御香宮神社には北野天満宮、八坂神社とともに「京都三大絵馬堂」と いわれる絵馬堂があります。

御香宮神社

 絵馬堂

御香宮神社

 算額

弘仁寺(こうにんじ)

弘仁寺

 

弘仁寺

 非常に大きな数(大数)の立方根を求める問題を解いている。 算板と算木を使っての計算は大変な作業になると思う。 僕たちが普段見慣れている数は一位から兆の位であるがその後も続いて…無量大数(むりょうたいすう) といい、1億の1億倍の数だそうです。

弘仁寺

 算額についての説明板があるが読み取れなかった。

長岡天満宮

長岡天満宮

 菅原道真公が生前散策し歌を詠んだところ。

長岡天満宮

 絵馬堂

長岡天満宮

 算額

北野天満宮

北野天満宮

 全国天満宮総本社 北野天満宮
 菅原道真公(管公)を祀る全国約一万二千社に及ぶ天満宮・ 天神社の総本社。
 「和魂漢才」の精神を提唱された菅公は、後に「文道大祖 風月本主」と称えられ、学業成就や厄除、技芸上達の神と して信仰を集めている。
 村上天皇天暦元年(九四七)、平安京の北西(天門)に創祀 され、天コ三年(九五九)藤原師 輔卿もろすけが 御社殿を造営、以来 朝野の崇敬篤く、殊に一條天皇には「北野天満大自在天神」 の神号を賜り、格別の尊崇を受け、「天神さま」として全国 に伝播した。
 また、天正年間には豊臣秀吉公が境内一帯の北野松原で 北野大茶湯を催し、慶長年間には出雲阿国が京において 初めてややこ踊り(歌舞伎踊り)を演じるなど、日本文化発 信の中心地として強く意識されてきた。
 現在の御本殿(国宝)は、豊臣秀頼公が、慶長十二年 (1607)に造営されたもので 八棟造やつむねづくりと称し、 権現造ごんげんづくりの原型 となった桃山建築の代表的遺構である。また、中門は三光門 と呼ばれ、後西天皇 御寝筆ごしんぴつの 勅額「天満宮」を掲げている。
 宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻・承久本 (国宝)をはじめ、貴重な文化財を多数蔵している。
 毎月二十五日の御縁日(天神さんの日)には多くの参拝者 で賑う。 京都市

北野天満宮

 絵馬堂

北野天満宮

 算額

南宮大社

南宮大社

 南宮大社御由緒
 御祭神 金山彦大神
御鎮座は古く人皇十代崇神天皇の御代と伝えられ 国分から南方に当たる故 南宮大社と称せられている 古来金宝の守護神 破魔除災の神と御神威高く 既に千年前延喜の制に國幣大社に列せられ一宮 として亦広く金之總本宮として崇敬厚い名社である 御社殿は関ヶ原合戦の兵火に遇いて炎上の為 コ川家光公旧に復して再建され、明治維新の 神佛分離令に依り堂塔は他に移建され今日に至る 本殿以下十八棟が国の重要文化財の建築である
節分祭 二月節分   大的歩射神事
例大祭 五月四日・五日 御田植神事蛇山神事
           御輿渡御国指定無形文化財
金山祭 十一月八日  通称ふいご祭

北野天満宮

 算額

三島神社

三島神社

 三島神社の算額(中大桑)
三島神社には大型の算額 (巾2.0m・高さ1.2m) が、 川台の和算家7名(菊地武造・佐々木芳治・佐々木民三 郎・氏家長治・佐々木長蔵・氏家修治・佐々木弥市郎)に よって大正3年3月に奉納されている。
 和算は元禄時代に関孝和が中国から伝わる数学を、 日本独特の数学として編み出し、 関流和算として全国 に広めた。
 萩荘の和算は関流和算の流れを汲む花泉の千葉胤 秀を祖として普及発展し、萩荘全域に50名を超える和 算家が生まれ、後進の指導に当った。
 算額とは数学の絵馬のことで、 板で造った額に漢字 で、色彩豊かに 「図形の問題」と「答」と「解法」を書いて 神社やお寺に奉納したものである。
いちのせき元気な地域づくり事業(萩荘文化協会・萩荘文化財研究会) 平成27年12月 
 説明板より

