おくのほそ道



初めの一歩

山寺
 夏休みは何処へ行こうか、何をしようか?何時ものように考え耽っていた。 時間はいっぱいある。そんな思いをしているときに、自転車で日本縦断するニュースを聞いた。 中学生ですか、頑張っているなー!HPをみていたら、日本一周12,000キロ自転車の旅をみつける。 これに関する本を探しに行く。無い。HP では様々な方が挑戦し、その報告があるのに?日本一周も面白いぞ!息子の自転車を借り、トレーニングに出発。 疲れる、大変だ!12,000キロどころではない。50キロ60キロの世界でアップアップだ。 狭山湖一周や玉川上水、多摩川50キロ、払沢の滝などなど、トレーニングを兼ねて様々な場所を走った。 こんなことを繰り返しながら2年がたった。体力、気力ともに充実し、これなら回れるかも? しかし、1日100キロ走っても4ヶ月かかる。長すぎる。途中で断念する可能性大である。 もっと短い1000キロ程度のコースは無いものか再度書店へ出向く。 このころになると日に1回、面白い読み物がないか物色していた。 あった!「奥の細道」松尾芭蕉と曾良の旅である。320年ぐらい前の旅である。 600里(2,400キロ)の行脚の旅!電車で近くの駅、そして自転車で「奥の細道」の句碑の写真を撮る。 句碑のほとんどは神社や寺院の境内にある。正確な場所も地図からMAPコードとして得られる。 近くの駅からナビに案内してもらう。これなら、2,400キロを電車と自転車、 徒歩で句碑を撮って回る事は出来るだろう。… そして、第1日目「奥の細道」の資料と出発地点の確認をしに江戸深川へ向かう。 初めの一歩である。
私の歩く道は「奥の細道」と同じ道ではない。ときには同じ街道を歩き、 時には、船の代わりに電車、馬の代わりに自転車で回り「歌まくら」を求め旅を始めた。   H23年5月

1.旅支度

別れの句碑

 月日は百代(はくだい過客(かかく にして、 きかふ としもまた 旅人たびびちなり。舟の上に 生涯しょうがいをうかべ馬の口とらへて おいむかふる物は、日々旅にして旅を (すみかとす。 古人こじんも多く旅に死せるあり。 もいづれの年よりか、 片雲へんうんの風にさそ われて漂泊の思ひやまず、 海浜かいひんにさすらへ、去年(こぞの秋、 江上の破屋はおく(くも古巣(ふるすをはらひて、やや年も くれ、春 てる (かすみの空に、 白川しらかわの関 えんと、そぞろ神の ものにつきて心をくるはせ、 道祖神どうそじんの招きにあひて、 るもの手につかず、ももひきの やぶれをつづり、笠の つけかえて、 三里さんりきゅうすうるより、松島の月 (づ心にかかりて、 める かたは人にゆづり、 杉風(さんぷう別墅(べっしよに移るに、

     "草の戸も 住みかはる代ぞ ひなの家"
    (くさのともすみかえるよぞひなのいえ)

(おもて八句(はっく(いおりの柱にかけおく。


2.採茶庵 2.採茶庵
そして、"奥の細道"の出立の場所と なった海辺橋のたもとの採茶庵へ移り住む。
旅支度

3.矢立の初句碑

矢立の初句碑

弥生(やよいも末の七日、明ぼのの空朧々(ろうろう として、月は有明(ありあけにて、光をさまれるものから、 不二(ふじの峯(かす かに見えて、上野・谷中やなかの花の (こずえまたいつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは (よいよりつどひて、舟に乗りて送る。千住せんじゅ といふ所にて舟をあがれば、前途三千里ぜんとさんぜんり のおもひ胸にふさがりて、まぼろしのちまたに 離別(りべつ(なみだをそそぐ。

   "行く春や 鳥啼き魚の 目は涙"
    (いくはるや とりなきうおの めはなみだ)

 これを矢立(やたて(はじ めとして、行く道なを進まず。人々は途中に立ちならびて、(うしろ かげの見ゆるまではと見送(みおくるなるべし。

矢立の碑

 ことし、元禄二げんろくふたとせにや、 奥羽長途おううちょうど行脚(あんぎゃ(ただ かりそめに思ひ立ちて、呉天(ごてん白髪(はくはつ(うらみかさ ぬといへども、耳にふれて、いまだ目に見ぬさかい、( し生きて帰らばと、(さだめなき (たのみ(すえをかけ、 その日(ようよ草加(さうか というふ宿(しゅくにたどり (つきにけり。 痩骨(そうこつの肩にかかれる物 (づ苦しむ。 (ただ身すがらにと 出立(いでたち (はべるを、 紙子一衣(かみこいちえ は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき (はなむけなどしたるは、さすがに 打捨(うちすてがたくて、 路次(ろじ(わずらひとなれるこそわりなけれ。
 私も芭蕉たちの跡を辿ってみようと、此処千住の"奥の細道"の 出発地点といわれている所へ来てみた。

矢立ての初句

4.室の八島(大神神社)

室の八島(大神神社)

室の八島(けいす。 同行曾良(どうぎょうそらがいはく、 「この神は木の花こ  はなさくや姫の神と (もうして、 富士一躰(ふじいつたいなり。 無戸室(うつむろに入て焼やき たま(ちかひのみ中に、 火々出見(ほほでみのみこと生れ給ひしより、室の八島と (もうす。また煙を(みならはし (はべるもこの (いはれなり。はた、このしろといふ魚を禁ず。 縁起(えんぎ(むね、世に伝ふ事も (はべりし。

  "糸遊に 結びつきたる けぶりかな"  
 (いとゆうに むすびつきたる けぶりかな)

この句が奥の細道の句の中に入っていない…?
大神神社


5.日光(東照宮宝物館)

日光(東照宮宝物館)

卅日(みそか、日光山の麓に泊る。あるじのいひけるやう、 「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。 よろづ正直を旨とする(ゆえに、人かくは もう(はべるまま、一夜の草の枕も 打ち解けて休み給へ。」といふ。いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど示現(じげんして、かかる 桑門(そうもん乞食順礼(こつじきじゅんれいごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をととめてみるに、 唯無智無分別(ただむちむふんべつにして、正直 偏固(へんこの者なり。 剛毅木訥(ごうきぼくとつ(じんに近きたぐひ、 気稟(きひん清質(せいしつもつとも尊ぶべし。

 卯月朔日(うづきついたち御山(おやまにも 詣拝(けいはいす。 往昔(そのかみこの御山を 二荒山(ふたらやまと書きしを、空海大師は開基の時、「日光」と (あらため給ふ。 千歳未来(せんざいみらいをさとり給ふにや、今この 御光(みひかり一天にかかやきて、 恩沢(おんたく 八荒(はっこうにあふれ、 四民しみん安堵(あんど(すみか (おだやかなり。なお、 (はばかり多くて、筆をさし置きぬ。

  "あらたふと 青葉若葉の 日の光"  
 (あらたふと あおばわかばの ひのひかり)

諏訪市中洲

 黒髮山くろかみやまは、 かすみかかりて、雪いまだ白し。

  "剃り捨てて 黒髪山に 衣更"   曾良そら
 (そりすてて くろかみやまに ころもがえ)




6.日光(安良沢小学校)

日光(安良沢小学校)

 曾良そら河合氏(かわいうじにして 惣五郎(そうごろうといへり。芭蕉の 下葉(したば(のきをならべて、 薪水(しんすいの労をたすく。このたび松島・ 象潟(きさかた(ながめ共にせんことを (よろこび、かつは 羈旅(きりょ(なんをいたはらんと、旅立 (あかつき、髪を剃りて 墨染(すみぞめにさまをかへ、惣五を改めて宗悟とす。よつて黒髪山の句あり。 衣更ころもがえの二字、力ありてきこゆ。

日光(安良沢小学校)

日光(浦見の滝)

日光(浦見の滝)

 廿余丁(にじゅうよちょう、山を登つて滝あり。 岩洞(がんどう(いただきより飛流して百尺、 千岩(せんがん碧潭(へきたんに落たり。 岩窟がんくつに身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの滝と申し伝へ (はべるなり。

  "しばらくは 滝に籠るや 夏の初"  
 (しばらくは たきにこもるや げのはじめ)


7.黒羽(西教寺)