三島神社

 算額

野地観音堂

野地観音堂

 野地觀音堂
 野地観音は、野地家の護り本尊として祖愛智六郎満頼が 祀り、満頼は近江の国野路の郷に生まれ豪傑であったので 仕官して愛知郡江居城を築き、領土を賜わり城主となるが、 寛治元年(1087年)九月、陸奥の乱るるに源義家が陸 奥守鎮守府将軍であったため討伐の命により東征。義家は 満頼の叔父にあたり遠征に加わる。
 白河以東を討伐し偉勲により感状を授与され、川崎に城 を構え甲賀寺より勧請した観音様の堂宇を建立して祀った。  承元三年(1209年)川崎城没 落、堂宇も頽廃したがその後蒲生氏 郷の寄進により、文禄二年(159 3年)に再興されたという立派な彫 刻も施され綺麗な堂宇である。
 なお、堂宇には市重要文化財に指 定されている「算額」がある。この 算額は、当地方きっての算学者であ った古城内の野地弥源太豊成が解い たものを額に入れて奉納した。
  平成二十八年度 市民との協働による地域づくり補助事業
  安心な下川崎をつくる会

野地観音堂

 二本松市指定有形文化財
算額   一面
 昭和五十三年七月三日指定
嘉永かえい三年(一八五○)三月、野地弥源太豊成が野 地観音堂に奉納した算額である。
 ケヤキ材の一枚板を額装しており、法量は額寸縦 40.5cm、横56.1p、 実寸縦32.2cm、横48.4pを測る。額面には、円と楕円との接触の問題二 題が彫り刻まれている。また、以前は図形の部分に 白色と緑色の顔料で彩色されていたが、 現在は剥落 している。
奉納者野地豊成は文化元年(一八〇四)生まれ、 古城?の人で、二本松城下松岡で商家を営むととも に最上流さいじょうりゅう和算家であった矢?佐左衛門の門人となり、 和算の普及に尽した。慶応二年(一八六六)歿、戒 名は楽算院鉄山浄堅居士。安達地域に現存する算額 では最も古く、保護していく価値がある。
二本松市教育委員会

野地観音堂

 算額の説明

神明神社

神明神社

 神明神社
神明神社は三重県四日市川島町に鎮座している神社で天照大神を主祭神、 建速須佐之男命を配神として祀っている。 創建は鎌倉後期から室町時代と言われている。  

神明神社

 市指定有形民俗文化財
算 額
  平成十一年九月二十八日指定
 算額は、数学の問題 を解いて、神社仏閣に奉納した絵馬 の一種である。神明神社には寛政二年(一七九○)、天保 十五年(一八四四)、文久三年(一八六三)の三種類の算 額が残されている。寛政二年の額には三問が取り上げられ ている。第一問は、武田濟美が寛延三年(一七五〇)に著した 『蘭微算法せんびさんぽう 』に 残された問題を解いたものであり、 第二問は菱形に三つの円を内接させた図形に関する問題 第三問は直角三角形に五つの円を内接させた図形に関する問 題で、いずれも三平方の定理を繰り返し用いて解答している。
 天保十五年の額は、正方形に円を内接させたときにでき る隙間に円を順次内接させ、さらにその隙間に円を内接さ せていくという問題で、「當社産子柳川安左衛門」の銘を持 ち、裏面にはその門人の清水中治が文久四年(一八六四) に解答している。
 文久三年の額は、円内に円を内接させたときにできる隙 間に順次円を内接させてゆく問題であるが題意は不明確で ある。いずれも約七十年間にわたって地元の人々が和算を 学び算額にして奉納していたことがわかり、この地方にお ける和算の普及を示す貴重な資料である。
     平成二十三年三月 四日市市教育委員会

神明神社

 

神明神社

 

神明神社

 

春日神社

春日神社

 桑名総鎮守 桑名宗社
桑名神社 旧 三崎大明神
 御祭神 天津彦根命
天照大神の第三皇子桑名の土産神で
海上安全と家運繁栄の靈驗あり
 御祭神天久々斯比命
天津彦根命の子である
 中巨神社 旧 春日大明神
 御祭神 天日別命
伊勢の国造の遠祖で神武天皇の功臣である
 御祭神春日四柱神

祭事 毎年八月第一日曜日 石採御神事
   八月十六・十七日  比与利祭
   九月十七・十八日  御車祭
 

春日神社

 算額はご覧の山門に飾ってあります。

金王八幡宮

金王八幡宮

 金王八幡宮
御祭神 応神天皇おうじんてんのう (品陀和気命ほんだわけのみこと) 
祭礼日 一月一日 …
    …
由緒 金王八幡宮こんのうはちまんぐうは、 寛治六年(皇紀一七五三年 西暦一○九二年) 渋谷氏しぶやうじ  河崎基家かわさきもといえにより 鎮祭ちんさいされ、 基家の子 重家しげいえが 鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として 以来、渋谷氏の 氏神うじがみとして 尊崇そんすうされました。
渋谷重家には 嫡子ちゃくしがなく 当神社に祈願をしたところ、 大神おおかみ御神徳ごしんとくにより 渋谷金王丸常光しぶやこんのうまるつねみつ のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語・吾妻鏡などにみられる通 りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、 金王丸の名声に因み 「金王八幡宮」と称するようになりました。
また、境内の金王桜 (渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重 と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
江戸時代には、竹千代 (徳川家光)の教育役の 青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍 就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及 び神門しんもん (渋谷区指定文化財)を寄進されました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神様として 数多あまた崇敬すうけいを集めております。
 

金王八幡宮

   渋谷三丁目5番2号 金王八幡宮
  区指定有形民俗文化財 平成五年二月五日指定
算額 (嘉永三年奉納)
算額 (安政六年奉納)
算額 (元治元年奉納)
 古代中国から日本に伝えられて、独自の発達をと げた和算の絵馬です。
 算額は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見 た者が解答を試みる方式のもので、神社や寺院に奉 納されました。添えられた図の多くは着色されてお り、装飾的な傾向から目立ちやすく、学業成就の祈 願のほかに難問を提起して名を広めようとする意図 もあったと考えられます。
 この三点は、武家地域と商業地域の接点であった 宮益町付近の在住者により奉納されたことが注目さ れます。そのうちの安政六(一八五九)年の一点は、西条 藩の武士により奉納されました。また、元治元年奉納 の算額は、扇面の形をしたたいへん珍しいものです。   渋谷区教育委員会 

金王八幡宮

 

金王八幡宮

 

坂木宿ふるさと歴史館

坂木宿ふるさと歴史館

 坂木宿ふるさと歴史館(旧春日邸)建物概要
◆この建物は昭和4年(1929) 北国街道坂木宿本陣跡地 560坪(1851.27m2)の敷地に、 総床面積122坪(403.65m)木造3階一部 平家建て造りが住宅として完成されました。
◆敷地内の南西隅に、江戸時代中期に建てられた旧本陣表門(間口6間×奥行2.5間) が本陣唯一の遺構として残されています。
◆館は敷地中央へ中型(間口9.5間×奥行13間)に配置され、本棟は12の和室を持つ3階建て 造り、北棟に水廻り・東棟に15帖 2間続きの座敷を平家造りとし、周囲の四季を楽しみ散策もできる日本庭で囲まれています。 屋根は日本瓦にて軒先きを 4尺と大きく出し、入母屋、切妻、寄せ棟、土産、とバランス良 く大屋根で葺きあげ、外壁は真壁による色漆喰塗りと格 式の高い住宅として仕上げられて います。
◆内部3階建ての間取りは、140m/mの角柱12本を屋台骨とした城郭建築のような造りで、 中央の中廊下を軸に6帖・8帖の和 室4室が設けられ、各室から眺める周囲の山々、 街並み、庭園等は絶景です。
◆使用された建築材料も充分に吟味され、高度な匠の技により仕上げられ70年以上経過 した現在でも狂いの少ない建築とし て現存していますが、永年の時代変化により竣工時とはだいぶ変わり果ててしまいました。 この館は地域のシンボルとして、坂城町の誇る歴史的な文化遺産を後世に伝える為に、 建物調査、建物利活用が十分に検討さ れ「平成16年度 坂木宿本陣跡整備事業」により補修・補強・クリーニング等を施こし、 竣工時に近い建物に復原されました。 (展示資料より)

坂木宿ふるさと歴史館

 和算
「一 十 百 千 万 億 兆 京......普通に使用している数の単位、これは江戸時代、 日本で高度に 発達した数学=「和算」によってはじめられ、現在までつかわれてい る単位です。江戸時代の坂 城周辺では坂木宿を中心に江戸後期から明治初頭にかけて和算が普及し、 町内北日名の天 幕社に奉納された算額を今でもみることができます。 算額にのせられた問題は大変難解で高 度なもので、この地域にすむ人々の数学力の高さをしめしています。 明治時代にはいり、日本は 近代化をおしすすめるため、西洋の数学=「洋算」を学校教育に採用しました。 このことから 「和算」は急激に衰退していきましたが、和算によってつちかわれた日本人の数学力は、 近代日本をささえてゆく重要な礎となりました。
和算の歴史
日本の数学は飛鳥・奈良時代のころ、中国から数学書や計算の道具である 「算木」が伝来し すこしずつ発達してゆきました。室町時代に中国から流入した 「そろばん」は江戸時代にはい り産業や経済の発達を背景に武士や商人、職人、さらには農民までが使用し、 「そろばん塾」や「寺子屋」でまなばれました。とくに吉田光 由が著した『塵劫記』は、そろばんをつかった計 算法や実用的な問題を解く方法をわかりや すく紹介したことから江戸時代のベストセラー となりました。
 十七世紀の後半、「算聖」こと関孝和が登 場すると、中国から伝来した高度な計算法で ある天元術をさらに進歩させた方法 = 点鼠 術を考案し、日本独自の数学をきずきあげま した。関にはじまる「関流」をはじめ、和算は いくつもの流派(最上流、宅間流、宮城流など) をうみ、江戸・京・大坂を中心に全国へとひろ まり、武士から町人、農民へと浸透しました。
和算は土木工事から天体観測、商業など実用 的な一面をもちながらも、俳句や和歌とおな じような趣味感覚で、難解な問題を発見し解 くことをたのしむ、世界でもまれな文化とし て成長し、そのレベルは西洋数学の最高水準に 匹敵するものもありました。 (展示資料より) 