西教寺標柱

 那須なす黒羽くろばねといふ所に知る人あれば、 (これより 野越(のごえにかかりて、 直道(すぐみちを行かんとす。 (はるかに 一村(いっそんを見かけて行に、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、 (くればまた野中を行く。そこに 野飼(のがひの馬あり。 草刈(くさかるをのこになげきよれば、 野夫(やぶといへども、さすがに 情知(なさけしらぬには あらず。「いかがすべきや。されどもこの野のは 縦横(じゅうおうにわかれて、うひうひしき旅人の道ふみたがえん、 あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ。」と貸しはべりぬ。ちひさき者ふたり、馬の (あとしたひて走る。 ひとりは小姫(こひめにて、名を「かさね」といふ。 聞きなれぬ名のやさしかりければ、


西教寺

 

  "かさねとは 八重撫子の 名成るべし" 
 (かさねとは やえなでしこの ななるべし)  曾良そら

 やがて人里に至れば、あたひを (くらつぼに (むすびつけて馬を返しぬ。

西教寺にて

8.黒羽(修験光明寺跡)

那須与一

 黒羽くろばね館代浄法寺(かんだいじょうほうじ何がしの方に 音信(おとずる。思ひがけぬあるじの よろこび、 日夜語(にちやかたりつづけて、その弟 桃翠(とうすいなどいふが、 朝夕勤(あさゆうつとめとぶらひ、 自らの家にも(ともなひて、 親属(しんぞく(かたにも招かれ、日をふるままに、ひとひ 郊外(こうがい逍遥(しょうようして、 犬追物(いぬおうものの跡を 一見いっけんし、 那須なす篠原しのはらをわけて、 玉藻(たまもの前の古墳をとふ。それより 八幡宮はちまんぐう(もうづ。 与市よいち (おうぎまと(し時、「別してはわが国 氏神正八幡(うじがみせいはちまん」とちかひしも、この神社にて (はべると聞ば、 感応(かんおう (ことにしきりに覚えらる。 (くるれば桃翠宅に帰る。


修験光明寺跡

 
 修験(しゅげん 光明寺こうみょうじといふあり。そこにまねかれて 行者堂(ぎょうじゃどうを拝す。

  "夏山に 足駄を拝む 首途哉" 
 (なつやまに あしだをおがむ かどでかな)  


修験光明寺跡にて

9.黒羽(雲巌寺)

雲巌寺

 当国とうこく 雲巌寺(うんがんじのおくに、 仏頂和尚山居(ぶっちょうおしょうさんきょあとあり。
  「竪横(たてよこの五尺にたらぬ草の (いお   
     むすぶもくやし雨なかりせば
と松の(すみして岩に書きつけはべり。」と、いつぞや きこえ給ふ。 その あとみんと 雲巌寺うんがんじつえ( けば、 人々ひとびと すすんで共にいざなひ、 わかき人多く みちのほどうちさわぎて、おぼえずかの (ふもと(いたる。山はおくあるけしきにて、 谷道遥(たにみちはるかに 松杉(まつすぎ黒く (こけしただりて、 卯月(うづき(てん いまなほ寒し。 十景じゅけい (つくる所、 はしわたって 山門さんもんる。

雲巌寺

   さて、かの あとはいづくのほどにやと、(うしろの山によぢのぼれば、 石上(せきじょう小庵(しょうあん岩窟(がんくつにむすびかけたり。 妙禅師(みょうぜんじ死関(しかん法雲法師(ほううんほうし石室(せきひつを見るがごとし。

   "木啄も庵はやぶらず夏木立"
  (きつつきも いおはやぶらず なつこだち)

と、とりあへぬ一句を柱に残し(はべりし。
殺生石(せっしょうせき)へ向かう。)
雲巌寺 黒羽は、まだまだ多くの句碑がある。

黒羽(玉藻稲荷神社:たまもいなりじんじゃ)

玉藻稲荷神社  今回は、矢板から、自転車で黒羽を廻ってみることにした。


  "秣負ふ 人を枝折の 夏野哉"  
 (まぐさおふ ひとをしおりの なつのかな)



黒羽(鹿子畑翠桃邸跡)

鹿子畑翠桃邸跡
此処は、芭蕉と曾良を持成した"翠桃邸跡"である。大きな説明板とその前のお墓であった。

黒羽(光明山常念寺)

光明山常念寺  東北地震の影響は、各地に 様々な被害をもたらした。常念寺さんも少しづつ修復をしているようだった。


   "野を横に 馬引きむけよ ほととぎす" 
   (のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)


黒羽(大雄寺)

大雄寺
此処は、奥の細道とは縁があるわけではないが、あまりにも立派で、
また涼しそうな感じだったので、しばらく休憩として散策。
思った以上に素晴らしかった。


黒羽(芭蕉の道入口・芭蕉公園入口)

黒羽(芭蕉の道入口・芭蕉公園入口)
まだまだ、知らない俳句がある。東京の芭蕉記念館で観た"奥の細道"の俳句は 50数首だったような気がする。この黒羽は特に長く滞在していたため、 思った以上の収穫であった。

  "田や麦や 中にも夏の ほととぎす" 
 (たやむぎや なかにもなつの ほととぎす)


この後のスケジュールから、雲巌寺の「啄木鳥も庵はやぶらす夏木立」の句碑は、 またの機会とした。残念である。曇り時々にわか雨の天気予報は外れ、 35度の猛暑であったことも次回にまわした大きな理由である。 初めから、宇都宮で宿泊して翌日、自宅へ帰る予定でいたので なぜか、焦らず、ゆっくりと自転車を走らせた。帰りのコースは 小さな峠を5か所ぐらい超えての60キロは大変でした。 今日は、良く走ったので"ビール"2杯とした。

黒羽(芭蕉広場)

黒羽(芭蕉広場)
浄法寺高勝邸(黒羽藩家老で芭蕉から俳句の指導を受けていた)の鶴の絵を見て、 鶴の鳴き声で絵の中の芭蕉の葉も破れ散ってします。と詠んだ句。

  "鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし" 
 (つるなくや そのこえにばしょう やれぬべし)




黒羽(浄法寺桃雪邸跡)

黒羽(浄法寺桃雪邸跡)
  "山も庭も 動き入るや 夏座敷" 
 (やまも にわも うごきいるや なつざしき)




黒羽(明王寺)

黒羽(明王寺)雲巌寺
芭蕉は元禄二年四月三日黒羽を訪れ十四日間滞在し、その間に歌仙の興行があった。
   秣お小人を枝折の夏野哉 
を発句とした三十六句の中から、明王寺の境内に最も相応しい句として、

   "今日も又 朝日を拝む 石の上"
  (きょうもまた あさひをおがむ いしのうえ)

を選び石に刻んだ。


10.殺生石(せっしょうせき)

常念寺

 これより 殺生石(せっしょうせきく。 館代(かんだいより馬にて送らる。この 口付(くちつきのおのこ、「 短冊(たんざく させよと。」 ふ。やさしき事を (のぞみ (はべるものかなと、  

   "野を横に 馬引きむけよ ほととぎす" 
   (のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)



殺生石

 殺生石は 温泉(いでゆ(づる 山陰(やまかげにあり。石の 毒気(どくきいまだほろびず、 (はち(ちょうのたぐひ、 真砂(まさごの色の見えぬほどかさなり死す。


11.遊行柳

遊行柳

 また、 清水(しみずながるるの やなぎは、 蘆野(あしのの里にありて、田の (くろにのこる。 この所の 郡守(ぐんしゅ戸部某(こほうなにがしの、 「この柳みせばや」など、 折々(おりおり(にのたまひ きこえ給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、


遊行柳

今日きょうこの柳のかげにこそ ちより (はべりつれ。

  "田一枚 植て立去る 柳かな"
 (たいちまい うえてたちさる やなぎかな)


遊行柳

境の明神(玉津島神社)

境の明神(玉津島神社) 境の明神の地に二社ある。その一つは天喜元年(1053年)四月十四日、 紀州和歌の浦玉津島神社を歓請したと伝えられている。祭神は衣通姫(そとおりひめ) である古代国境には住吉神社(中筒男命:なかつつおのみこと)と玉津島神社の 両神を祭ることが慣わしであったという。 京の都と奥州を結ぶ道は、古代には 東山道(のち関街道)があり、伊王野谷を流れる三蔵川を北上し白河の関に至る道である。 途中の追分には追分明神(住吉玉津神社という)が鎮座している。祭神は衣通姫である。 中世(鎌倉時代)には鎌倉と奥州を結ぶ奥大道(おくのだいどう:鎌倉街道)が確認されている。 さらには奥州道中の前身(芦野では往古海道の呼称がある)がいくつかの紀行文から知られている。 近世(江戸時代)になって江戸と奥州を結ぶ奥州街道が整備され、参勤交代をはじめ交通、 流通の基幹として多くの人馬の往来があった。 境の明神は、このような時代背景の中、旅する人々によって道中安全の神として 信仰の対象となったものである。近年、境明神の二社をめっぐって祭神の異説があるが、 江戸時代の文献には二社とも「大明神」「玉津島神社」とし、 宿村大概帳や奥州道中分間延絵図には、関東側を玉津島神社とし、 奥州側を境明神としている。 境の明神に二社が並立しての存在が確認できるのは極めて稀である。説明板より    アルバム

境の明神(住吉明神)

境の明神(住吉明神)  境の明神の由緒は不詳であるが、文禄四年(1595)に当時白河を 支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは弘化元年(1844)に 建てられた小祠である。奥州街道は五街道の一つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し 旅人や商人などの往来も盛んであった。

境の明神(和算額) このため道中の安全を祈り、和算額を奉納したり、 灯篭や碑の寄進なども盛んに行われた。

境の明神(芭蕉句碑) 境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した 灯篭が並び、
松尾芭蕉の


   "風流の はじめや奥の 田植え唄"
  (ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)

などの句碑や歌碑も多く建立されている。
玉津島明神(女神:衣通姫「そとおりひめ」)と住吉明神(男神:中筒男命「なかつつおのみこと」) は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ) という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」 とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。説明板より    アルバム

12.白河の関

白河の関

 こころもとなき日かず (かさなるままに、 白河しらかはせきにかかりて 旅心(たびごころ (さだまりぬ。いかで みやこへと 便(たよ(もとめしもことわりなり。中にもこの せき三関(さんかん(いつにして、 風騒(ふうそうひと心をとどむ。秋風を耳に残し、 紅葉もみじ(おもかげにして、青葉の (こずえなほあはれなり。 (の花の 白妙(しろたえに、 (いばらの花の きそひて、雪にもこゆる 心地(ここちぞする。 古人(こじん (かんむり(ただし、 衣装(いしょう(あらためし事など、 清輔(きよすけの筆にもとどめ かれしとぞ。

  "卯の花を かざしに関の 晴れ着かな"   曾良そら
 (うのはなを かざしにせきの はれぎかな)





白河の関  白河の関では、曾良の句のみを残し、芭蕉自身の句は残していない。

これより「みちのく」芭蕉と曾良の二人はどんな思いで、 この白河の関所を越えたのであろうか?
現在では、車で簡単に行くことができるが1689年ごろは馬に乗る程度である。 芭蕉もこの旅で馬に乗った記録はあるが、それでも 大変な思いで「みちのく」へ入って行ったと思う。
その昔、多くの文人たちが"歌枕"を求めてみちのくへ足を 踏み入れ感激し、歌を詠み旅に命をささげたことだろうか。 現在では、電車や車で簡単に行けるところである。……
そして、
今、私は芭蕉と曾良が通った此の 関所に来ている。

宗祇戻し(そうぎもどし)

宗祇戻し 文明十三年(1481年)白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で一日一万句の連歌興行を催した。 これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠、宗祇法師が、はるばら奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、 一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。その時宗祇は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、 女はすぐに「阿武隈川の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌で答えた。 これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返したと言い伝えられています。  

   "早苗にも 我色黒き 日数哉"
   (さなえにも われいろくろき ひかずかな)


 
芭蕉が白河の関を越えたおりの句で、須賀川から 白河の俳人可云(かうん)に当てたてがみのなかにあります。 (説明板より)   アルバム

13.十念寺

十念寺

とかくして、越行(こえゆくままに、 阿武隈川あぶくまがわわたる。 ひだり会津根(あいづね高く、右に 岩城(いわき相馬(そうま三春(みはる(しょう常陸(ひたち下野(しもつけの地をさかひて山つらなる。 影沼(かげぬま)といふ ところくに、 今日きょうは空(くもりて 物影(ものかげうつらず。 須賀川すかがわえき等窮(とうきゅうといふものを (たづねて、 四五日しごにちとどめらる。 (づ、「白河の関いかに越えつるや。」と (ふ。「 長途(ちょうどくるしみ 身心しんじんつかれ、かつは風景に (たましいうばはれ、 懐旧(かいきゅう(はらわた(ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。





十念寺

十念寺



   "風流の 初やおくの 田植うた"
  (ふうりうの はじめやおくの たうえうた)

  無下(むげにこえんもさすがに。」と かたれば、 (わき第三(だいさんとつづけて、 三巻(みまきとなしぬ。


14.軒の栗(可伸庵跡)

可伸庵跡


 この 宿しゅく(かたわらに、大きなる くり木蔭(こかげをたのみて、世をいとふ僧あり。 (とちひろふ 太山(みやまもかくやと (しづかに おぼえられて、ものに ((はべる。

可伸庵跡

その (ことば
   くりといふ 文字もじは、西の木と きて 西方(さいほう 浄土(じやうど便(たよりありと、 行基菩薩ぎょうぎぼさつの一生 つえにも柱にもこの木を (もち(たまふとかや。

  "世の人の 見付ぬ花や 軒の栗"
 (よのひとの みつけぬはなや のきのくり)



可伸庵跡

黒塚の岩屋(二本松)

黒塚の岩屋

 等窮(とうきゆう(たく(でて五里ばかり、 檜皮(ひわだ宿(しゅくを離れて、 浅香山(あさかやま)あり。 (みちより近し。このあたり沼多し。かつみ (かるころもやや近うなれば、「いづれの草を花かつみとはいふぞ。」と人々に (たづ(はべれども、 (さら(る人なし。沼を (たづね、人にとひ、かつみかつみと (たづねありきて、日は山の (にかかりぬ。 二本松にほんまつより右にきれて、 黒塚(くろづか岩屋(いはや 一見いっけんし、福島に 宿(やどる。

15.信夫文知摺(しのぶもちずり)

信夫文知摺石

 あくれば、しのぶもぢ (ずりの石を (たづねて しのぶの里に (く。 (はる山陰(やまかげ小里(こざとに石 (なかば土に(うずもれてあり。里の (わらべの きたりて(をしへける、「昔はこの山の上に (はべりしを、 往来(ゆききの人の 麦草(むぎくさをあらしてこの石を (こころ(はべるをにくみて、この谷につき おとせば、石の (おもて(しもざまにふしたり。」といふ。さもあるべき事にや。





文知観音堂

信夫文知摺

 

  "早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺"
  (さなへとる てもとやむかし しのぶずり)



16.医王寺(飯坂温泉)

医王寺(飯坂温泉)

 月の輪のわたしを (えて、 (うへといふ宿に (づ。 佐藤庄司(さとうしょうじ旧跡きゅうせきは左の 山際(やまぎわ一里半ばかりにあり。 飯塚(いひづかの里 鯖野(さばのきて、 たづたづね行くに、 丸山まるやまといふに (たづねあたる。これ 庄司しょうじ旧館きゅうかんなり。 (ふもと大手(おおての跡など、人の (をしふるにまかせて なみだ(おとし、 またかたはらの 古寺(ふるでら一家(いっけ石碑せきひを残す。中にも 二人ふたりよめがしるし、 (づあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に きこえつるものかなと (たもとをぬらしぬ。 堕涙(だるい石碑せきひも遠きにあらず。寺に (りて茶を へば、ここに 義経(よしつね太刀(たち弁慶べんけい(おいをとどめて 什物(じゅうもつとす。





医王寺

医王寺(飯坂温泉)

    "笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟"  
  (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり) 

五月朔日(さつきついたちの事なり。
 その夜 飯塚いいづかにとまる。 温泉(いでゆあれば に入りて 宿やどをかるに、 土座(どざ(むしろきて、あやしき 貧家(ひんかなり。 (ともしびもなければ ろりの (かげに 寝所(ねどころをまうけて (す。夜に (りて 雷鳴(かみなり、雨しきりに (ふりて、 (せる上よりもり、 のみ(にせせられて ねむらず。 持病(じびょうさへおこりて、 (るばかりになん。 みじ(の空もやうやう (くれば、また 旅立(たびだちぬ。なほ (よる余波(なごり(こころすすまず。 うまかりて 桑折(こおりえき(づる。 (はるかなる 行末(ゆくすえをかかへて、かかる (やまひ 覚束(おぼつかなしといへど、 羇旅辺土(きりよへんど行脚(あんぎゃ捨身無常(しゃしんむじょう観念(かんねん道路だうろなん、 (れ天の (めいなりと 気力(きりょく (いささかとり直し、 (みち 縱横(じゅうおう(んで、 伊達(だて大木戸(おおきどす。
元禄二年のころまでは、"飯塚"と呼ばれていたが、この時代以後は "飯坂"と呼ばれるようになった。 奥の細道随行日記では"飯坂"とあるようだ。温泉地ではあるが、 芭蕉たちが泊った所は"貧しい農家"で土間で寝、 蚤や蚊に食われ、大変な思いをしたようである。…… 