坂木宿ふるさと歴史館

 天幕社てんばくしゃの算額
 慶應元年(1865)夏、 市川佐五左衛門いちかわさござえもん菱田与左衛門ひしだよざえもんは 共同で一題ずつ計四題の問題を かかげた算額 を奉納しました。現在は北日名の天幕社で保管されているもので、その内容は法道寺の門人 たるに相応しい 大変高度な問題で、県内で確認されている算題としてもっとも難度のたかいものです。両人 の学力のたかさ をしめした算額といえます。この算額は縦62p×横102pで、枠は幅4pの白木の杉、 額面は柏で、問題の 図形には彩色してあります。算額の文字を揮毫したのは地元立町の書家古谷鳳城重任です。  (展示資料より)
(坂木宿ふるさと歴史館に展示中の算額は複製資料であり、個人の所有物であります)

鳥総神社

鳥総神社

 情報収集中

鳥総神社

 算額

鳥総神社

 芭蕉句碑

   ”花に遊ぶ虻なくらひそ友すずめ”
  ( はなにあそぶ あぶなくらいそ ともすずめ )

石清尾八幡宮算額(いわせお)

石清尾八幡宮

 石清尾八幡宮
【祭神】
応神天皇 仲哀天皇 神功皇石
【由緒】
 社伝によると、延喜一八年(九一八年)八幡大神が 亀命山山頂に現れ、時の国司が山上に祠を建てて祭っ たと言われる また、岩清水八幡宮の分霊を祭ったと もいう。別に杜の由緒に関しては、当社の延起は年歴 久遠にしてその灌觴定かならずとも云う。
 貞治年間(1362−1368)細川右馬頭頼之が 戦勝を祈願して霊験をこうむり、社殿をkakudai初拡築し武具を 奉納し、毎年4月3日に祭礼を行った。これを右馬頭 市という。
 天正一六年(一五八八年)生駒親正が讃岐に封じら れると、高松城を染き、当社を城の鎮守と定め、社殿 を改築し、高松の産土神とした。
 松平頼重も当社を崇敬し寛永二一年(一六四四年) には社殿を造営して現在地にうつし、社領202市余 りを寄進、石灯籠、三十六歌仙の篇額等を奉納した。 その後、宝永二年(1705 )三代藩主頼豊が改修 以来歴代藩主は毎年社参を通例とした。
 

石清尾八幡宮算額

 爾来改修をくり返し、すぐる大戦にも一部被害を受 けたのみであったが、昭和六十一年十月、不測の火災 により本殿、上拝殿は炎上、鳥有に帰した。
 平成元年九月、遠方近郊の崇敬者及び氏子、市内有 力企業の奉賛を得て、本殿、上拝殿其の他社殿を改築 整備し、神門、下拝殿を修復して、焼失前より更に規 模を広げ、平成の復興は終了した。
【例祭】
 十月第三土曜日 日曜日

石清尾八幡宮算額

 算額

大胡神社の算額

大胡神社

 大胡神社
前橋市指定文化財 大胡神社の算額
指定年月日     平成6年4月5日
所在地       前橋市河原浜町615 大胡神社
所有者および管理者 大胡神社
 算額とは、和算家が自分で研究した問題と解答を社寺の軒下に奉納掲揚したものです。この額は、大正 4年に船津伝次平を師とする、和算家である大原福太郎(茂木町)が奉納したもので、3つの問題が載せら れています。和算は江戸時代に盛んでしたが、明治以降衰えたため、大正期の算額としては珍しく、県内 唯一のものです。

大胡神社

 