甲冑堂(田村神社)

甲冑堂(田村神社) 曾良随行日記より
三日 ・・・
堂有り。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ、
兄弟ノ石塔有。・・・・・・・・
サイ川ヨリ十町程前二、万ギ沼、万ギ山有。ソノ下ノ道、
アブミコフシト云岩有。二町程下リテ右ノ方二、次信・
忠信ガ妻ノ御影堂有。同幌白石二宿ス。

甲冑堂(田村神社)
甲冑堂
祭 神  佐藤継信・忠信兄弟の妻 楓・初音(楠の木造二体)
彫 刻  小室 達 (宮城県柴田町出身 日展無鑑査)
壁 画  岡田華郷 (宮城県仙台市出身 日本画家)
堂設計  小倉 強 (元 東北大教授)
再建落成 昭和14年 11月(以前のものは文亀年間にでき、明治8年消失)
源平合戦のとき 源義経の家臣として平泉時代から仕えた大鳥城主佐藤庄司基治の息子継信・ 忠信は、平家追討に数々の武勲をたてた。しかし兄継信は元暦元年(1184)四国八島の戦いにおい て義経の身代わりとなって、平能登守教経の矢を受けて壮烈な戦死をとげた。弟忠信は、義経 が兄頼朝と仲たがいとなり吉野の山にこもって敵方に襲われたとき、自ら義経と名乗り唯一人 敵と戦い主人一行を落ちのびさせたあと、京都の堀川の館に潜んでいたところ文治二年(1186) 200名の敵に襲われた。これまでと「奥州武士の最後を見よ」とばかりに、腹かき切って壮烈な最 期をとげた。
 

甲冑堂(田村神社)
文治三年義経一行は世を忍ぶ山伏姿で奥州にたどり着いた。
 兄弟ふたりの死を知った母親の悲しみは、計り知れなかった。ふたりの嫁は自分たちの悲しみ を押さえて母を認めたが嘆きは大きかった。最後に考えついたのが形見の甲冑を着て「継信・忠 信ただ今凱旋致しました。」と母にふたりの子の姿を見せて喜ばせたという。
 奥州征伐のため大鳥城におれなくなった一族は宮城・山形に隠れ住んでいたが、菩提を弔うた め大島城・医王寺に近くとこの地に甲冑堂を作り木造にてふたりを刻み後世に孝心を伝えようとした。

俳聖芭蕉も元禄二年(1689)奥の細道行脚の折り、二女の心に涙したという。随行の曾良の日 記にも「馬牛沼の下、鎧越しという岩あり(アブミコフシト云岩有)、この岩より下りて二町程右の方に継信・忠信の妻の御 影堂あり」と記している。
・・・   (説明および資料より)

 

法圓寺(田植塚)

法圓寺の句碑
松尾芭蕉たちは元禄二年(1689年)五月三日、桑折の宿を通っている。 当時の俳人佐藤馬耳が

"風流の 初めや奥の 田植歌" 
(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)


…という句の短冊を埋めて、「芭蕉翁」と刻んだ石碑を建てて田植塚を作った。

一の橋道祖神

一の橋道祖神

  "笠島は いづこさ月の ぬかり道"
  (かさじまは いづこさつきの ぬかりみち)


17.藤原中条実方の墓

藤原中条実方の墓

 鐙摺(あぶみずり白石(しろいしじょう(ぎ、 笠島(かさじま(こおりに入れば、「 藤中将実方(とうのちゅうじょうさねかたつかはいづくの (ほどならん。」と人にとへば、「これより (はるか右に見ゆる 山際(やまぎはの里をみのわ・ 笠島(かさじまといひ、 道祖神どうそじん(やしろ、かたみの (すすき、今にあり。」と おしゆ。






用水路を渡り、芭蕉碑の右側を行くこと50メートル、西行の碑とともに…。    藤原中条実方の墓

笠島道祖神社(佐倍乃神社さえのじんじゃ

笠島道祖神社

    

藤原中条実方の墓

 このごろの 五月雨さみだれに道いとあしく、身つかれ (はべれば、よそながら (ながめやりて (すぐるに、みのわ・ 笠島(かさじま五月雨さみだれおりにふれたりと、

  "笠島は いづこさ月の ぬかり道"
  (かさじまは いづこさつきの ぬかりみち)

岩沼(いはぬまに宿る。



18.二木の松(武隈の松)

二木の松(武隈の松)

 武隈(たけくままつにこそ 目覚(めさむる 心地ここちはすれ。 土際(つちぎはより 二木(ふたきにわかれて、むかしの 姿すがたうしなはずと らる。 (能因法師(のういんほうし思ひ (づ。 往昔(そのかみ陸奥守むつのかみにて くだりし人、この木を (りて 名取川(なとりがは橋杭(はしぐいにせられたる事などあればにや、 「松はこのたび あともなし」とは (みたり。 代々(よよ、あるは (きり、あるひは 植ゑ継(うえつぎなどせしと くに、今はた 千歳(ちとせのかたちととのほひて、めでたき松のけしきになん (はべりし。







  二木の松(武隈の松)

二木の松(武隈の松)

    「武隈(たけくま(まつみせ (まう遅桜(おそざくら」と、 挙白(きよはくといふものの 餞別(せんべつしたりければ、

  "桜より 松は二木を 三月ごし"
  (さくらより まつはふたきを みつきごし)


竹駒神社

竹駒神社


曾良の「随行日記」には「岩沼入口ノ左ノ方二、竹駒明神ト云有リ。 ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈の松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。」

  "桜より 松は二木を 三月ごし"
  (さくらより まつはふたきを みつきごし)

竹駒神社

19.陸奥国分寺跡

陸奥国分寺跡・薬師堂

 名取川(なとりがわ(わたって 仙台せんだい(る。あやめふく日なり。 旅宿りょしゅくもとめて 四五日しごにち 逗留(とうりゅうす。ここに 画工(がこう 加右衛門(かえもんといふものあり。 (いささか心あるものと (きて、知る人になる。この者、「 (としごろさだかならぬ どころを (かんが(はべれば」とて、 一日(ひとひ 案内(あないす。 宮城野(みやぎの(はぎ茂りあひて、秋のけしき思ひやらるる。 玉田たまだ・よこ ・つつじが おかはあせび (さくころなり。 日影(ひかげももらぬ松の林に (りて、ここを したといふとぞ。 むかしもかく つゆふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。 薬師堂やくしどう天神てんじん御社(みやしろなど (おがみて、その日はくれぬ。





陸奥国分寺跡

陸奥国分寺跡

 なほ、 松島まつしま塩釜(しおがま所々ところどころ (にかきて送る。かつ (こん染緒(そめおつけたる 草鞋(わらじ二足 (はなむけす。さればこそ、風流のしれもの、ここに至りてその (じつ(あらわす。

  "あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒"
  (あやめぐさ あしにむすばん わらじのお)

榴岡天満宮   、 妙心院(蓑塚)

20.東光寺

東光寺

 かの 画図(えずにまかせてたどり (けば、おくの 細道ほそみち山際(やまぎは十符(とふ(すげあり。今も 年々としどし 十符(とふ菅菰(すがごも調(ととのへて、 国守(こくしゆ(けんずといへり。

東光寺
 東光寺とうこうじの前の道を西に400mほど行った所から右(山)のほうへ行った所に”十符の菅”が 個人こじんの家に今も残っているようである。この辺りの道が「 ほそみち」だったようだ。

東光寺

21.多賀城跡

多賀城碑


  壺碑(つぼのいしぶみ  市川村多賀城いちかわむらたがじょうにあり。
 つぼの いしぶみは、高サ 六尺余(ろくしゃくあまり横三尺よこさんじゃくばかりか。 (こけ穿(うがちて 文字もんじ (かすかなり。 四維国界(しいこくかい数里すうりをしるす。「 此城(このしろ神亀(じんき 元年がんねん按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所置也(あぜちちんじゅふしょうぐんおほののあそんあづまひとのおくところなり天平宝字(てんぴようほうじ六年、 参議東海東山節度使(さんぎとうかいとうさんのせつどし同将軍恵美朝臣(おなじくしょうぐんえみのあそん 朝狩(あさかり 修造也(おさめつくるなり。十二月 朔日(ついたち」とあり。 聖武しょうむ 皇帝こうてい御時(おおんときあたれり。むかしよりよみ (おけ歌枕(うたまくら(おほくかたり (つたふといへども、山 (くづれ、川 (ながれて、道あらたまり、石は (うずもれて土にかくれ、木は (いて 若木(わかきにかはれば、 時移ときうつ( へんじて、その (あとたしかならぬ事のみを、ここに至りて (うたがひなき 千歳(せんざい記念(かたみ、今 眼前がんぜん古人こじんの心を (けみす。 行脚(あんぎゃ一徳(いつとく存命(ぞんめいよろこび、 羇旅(きりよろうわすれて、なみだも つるばかりなり。

壺の碑

 それより 野田のだ玉川たまがわおきの石を (たづぬ。 (すえ松山(まつやまは寺を (つくりて、 末松山(まつしょうざんといふ。松のあひあひみな 墓原(はかはらにて、 はねをかはし えだをつらぬる (ちぎりの末も、 (ついにはかくのごときとかなしさも (まさりて、 塩釜(しおがまうら入相(いりあいのかねを く。 五月雨さみだれの空 (いささかはれて、 夕月夜(ゆうづくよ (かすかに、 (まがき(しまもほど近し。 (あま小舟(おぶねこぎつれて、 (さかなわかつ 声々こえごえに、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとど あはれなり。その夜、 目盲法師めくらほうし琵琶びわをならして、 奥浄瑠璃おくじょうるりといふものをかたる。 平家へいけにもあらず、 まいにもあらず、ひなびたる 調子ちょうしうち げて、 まくらちかうかしましけれど、 さすがに 辺土へんど遺風いふう わすれざるものから、 殊勝しゅしょうおぼえらる。

多賀城跡

22.塩釜神社

塩釜神社

 早朝そうちょう塩釜(しおがま明神みょうじん(もうづ。 国守(こくしゅ 再興さいこうせられて、 宮柱(みやばしらふとしく 彩椽(さいてんきらびやかに、石の (きざはし 九仭(くじん(かさなり、 朝日あさひあけの 玉垣(たまがきかがやかす。かかる道の (はて塵土(じんど(さかいまで、 神霊(しんれいあらたにましますこそ、わが くに風俗ふうぞくなれと、いと (たふとけれ。

塩釜神社の宝燈

神前しんぜんに古き 宝燈(ほうとうあり。かねの びらの おもてに、「 文治ぶんじ三年 和泉(いづみの 三郎(さぶらう 奇進(きしん」とあり。 五百年ごひゃくねん らい(おもかげいま目の前にうかびて、そぞろに (めづらし。かれは勇義忠孝の なり。 佳命(かめい今に至りて、したはずといふ事なし。 (まことに(く道を (つとめ、義を まもるべし。「名もまたこれにしたがふ」といへり。

 日(すで(にちかし。 ふねをかりて 松島まつしまにわたる。その かん二里 (雄島(おじま(いそにつく。

塩釜神社・志和彦神社

芭蕉止宿の地(廃寺法蓮寺)

芭蕉止宿の地(廃寺法蓮寺)

曾良の随行日記によると元禄二年五月八日(陽暦六月二十四日)午後二時頃、 塩釜に着いた芭蕉は野田の玉川、末の松山などの歌枕を巡り帰った。 「宿、治兵へ、法蓮寺門前。…」とあり止宿したのは、この付近である。 隆盛をきわめた塩釜神社別当法蓮寺は明治四年廃寺となった。

宿泊した場所は塩釜神社の東参道の入り口付近とされ芭蕉の止め宿の碑がある。

23.松島(雄島)

雄島

 (そもそもことふりにたれど、松島は 扶桑(ふそう第一の 好風(かうふうにして、およそ 洞庭(どうてい西湖(せいこ(ぢず。東南より海を (いれて、 ((うち 三里さんり浙江(せっこう(うしおをたたふ。島々の数を (つくして、 (そばだつものは天を (ゆびさし、伏すものは波に 匍匐(はらばふ。あるは 二重(ふたえにかさなり、 三重(みえ(たたみて、左にわかれ右につらなる。 (おへるあり (いだけるあり、 児孫(じそん愛すがごとし。松の緑こまやかに、 枝葉(しよう 汐風(しおかぜ(きたわめて、 屈曲(くっきよくおのづからためたるが如し。その 気色?然(けしきようぜんとして、美人の (かんばせ(よそおふ。ちはやぶる神のむかし、 大山(おおやまつみのなせるわざにや。 造化(ぞうか天工(てんこう、いづれの人か筆をふるひ、 (ことばくさむ。
 雄島(おじま(いそは地つづきて、海に (でたる島なり。 雲居禅師(うんごぜんじ別室べつしつ(あと坐禅石(ざぜんせきなどあり。はた松の 木陰(こかげに世をいとふ人も 稀々(まれまれ見え (はべりて、 (おちぼ・ 松笠(まつかさなど 打煙(うちけふりたる草の (いほり (しずかに (みなし、いかなる人とは知られずながら、 (づなつかしく るほどに、 月海(つきうみにうつりて、昼のながめまたあらたむ。 江上(こうしょうに帰りて宿を (もとむれば、窓をひらき二階を (つくりて、風雲の うち旅寝(たびねするこそ、あやしきまで (たえなる 心地(ここちはせらるれ。
                                     

雄島

  "松島や 鶴に身をかれ ほととぎす"    曾良そら
  (まつしまや つるにみをかれ ほととぎす)  

 は口をとぢて、眠らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、 素堂(そだう松島の詩あり。 原安適(はらあんてき松がうらしまの 和歌わかを贈らる。(ふくろ(きて、こよひの友とす。 かつ、杉風(さんぷう濁子(じょくし発句(ほっくあり。

右側の句碑が曾良の句碑です。

24.松島(瑞巌寺)

瑞巌寺

 十一日、 瑞岩寺(ずいがんじ(もうづ。 当寺三十二世たうじさんじふにせ(むかし真壁(まかべ平四郎(へいしろう出家して、 入唐(にっとう帰朝きてう(のち開山す。その後に、 雲居禅師(うんごぜんじ徳化(とくくわによりて、 七堂しちどう (いらか (あらたまりて、 金壁(こんぺき 荘厳(しょうごん光を (かがやかし、 仏土成就(ぶつどじょうじゅ大伽藍(だいがらんとはなれりける。かの 見仏聖(けんぶつひじりの寺はいづくにやとしたはる。

瑞巌寺

25.石巻(日和山:ひよりやま、鹿島御児神社:かしまみこじんじゃ)

鹿島御児神社

 十二日、平泉と心ざし、あねはの松・ (だえの橋など (つたへて、 人跡(じんせき (まれに、 雉兎ちと蒭蕘(すうじょうの行きかふ道、そこともわかず、 (ついに道ふみたがへて、石の巻といふ (みなと(づ。「こがね花 (く」とよみて (たてまつりたる 金花山(きんかざん海上かいじょうに見渡し、数百の 廻船(かいせん 入江(いりえにつどひ、 人家じんか地をあらそひて、 (かまどの煙 (たちつづけたり。思ひかけずかかる所にも (きたれるかなと、宿からんとすれど、 さらに宿かす人なし。


鹿島御児神社
曾良の随行日記によると「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海 目前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。

   "雲折々 人を休める つきみかな"



鹿島御児神社

八雲神社

北上川
石巻を後にした芭蕉たちは、北上川に沿った一の関街道を平泉へと足を運んだ。

八雲神社
途中、この八雲神社へ参拝した。

  "川上と この川下や 月の友"





八雲神社

26.芭蕉一宿の跡

芭蕉一宿の跡

やうやうまどしき 小家こいえに一夜をあかして、 (あくれば又しらぬ道まよひ行く。 (そでのわたり・尾ぶちの (まき真野(まの萱原(かやはらなどよそ目に見て、 (はるかなる(つつみを行く。心細き長沼にそうて、 戸伊摩(といまとふ所に一宿して、 平泉ひらいずみ(いたる。その (かん 二十にじゅう余里ほどとおぼゆ。

芭蕉一宿の跡

登米神社(とよめじんじゃ)

登米神社


  "降津とも 竹植える日は 美能登笠"


登米神社

配志和神社

配志和神社


  "此の梅に 牛も初音と なきつべし"

  "梅が香に のっと日の出る 山路かな"

配志和神社

27.高館義経堂(たかだちぎけいどう)