木島平村 農村交流館の算額

木島平

 算額の奉納
江戸時代に発達した日本独自の数学を和算と呼ぶ。和算は算額奉納によって、その水準を高めていった。木島平をはじめ、岳北地 方の神社仏閣には多くの算額が残っている。全国各地で算額が奉 納されたのは、次の理由からである。
信仰
 難問を解くことができたのは神仏の加護による ものであり、それを感謝す るとともに、より難しい問 題が解けるように神仏に 祈願した。
研究成果の誇示
 当時、算術の書の刊行には莫大 な費用がかかったため、無名の士 にとって難問の解答を発表した り、あるいは自分が考えた問題を 世に提示したりする方法としては この上ないものだった。
記念
 学業を修了したことを 記念し、算額を神社仏閣に奉納した。
流派の宣伝
 各流派がつくり上げた難問を奉納することで、他流派と比較して 自流が優れていることを示す目的もあった。
(中村士『日本の暦と和算』から引用)

木島平

 湖龍の奉納算額
和算を学んだ人は学びの成果を披露するために、あるいは難問が解け たことを感謝するために寺社に算額を奉納した。算額は見せることを 意識したため、彩色した図形問題が多い。
 湖龍は小林松順の門人として、寛政8(1796)年に長野の善光寺へはじめ て奉納した。4年後には自らが師匠と して門人6人を伴って計見けみ村中島の 諏訪社(水穂神社)へ奉納、文化6 (1809)には門人10人を伴って田 上村 (中野市田上)の観音寺へ2面 を奉納した。知られている湖龍の奉 納算額はこの4面である。
水穂神社の算額(1800年)
 このうち善光寺のものは問題の記録は残っているが、算額は失われて現存しな い。水穂神社の算額はできばえがすばらしく、全国的に注目されている。観音寺 の算額2面は近くの長福寺へ移管され、中野市の文化財に指定されている。
 さて、江戸時代から明治時代にかけて、各地の寺社に多くの算額が奉納された が、それらはいつしか失われてしまって現存するものは少ない。
 しかし、長野県内に現存する算額のうち、その1割以上にあたる8面が木島平 村に残っている。木島平の人にかかわ りのある他市町村現存の算額も含め れば、その数はもっと多い。木島平村 では、これらすべての算額を写真複製 し、ふるさと資料館で展示している。
田上長福寺蔵の算額(1809年)

木島平

 木島平の和算家
 江戸時代の後期、木島平には和算を学 んだ人が多くいた。その中で代表的な人 物は、計見けみ村中島(木島平村中島)の 野口湖龍のぐちこりゅうと中村(木島平村中村)の 本山湖波もとやまこみうである。
 野口湖龍は善光寺をはじめ、中島の 水穂みずほ神社や 田上たがみ(中野市田上)の観音寺へ 算額を奉納した。北信濃と南魚沼(新潟県 津南町)に門人が多くいて、和算の著書 も著した。
 本山湖浪は野口湖龍門人中の筆頭で、中村の 一川谷大元いちかわだにおおもと神社に 算額を奉納した。湖浪は湖龍のあとを継いで当地方に和算を広げ、 門人たちが奉納した算額も残っている。
 明治時代になると、明治政府は和算ではなく西洋式の数学(洋算) を学校教育に導入した。それ以後、和 算は徐々に衰退していった。 岳北がくほく地方 では、明治時代のなかば過ぎまで和算 を学ぶ人たちがいて、算額が奉納されたり 算塚さんずかが建てられたりした。
芳澤湖竹よしざわこちくの 算塚(木島平村馬曲まぐせ)」
幕末から明治時代に活躍した和算家

木島平

 中島の月岡湖梅こばい (1813〜1886)
 湖梅は中村の本山 湖浪こみうの門下で学んだ。西小路の 満昌院まんしょういんに奉納 算額が残っている。越後国直江津の和算家 小林百哺ひゃっぽの教えも受け た。明治38(1905)年に 頌徳碑しょうとくひが建立された。
馬曲まぐせの芳澤湖竹こちく (1813〜1890)
 本山湖浪の門弟の一人。湖浪が亡くなってからは、飯山藩 の下級武士で 静間しずま(飯山市静間)に住んでいた 三井斧吉おのきちに入 門した。湖竹自身も多くの門人に囲まれていた。明治24年 に湖竹の門弟らが算塚を建立した。
 千石せんごくの 小林嘉成かせい (1828〜1910)
 月岡湖梅の門弟の一人。芳澤湖竹と同じように静間の三井斧吉 に入門した。明治15年に野沢村の 河野湖楊こようらと和算塾 「啓蒙社けいもうしゃ」 を結成した。明治20年に嘉成の門弟らが筆算塚を建立した。
小路こうじの小林半治郎 (1849〜1896)
小林嘉成の門弟の一人。 原大沢はらおおさわの天満宮へ算額を奉納した。測 量術を得意とし、自作と思われる測量具が残っている。通称 「下堰したぜき の半治郎」。半治郎にも門弟がいた。

木島平

小見おみの 山崎久太きゅうた (1858〜1930)
 明治25年に 『数理八見開すうりはっけんかい』と題した和洋算の書物を、木 版刷りで自費出版した。和算と洋算の両方の解き方を紹介し ている画期的な問題集である。版木は現存する。
有形文化財 水穂神社の算額
所在地 木島平村大字往解字中島
所有者 水穂神社
指 定 昭和五四年一一月一二日
 算額は和算の問題が解けたことに感謝して寺社に 奉納された。あわせて和算を世間に広めようという 和算家の願いもあった。
 水穂神社の社殿には、和算家の野口湖龍と門弟六人 が本納した算額と滝澤長右衛門らが奉納した算額の 二面がある。
 宮城流や関流の和算を学んだ野口湖龍は、県内でも。 名高い和算家で多くの門弟がいた。
 木島平村内には八面の算額が現存するが、中島の 野口湖龍らが奉納した水穂神社の算額が最古のもの である。
木島平村教育委員会

木島平


木島平


木島平


木島平


木島平

 算盤

桐生日枝神社の算額

桐生日枝神社

 右の額は、 最上流算額にて明治十二年に多くの地元門弟によって 奉納され和算史上貴重な文化財である 永年の風雨にさらされ損傷も認められ、これ以上の 風食をさけ保護措置の必要から泰納依頼百余年 を記念して復原し複製をここに掲額する
昭和六十二年十月吉日
神 官  前原茂夫 世話人
総代役員 木村喜一郎 島 勝二
     村岡勝次郎 田中恒太郎
     山崎嘉一  平塚貞作
     上岡満司
     大沢繁雄

桐生日枝神社

 

桐生日枝神社

 群馬県指定 天然記念物
桐生城跡日枝神社のクスノキ群
   指定年月日 昭和三十三年三月二十二日
 社殿の左手の四本のクスノキで南北朝時 代に桐生国綱が神木として献上したと伝え られる。
 暖地性の植物のため一個所に数株を見る ことは珍しい。従って、史木としてのみで なく巨木としても貴重である。
 第一樹は、目通り4.1m、樹高24m。 第二樹目通り3.7m、樹高22m。第三 樹36m、樹高23m。第四樹目通り3.2m、 樹高二五m。第一〜第三樹は約六○ ○年、第四樹は約三〇〇年の樹齢と推定さ れる。
 第三樹は隣接する力ヤの木に寄りかかっ ているため危険であり、上半分の代採等全 体的な手入れを昭和五十七年九月に実施し た。
昭和五十八年三月  桐生市教育委員会

崇禅寺の算額

崇禅寺

 崇禅寺
一萬松山 崇禅寺そうぜんじは、 古くから川内の 阿弥陀様あみださまの寺とし て知られた 臨済宗りんざいしゅう名刹めいさつで境内地一帯は寺の歴史的・ 文化的資産と自然が調和している地域として、県によ り緑地環境保全地域に指定されています。
 如来堂にょらいどうに安置 されている木彫 阿弥陀如来像あみだにょらいぞうは、 五個の檜材ひのきざいを 組み合わせて作られた鎌倉時代の仏像で、昭和33年に県の重要文化財に指定されています。  環境省・群馬県

崇禅寺

 

崇禅寺

 

雷電神社の算額

雷電神社

 伊勢崎市指定史跡
雷 電 神 社 古墳
       昭和五十二年三月十一日指定
 雷電神社古墳は伊与久地区の北方に位置し粕川と早川の支流である中城に挟 まれた低台地上に築造された古墳であり、本古墳北側には十三宝塚遺跡が広が る。「上毛古墳綜覧」によれば、本古墳の周辺には多数の古墳があったとされる が、現在では殆ど消滅している。従って伊与久地区の古墳を知る上で貴重な古 墳である。
 本古墳の形態は主軸を東西にとり、前方部を東に向ける全長約五十メートル 程の前方後円墳と考えられる。現在ではくびれ部なども明確でない程に削平・ 変形されてしまっているが、西側には後円部の名残りがわずかに認められる。 遺骸を葬った主体部は南に開口する両袖型横穴式石室であり、現在の神社本殿 の真下あたりと考えられる。現在では補修が著しいが、比較的旧状をとどめて いるのは玄室部で、長さ四・七メートル、奥壁下幅一・三五メートル、中央部 幅二・一ニメートル、入口幅一・一五メートルとやや胴部の張った形である。 この石室を構成する石材は棒名山系のニツ岳が噴火した際に噴出したとされる 安山岩の一種であり、そ の加工技術・石材の積み 方は精巧である。
 明治年間に発掘された とされるが、遺物は殆ど 残っておらず、石室の形 態、石材の加工技術など から七世紀後半の築造と考えられる。
      昭和五十八年三月三十一日  伊勢崎市教育委員会