高館義経堂から望む北上川

 三代の 栄耀(えいよう 一睡(いつすい(うちにして、 大門だいもんのあとは一里こなたにあり。 秀衡(ひでひら(あと田野(でんや(りて、 金鷄山(きんけいざんのみ形を残す。 (高館(たかだちにのぼれば、北上川 南部(なんぶより流るる 大河たいがなり。 衣川(ころもがは和泉(いずみ(じょうをめぐりて、 高館たかだちしたにて大河に (ち入る。

高館義経堂から望む北上川

  康衡(やすひら (旧跡(きゅうせきは、 (ころも(せき(へだてて 南部口(なんぶぐちをさしかため、 (えぞをふせぐと見えたり。 さても 義臣ぎしんすぐつてこの (しろにこもり、 功名(こうみやう一時(いちじ(くさむらとなる。「国破れて 山河(さんがあり、城春にして 草青(くさあおみたりと。」笠うち(きて、時のうつるまで なみだを おとはべりぬ。

  "夏草や 兵どもが 夢の跡" 
  (なつくさや つはものどもが ゆめのあと)



高館義経堂

卯の花清水(うのはなしみず)

卯の花清水



  "卯の花に 兼房みゆる 白毛哉"    曾良そら
  (うのはなに かねふさみゆる しらがかな)




中尊寺

中尊寺経堂(経蔵)

 かねて 耳驚(みみおどろかしたる二堂 開帳(かいちょうす。 経堂(きようどう三将さんしょうの像をのこし、














経蔵(経堂)

中尊寺金色堂


















金色堂  

金色堂覆堂

  光堂(ひかりどうは三代の(ひつぎを納め、 三尊(さんぞん(ほとけを安置す。 七宝(しっぽう(りうせて、 (たまの扉風にやぶれ、 (こがねの柱霜雪(そうせつ(くちて、(すでに 頽廃空虚(たいはいくうきょ(くさむらとなるべきを、四面(あらたに (かこみて、 (いらか(おおひて風雨を(しのぐ暫時(しばらく千歳(ちとせ記念(かたみとはなれり。









金色堂覆堂

中尊寺・金色堂

 

  "五月雨の 降のこしてや 光堂" 
  (さみだれの ふりのこしてや ひかりだう)



中尊寺・金色堂

毛越寺

毛越寺
松尾芭蕉の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」を新渡戸稲造が英訳し、 毛筆で揮毫した句碑。  

  "夏草や 兵どもが 夢の跡" 
  ( The summer grass 'Tis all that's left Of ancient warriors dreams )




尿前の関跡

尿前の関跡

 南部道(なんぶみち (はるかに見やりて、 岩手(いわての里に泊る。小黒崎(おぐろさき、みづの 小島(おじま(ぎて、 鳴子(なるごの湯より 尿前(しとまえの関にかかりて、 出羽(でわの国に(えんとす。 この道旅人(まれなる所なれば、 関守(せきもりにあやしめられて、(ようようとして関をこす。


  


尿前の関跡   




尿前の関跡

封人の家

封人の家

 大山(たいざんをのぼつて日(すで(れければ、 封人(ほうじんの家を見かけて (やどりを求む。三日 風雨ふううあれて、よしなき山中に 逗留(とうりゅうす。





封人の家

 

  "蚤虱 馬の尿する 枕もと" 
  (のみしらみ うまのばりする まくらもと)







封人の家

山刀伐峠

山刀伐峠

 あるじのいふ、これより 出羽(でわの国に大山を (へだてて、道さだかならざれば、道しるべの人を (たのみて (ゆべきよしを もうす。さらばといひて、人を(たの(はべれば、 究竟(くっきょうの若者、 反脇指(そりわきざしをよこたへ、 (かし(つえ(たずさへて、我々が先に(ちて行く。「けふこそ (かならずあやうきめにもあふべき日なれ。」と (からき思ひをなして (あとについて行く。 あるじのいふにたがはず、 高山(こうざん森々(しんしんとして 一鳥(いっちょう声きかず、 ((した (やみ茂りあひて、夜る行くがごとし。 雲端(うんたん(つちふる心地して、 (しのの中み分け踏み分、水をわたり岩に (つまづきて、肌につめたき汗を流して、 最上(もがみ(しょうに出づ。かの 案内(あんないせし おのこのいふやう、「この道必(かなら不用(ぶようの事あり。 (つつがなう送りまいらせて仕合(しあはせしたり。」と、 よろこびてわかれぬ。 あとに (きてさへ胸とどろくのみなり。


山刀伐峠

涼し塚

涼し塚

 尾花沢(おばなざわにて清風(せいふうと いふ(もの(たづぬ。かれは (める者なれども、 (こころざしいやしからず。都にも 折々(おりおりかよひて、さすがに旅の (なさけをも (りたれば、 (ごろとどめて、 長途(ちようどのいたはり、さまざまにもてなし (はべる。

  "涼しさを 我が宿にして ねまる也"
 (すずしさを わがやどにして ねまるなり)

涼し塚

報国寺



  "這出よ かひやが下の ひきの声"
 (はいいでよ かひやがしたの ひきのこえ)



水海道市の報国寺(Map-Code#18 643 834)にて撮影。

芭蕉おもかげの丘(天童)

芭蕉おもかげの丘



  "まゆはきを 俤にして 紅粉の花"
 (まゆはきを おもかげにして べにのはな)

芭蕉おもかげの丘

みちのく風土記の里(尾花沢)

みちのく風土記の里



  "蚕飼する 人は古代の すがた哉"  曾良そら
 (こがいする ひとはこだいの すがたかな)  


山 寺

立石寺

 山形領に 立石寺(りっしゃくじといふ 山寺(やまでらあり。 慈覚大師(じかくだいし開基(かいきにして、 (こと清閑(せいかんの地なり。 一見いっけんすべきよし、人々の (すすむるに(よりて、 尾花沢おばなざわよりとってかへし、その(かん七里ばかり なり。日いまだ(くれず、 (ふもと(ぼうに宿かり (きて、山上の堂にのぼる。岩に (いわお(かさねて山とし、 松柏(しょうはく(としふり、 土石(どせき(おい(こけなめらかに、 岩上(がんじょう院々(いんいん とびらを(ぢて、物の おと聞えず。岸をめぐり、岩を(ひて、 仏閣(ぶっかくを拝し、 佳景(かけい 寂寞(せきばくとして心すみ行くのみ(おぼゆ。

山寺の句碑

 

"閑さや 巌にしみ入 蝉の聲" 
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)


…若い頃にこの地に来た時とまた趣が違う。その当時は、松尾芭蕉や
曾良の銅像はなかった。…    山寺

せみ塚

せみ塚
…山形に非常に素晴らしい場所があると人々に勧められたので、
尾花沢より戻って立石寺、そして、山の上のお堂まで登った。

この"せみ塚"は芭蕉の俳句の短冊をここへ埋めて石塚を立てた。…

せみ塚

開山堂・五大堂

開山堂・五大堂
…真ん中のお堂が立石寺を開いた慈覚大師のお堂で大師の木造の尊像が安置されている。 左の小さなお堂は納経堂でその直下に大師が眠る入定窟(にゅうじょうくつ)がある。右上の建屋が五大堂といわれる道場である。道場からの眺めは また最高である。…


五大堂

五大堂からの眺め
 五大堂からの眺望!