雷電神社

 算額

雷電神社

 

筥崎宮の算額

筥崎宮

 筥崎宮
延長元年 (923年)創建で、祭神は、 応神おうじん天皇、 神功皇后じんぐうこうごう(応神天皇の母)、 玉依姫命たまよりひめのみこと。 文永11年(1274年)の 元寇げんごうの際に 社殿を 焼かれたほか、何度かの火災に見舞われま したが、天文15年(1546年) 大内義隆おおうちよしたかに より現在の本殿と拝殿が、文禄3年 (1594年)には 小早川隆景こばやかわたかかげにより 楼門ろうもんが再 建され、いずれも国の重要文化財に指定さ れています。境内には、 「蒙古碇石もうこいかりいし」などが あります。 日本三大八幡
筥崎宮はこざきぐう 
祭神/応神天皇(八幡大神)
神功じんぐう皇后、 玉依姫命たまよりひめのみこと
例大祭 / 九月十五日 
筥崎宮は 醍醐だいご天皇の延長元年 (九二三年)に創建され、 延喜式えんぎしき神 名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社とある。宇佐・石清水両 宮と共に日本三大八幡として朝野の崇敬あつく、特に鎌倉時代 以降は武神として武家の信仰をあつめた。
なお、「敵国降伏」の 宸翰しんかんを掲げる 楼門ろうもんは伏敵門 として有名である。


筥崎宮

三大八幡宮は 日本三大八幡宮を宇佐神宮・岩清水八幡宮・筥崎宮とするもの。 もう一つは、日本三大八幡宮を宇佐神宮・岩清水八幡宮・鶴岡八幡宮とするものです。 国指定重要文化財
一、本殿・拝殿  天文十五年(一五四六年)大 宰 大 弐 大?義隆再建
一、楼   門  文禄三年(一五九四年) 筑前名島城主 小早川隆景造営
一、石造一ノ鳥居 慶長十四年(一六〇九年)黒田藩主 黒田長政建立
一、石燈籠一基  観応元年(一三五〇年) 在銘
         天正十五年(一五八七年) 千利休寄進
・・・ 説明板より抜粋

  筥崎宮のアルバム

 絵馬堂

筥崎宮

 算額

楡山神社の算額

楡山神社

 楡山にれやま神社 
 は平安時代に 編纂へんさんさた 「延喜式神名帳えんぎしきしんめいちょう」に記されており、楡 山の由来は往古この地方一帯に楡樹が 繁茂したことによる。正面に樹令六百 年の楡の木があり、代々神木とされ、 天然記念物として県の指定を受けて いる。江戸期、熊野信仰に伴い「熊野三 社大権現」と号し、幡羅郡の総鎮守と して楡山熊野社と称したが、明治にな 社号を櫛山神社にもどした。祭神は伊佐 本社後方に 人望あると一 小里人はここを不入の地としたと伝え はこれを守り鳥を神の使いとして尊ぶ慣習があり、熊野崇敬の 遺風といわれている。文化賊は 和琴わごん磐笛いわぶえ、 熊野三社大権現の篇額である。 昭和六十年三月 深谷上杉顕彰会 (第二十号)

楡山神社


 

楡山神社

 算額


楡山神社のアルバム

 

楡山神社

 楡山神社の大ニレ
     埼玉県指定天然記念物
     昭和二四年二月二二日指定
 神社の御神木となっている古木で、目通り約 三・六メートル、樹高約一〇メートル、樹令は約六00年と推定されています。
 二レは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレ がありますが、この木はハルニレです。ハルニレは、 皮を剥ぐと脂状にぬるぬるするところから別名ヤニ レともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄などが 作られました。北海道から本州の山地に自生してい ますが、この木は、関東地方の平地部にあるという 点で貴重です。
 楡山神社は、平安時代につくられた 「延喜式神名 帳」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。 「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの 木が繁っていたことによるといわれています。
 平成六年三月 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会
 

伊佐爾波神社の算額

伊佐爾波神社

 伊佐爾波神社
延喜式内社で、祭神は、仲哀天皇、神 功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。
社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後 温泉に来浴した時の行在所跡に建てられ た神社で、湯月八幡とも呼ばれたという。
 伊佐爾波という社名の起源は諸説あるが、 『古事記』に 「建内宿禰大臣沙庭たけしうちのすくねのおおおみさにわ に居て、 神の命みことを請ひまつりき。 ここ大后おおきさき歸神かむがかり して・・・」、『日本書紀』に 「建内宿禰たけしうちのすくねおほ せて琴撫みことひかしめ、 中臣烏賊津使主なかとみのいかつのおみし て審神者と為す」とあり、これに神聖、 清浄なという意味の「い(斎)」が付いた もので、神功皇后に関わる名称ともされる。
 当神社は、河野氏が湯築城の鎮守とし て、今の地に移したといわれ、その後、 加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八 幡を定めたとき、一番社として武運長久 の祈願所となったという。  現在の社殿は、松山藩松平第三代藩主 の定長が、将軍から命じられた 流鏑馬やぶさめを 成功させたお礼として建立したもので、 その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の 石清水八幡と並んで日本を代表する八幡 造といわれる。    松山市教育委員会

伊佐爾波神社

 關家喜多次の算額
 中国から伝わって来た数学は、江戸時代に花開き、 日本独自に発達した和算(数学)として世界の最高レベルにまで高められました。  日本には古来から祈願のために、神仏に絵馬を奉納する風習があります。 その絵馬にならい、和算を楽しむ人々は、数学 の難問が解けることを祈り、また解けたことを感謝し、後には学力の向上を願い、 数学の問題やを額に描いて神社仏閣に 奉納したものが 「算額」 です。
 伊佐爾波神社には22面の算額があります。 それらは約者や内容も豊富で、一つの神社にこれ程数多く算額が残って いるのはここだけで、 「算額の宝庫」として全国に知られています。
 家喜多次の算額は現在失われていますが、 明治44年(1911) 発行の『愛媛教育』に、 伊佐爾波神社に奉納された算額の 写しが掲載されていることが分かりました。 この算額は、和算を楽しむ人々が好んで取り組んだ、複数の円が内接 外接した代表的な問題です。
 彼の師、小島又兵衛(季)が編集したと伝えられている和算書 『容術』 30冊(愛媛県立図書館) に解法が収録されています。
問題文
 いま図のように、円弧内に青、黄、赤、白、黒の5円を入れる。青円の直径、 赤円の直径、黒円の直径が 分かっているとき、白円の直径はいくらか。
愛媛和算研究会が「第3回全国和算研究(松山) 大会」の開催を記念して、ここに復元奉納する。
                   平成19年8月吉日 愛媛和算研究会
平成19年度愛媛銀行ふるさと振興基金をもとに、株式会社セットアップ製作  (説明板より)

 

伊佐爾波神社

 伊佐爾波神社算額いさにわじんじゃさんがく    愛媛県指定有形民俗文化財
   平成一七年一二月二七日指定 
 算額とは、和算の問題・図・解 答、それを導く最終計算式等を記 した額である。この神社の算額は、 関孝和(?〜1708)が考案した 関流数学で、享和三(1803)年 を最古に江戸後期から明治時代の ものが多い。

松山市教育委員会  (説明板より)

 

楡山神社

 算額


伊佐爾波神社のアルバム

 

武水別神社の算額

武水別神社

  武水別神社御由緒
御 祭 神
主祭神 武水別大神 たけみずわけのおおかみ
相 殿 誉田別命  ほんだわけのみこと
    息長足比売命 おきながたらしひめのみこと
    比淘蜷_ ひめおおかみ
三大祭
祈年祭 三月十五日
例大祭 九月十五日
新嘗祭 十二月十二日
御由緒
 社伝によると、武水別大神は第八代孝元天皇 の御代に御鎮斎と伝えられており、善光寺平の 五穀豊饒と千曲川の氾濫防止とを祈念して祀ら れました。十二月の大頭祭(新嘗祭)は、御神徳 に対し氏子民が感謝の誠を捧げる、この地方 最大の祭典であります。
 八幡三神は、安和年間に京都の石清水八幡宮 より勧請され、相殿に奉斎されました。 誉田別 命は応神天皇、息長足比売命は応神天皇の御母 君の神功皇后のことであり、比淘蜷_とは 田心姫・湍津姫・市杵嶋姫の三女神の総称で 国家鎮護、航海・交通安全の守護神と仰がれて おります。

武水別神社

 武水別神社の算額
 復元された算額は、高さ2m、幅4.7mで最も大きいと言われている。