柳の清水

柳の清水
…6月1日(陽歴7月17日)新庄の風流亭を訪ねる途中で、
芭蕉は涼しげな柳と清水を観て休息した。風流亭へ着いたとき
の挨拶の句として、…


  "水の奥 氷室尋ぬる 柳かな"
  (みずのおく ひむろたずぬる やなぎかな)


…風流亭で2泊して、最上川の上船の場、本合海へ向かった。…

柳の清水

西光寺(大石田)

大石田・西光寺

 もがみ川のらんと、 大石田(おおいしだといふ所に 日和(ひより(まつ。 ここに古き 俳諧(はいかいたねこぼれて、わすれぬ花のむかしをしたひ、 蘆角(ろかく一声(いつせいの心をやはらげ、 この道にさぐりあしして、 新古(しんこふた道にふみ まよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき 一巻(ひとまき(のこしぬ。この度の風流、 ここに至れり。
 

大石田


 もともとは、

  "五月雨を 集めて涼し 最上川"
  (さみだれを あつめてすずし もがみがわ)

と、詠まれていたが再校して「涼し」から「早し」と変えている。

乗船の地(本合海)

本合海

 最上川は、みちのくより(でて、山形を 水上(みなかみとす。 ごてん・はやぶさなど(いふおそろしき 難所(なんじょあり。 板敷山(いたじきやまの北を(ながれて、 (ては 酒田(さかたの海に(る。 左右(さゆう(やまおほひ、茂みの中に船を (くだす。これに稲つみたるをや、いな舟といふならし。 白糸の滝青葉(あおば隙々(ひまひま(ちて、仙人堂(せんにんどう 岸に(のぞみて(つ。 水みなぎつて、舟あやふし。
 

大石田



  "五月雨を 集めて早し 最上川"
  (さみだれを あつめてはやし もがみがわ)

本合海

上陸の地(清川)

清川
…本合海より乗船し、この清川で上陸して、
狩川を通って羽黒山へと向かった。
その当時の清川は
最上川の水の関所として栄えていた。…

羽黒山

羽黒山・五重塔

 六月三日、羽黒山(はぐろさんに登る。 図司左吉(ずしさきちといふ者を(たづねて、 別当代会(べっとうだいえ覚阿闍梨(がくあじゃり(えっす。 南谷(みなみだにの別院に(やどりして、 憐愍(れんみんの情こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊において 俳諧(はいかい興行(こうぎょう



羽黒山・南谷

 

  "有難や 雪をかほらす 南谷"
  (ありがたや ゆきをかほらす みなみだに)


羽黒山・南谷

 五日、 権現(ごんげんに詣づ。当山 開闢(かいびゃく 能除大師(のうじょだいしは、いづれの (の人といふ事を知らず。 延喜式(えんぎしき羽州里山(うしゅうさとやまの神社とあり。 書写(しょしゃ、黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、鳥の 毛羽(もううをこの国の (みつぎに (たてまつると 風土記ふどき(はべるとやらん。 月山がっさん湯殿ゆどのはせて 三山さんざんとす。当寺 武江東叡(ぶこうとうえいに属して、 天台止観(てんだいしかんの月明かに、 円頓融通(えんどんゆづう(のり(ともしびかかげそひて、僧坊 (むねをならべ、 修験行法(しゅげんぎょうほふ(はげまし、 霊山霊地れいざんれいち験効(げんこう、 人 とうとびかつ恐る。繁栄 (とこしなへにして、めでたき 御山(みやま(つつべし。



月山・湯殿山

月山

 八日、 月山がっさんにのぼる。 木綿(ゆうしめ身に (きかけ、 宝冠(ほうかん(かしら(つつみ、 強力(ごうりきといふものに (みちびかれて、 雲霧山気(うんむさんきの中に 氷雪(ひょうせつ(んで登る (こと八里、更に 日月(じつげつ行道の 雲関(うんかん(るかとあやしまれ、 息絶(いきたえ身こごえて、頂上に 至れば、日(ぼつして月あらはる。笹をしき、(しのを枕として、 (して (あかるくを(つ。日 (でて (くも (ゆれば、 湯殿ゆどの(くだる。



鍛冶神社

鍛冶神社

 谷の (かたわら鍛冶小屋(かじごやといふあり。この国の 鍛冶(かじ霊水(れいすい(えらびて、ここに 潔斎(けっさいして (つるぎ(うち(つい月山がっさん(めい(つて世に賞せらる。 かの 龍泉(りょうせん(つるぎ(にらぐとかや。 干将(かんしょう莫耶(ばくやのむかしをしたふ、道に 堪能(かんのう(しゅうあさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の つぼみ なかばひらけるあり。ふり (む雪の下に (うづもれて、春をわすれぬ遅ざくらの花の心わりなし。 炎天(えんてん(ばい花ここにかほるがごとし。 行尊僧正(ぎょうそんそうじょうの歌のあはれもここに思ひ出でて、なほ あはれもまさりて (おぼゆ。 (そうじて、この 山中(さんちう微細(みさい、行者の 法式(ほふしきとして 他言(たごんする事を禁ず。よりて筆をとどめて (しるさず。 ぼう(かへれば、 阿闍梨(あじゃりのもとめによりて、 三山順礼(さんざんじゅんれい句々くく 短冊(たんざくに書く。

羽黒山山頂



  "涼しさや ほの三日月の 羽黒山"
  (すずしさや ほのみかづきの はぐろさん)

月 山



     "雲の峰 幾つ崩て 月の山"
  (くものみね いくつくづれて つきのやま)

月 山

湯殿山

湯殿山



  "語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな"
  (かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)

  "湯殿山 銭ふむ道の 涙かな"   曾良そら 
  (ゆどのやま ぜにふむみちの なみだかな)

  
 湯殿山有料道路を通り、大鳥居から湯殿山神社までは 専用バスで5分、歩いても30分である。神社の参拝ルートより 外れたところに 芭蕉と曾良の句碑がある。 奥にあるのが芭蕉の句碑である。 6月末であるが雪がまだ残っていた。



酒田

酒田

 羽黒を(ちて、鶴が岡の城下、 長山氏重行 (ながやまうじしげゆきと いふもののふの家にむかへられて、 俳諧はいかい 一巻ひとまきあり。 左吉さきちも共に送りぬ。 川舟に(りて酒田(みなとくだる。 淵庵不玉(えんあんふぎょくと いふ 医師(くすしのもとを 宿(やどとす。

  "あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ"
  (あつみやまや ふくうらかけて ゆふすずみ)


酒田

  "暑き日を 海に入れたり 最上川"
  (あつきひを うみにいれたり もがみがわ)


…日和山公園は酒田市の西にあり、酒田港や日本海を
一望できる丘の上にある。園内には文学の散歩道として
松尾芭蕉などの句碑が設けられている。…
酒田 、 

象潟

象潟

 江山水陸(こうざんすいりくの 風光、 (かず(つくして、今 象潟(きさがた方寸(ほうすん(む。酒田の (みなとより東北の (かた、山を(こえ (いそをつたひ、いさごをふみて、その さい十里、 日影(ひかげややかたぶくころ、 汐風(しおかぜ 真砂(まさご(げ、雨 朦朧(もうろうとして 鳥海(ちょうかいの山かくる。 闇中(あんちゅう莫作(もさくして、雨もまた (なりとせば、 雨後うご晴色(せいしよくまた頼もしきと、 (あま笘屋(とまや(ひざを入れて、雨の (るるを (まつ。  その (あしたてんよく (はれて、 朝日(あさひはなやかにさし (づるほどに、 象潟(きさがたに舟をうかぶ。


象潟(蚶満寺)

 (能因島(のういんじまに舟をよせて、三年 幽居ゆうきょの跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」と よまれし桜の 老木(おいき、西行法師の 記念(かたみをのこす。江上に 御陵(みささぎあり、 神功后宮(じんぐうこうぐう御墓(みはかといふ。寺を 干満珠寺(かんまんじゅじといふ。この (ところ行幸(みゆきありし事いまだ(かず。いかなる事にや。


三崎山(むやむやの関)

三崎山(むやむやの関)

この(てら方丈(ほうじょう(して (すだれ(けば、風景 一眼(いちがん(うちに尽きて、南に鳥海天をささへ、その (かげうつりて(にあり。 西はむやむやの関(みち をかぎり、東に堤を(きづきて、秋田にかよふ道 (はるかに、 (うみ北にかまえて、波うち入るる所を (しほこしといふ。 縱横(じゅうおう一里ばかり、 (おもかげ松島にかよひて、また (ことなり。 松島まつしまわらふがごとく、 象潟きさがたはうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、 地勢(ちせい (たましひをなやますに似たり。

 三崎峠の古道を曾良と越えたのは、元禄2年6月16日(1689年現在の暦で8月1日)であった。 その昔、有耶有耶むやむやの関が あったというこの難所をやっと越えて象潟へ入って行った。

象潟(蚶満寺)

象潟(蚶満寺)



  "象潟や 雨に西施が ねぶのはな"
  (きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)
  "汐越や 鶴脛ぬれて 海涼し"
  (しほこしや つるはぎぬれて うみすずし"
       祭礼さいれい
  "象潟や 料理何くふ 神祭" 曾良そら
  (きさがたや れうりなにくふ かみまつり)
  "蜑の家や 戸板を敷て 夕涼" 美濃の国の商人 低耳(ていじ)
  (あまのやや といたをしきて ゆふすずみ) 
   岩上に雎鳩(みさご(を見る
  "浪こえぬ 契ありてや みさごの巣" 曾良そら
  (なみこえぬ ちぎりありてや みさごのす)


象潟(蚶満寺)


…旅の目標の一つである"象潟"へやってきた。現在の象潟 とは趣が全然異なり、当時は松島のように島が沢山あり 島の周りを船で回遊するようなところであった。しかし、 大地震で海底が隆起したためほとんどが陸地となってし まった。当時の景観を思わせるような地名"九十九島" だけは残っている。…

念珠関ねずがせき(鼠ヶ関)

念珠関(鼠ヶ関)

 酒田の 余波(なごり日を (かさねて、 北陸道(ほくろくどうの雲に (のぞむ遥々(ようようのおもひ (むねをいたましめて、加賀の まで百三十里と(く。 (ねずの関をこゆれば、越後の地に 歩行(あゆみ(あらためて、越中の国 市振いちぶり(せき(いたる。 この (かん九日、 暑湿(しょしつの労に (しんをなやまし、 病おこりて事をしるさず。


岩船町( 石船神社いわふねじんじゃ

岩船町(石船神社)

    "文月や 六日も常の 夜には似ず"
  (ふみずきや むいかもつねの よるにはにず)

…旅の第二の目的である"象潟"を訪れ、南下を始めた。 酒田から新潟までは船を利用したようである。 新潟では、此処、石船町が最初に訪れたところである。 ちょうど、七夕の前日である。… 岩船町 、 

出雲崎いずもざき (芭蕉園)

出雲崎(芭蕉園)

  "荒海や 佐渡によこたふ 天河"
  (あらうみや さどによこたふ あまのがわ)


…北陸道(ほくろくどう:国道7号線)を南下して、 日本海と佐渡島、そして天の川を観て、あの有名な句を詠む、 また、此処は、あの有名な 良寛の生まれた町でもある。…

市振いちぶり(長円寺)

市振(長円寺)

 今日(きょう(おやしらず子しらず・犬もどり・駒返(こまがへ しなどいふ 北国(ほっこく一の 難所(なんじょ(えて、つかれ (はべれば、 (まくら(きよせて たるに、 一間(ひとま (へだてて (おもて(かたに、若き女の こえ 二人計ふたりばかりときこゆ。 (とし (おひたるおのこの声も (まじりて 物語(ものがたりするを聞けば、 越後えちごの国 新潟(にひがた といふ所の遊女(ゆうぢよなりし。 伊勢いせ参宮さんぐうするとて、 この関までおのこの送りて、あすは古郷(ふるさとにかへす (ふみしたためて、はかなき 言伝(ことづてなどしやるなり。「 白波(しらなみのよする (なぎさに身をはふらかし、あまのこの世をあさましう (くだりて、定めなき(ちぎり、日々の 業因(ごういん、いかにつたなし」と物いふを聞く聞く 寝入(ねいりて、あした 旅立(たびたつに、我々にむかひて、「 行方(ゆくえ知らぬ 旅路(たびぢのうさ、あまり (おぼつかなう悲しく (はべれば、見えがくれにも 御跡(おんあとをしたひ (はべらん。 (ころもの上の 御情(おんなさけに、 大慈(だいじのめぐみをたれて 結縁(けちえんせさせ (たまへ」と (なみだ(おとす。 不便(ふびんの事には (はべれども、「 我々われわれ所々ところどころにてとどまる (かたおほし。ただ人の くにまかせて くべし。 神明(しんめい加護(かご、かならず (つつがなかるべし。」といひ (てて (でつつ、 (あはれさしばらくやまざりけらし。

  "一つ家に 遊女も寝たり 萩と月"
  (ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)

曾良そらにかたれば、 きとどめ(はべる。

…新潟県の海岸線を南下して、市振の関所につく。このあたりの海岸線は、 親知らず、子知らずと云って、崖沿いの道を歩かなければならなかった。…  

滑川なめかわ檪原神社いちはらじんじゃ

滑川(檪原神社)
  "しばらくは 花のうへなる 月夜かな"
  (しばらくは はなのうえなる つきよかな)


有磯塚(徳城寺)

有磯塚(徳城寺)
…芭蕉たちが奥の細道を行脚しているときは北陸道の街道沿いにあった。 1880年頃、北陸道の街道から現在の場所に移転された。境内には有磯塚がある。…

  "わせの香や 分入右は 有磯海"
  (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)


水橋(水橋神社)

水橋(水橋神社)
…此処、水橋神社の拝殿には、奉納の絵馬が多くある。なかでも、
源義経の絵馬が有名である。…

  "あかあかと 日は難面くも 秋の風"
  (あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)


奈古の浦(放生津八幡宮)

奈古の浦(放生津八幡宮)

 くろべ 四十八しじゅうはち(とかや、 かずしらぬ川をわたりて、 那古(なごといふ うら(づ。 担籠(たご藤浪(ふじなみは、春ならずとも、 初秋(はつあきのあはれとふべきものをと、人に (たづぬれば、「 これより五里、 (いそづたひして、むかふの山陰に入り、 (あま(とまぶきかすかなれば、 (あし一夜(ひとよの宿かすものあるまじ」といひおどされて、 加賀かがの国に (る。

  "わせの香や 分け入る右は 有磯海"
  (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)


…放生津八幡宮(ほうしょうづはちまんぐう)には、芭蕉の句碑のほかに、 大伴家持が越中の国司在任中に詠んだ歌の歌碑もある。…
奈古の浦(放生津八幡宮) 、 

奈古の浦(荒屋神社)

奈古の浦(荒屋神社)
…此処、奈古の浦は万葉にも詠まれた名所である。 松尾芭蕉もここで句を詠んだ。…

  "早稲の香や わけ入類右は あ里磯海"
  (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)


金沢(願念寺)

金沢(願念寺)

 (花山(はなやま・くりからが だにをこえて、 金沢かなざわは七月 (なか五日(いつかなり。ここに 大坂(おおざかよりかよふ 商人(あきんど 何処(かしょといふ者あり。それが 旅宿(りょしゅくをともにす。  一笑(いっしょうといふ者は、この (みちにすける名のほのぼの (きこえて、世に 知人(しるひと(はべりしに、 去年(こぞの冬、 早世(そうせいしたりとて、その兄 追善(ついぜん(もよほすに、

  "塚もうごけ 我が泣く声は あきの風"
  (つかもうごけ わがなきごえは あきのかぜ)
…金沢では、一笑(小杉一笑)と会えると思っていたが既に亡くなっていた。 句会では、その悲しみを句として詠んでいる。…

金沢(長久寺)

金沢(長久寺)


    ある草庵にいざなはれて



  "秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子"
  (あきすずし てごとにむけや うりなすび)



金沢(成学寺)

金沢(成学寺)
…市振りでは親不知、子知らずを通って、大変な思いをした。 此処、金沢では一週間ほど滞在した。…

    途中とちゅう(ぎん
  "あかあかと 日は難面も あきの風"
  (あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)



金沢(宝泉寺)

金沢(宝泉寺)

  "ちる柳 あるじも我も 鐘をきく"
  (ちるやなぎ あるじもわれも かねをきく)



金沢(本長寺)

金沢(本長寺)
…本長寺の句碑は、次のようである。…

  "春もやや けしき調ふ 月と梅"
  (はるもやや けしきととのう つきとうめ)   



金沢(兼六園)

金沢(兼六園)
金沢から小松へ行く途中で詠まれた句である。 同様の句が成学寺にもある。

  "あかあかと 日は難面も 秋の風"
  (あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)


小松(兎橋神社)

小松(兎橋神社)


    小松といふ所にて


  "志をらしき 名や小松ふく 萩薄"
  (しをらしき なやこまつふく はぎすすき)


…このような句を詠んでいる。兎橋神社…

小松(建聖寺)

小松(建聖寺)
…建聖寺にて、…


  "志をらしき 名や小松ふく 萩薄"
  (しをらしき なやこまつふく はぎすすき)



小松(本折日吉神社)

小松(本折日吉神社)

…本折日吉神社にて、…


  "しほらしき 名や小松ふく 萩すすき"
  (しほらしき なやこまつふく はぎすすき)



小松(多太神社)

小松(多太神社)

 この所 太田(ただの神社に (まうづ。 実盛(さねもり(かぶと(にしき(きれあり。 住昔、 源氏げんじ(ぞくせし とき義朝(よしとも公より (たまはらせ (たまふとかや。げにも 平士(ひらざむらいのものにあらず。 目庇(まびさしより 吹返(ふきがへしまで、 (きくから くさのほりもの (こがねをちりばめ、 竜頭(たつがしら鍬形(くわがた(ちたり。 実盛(さねもり 討死うちじに(のち木曾義仲(きそよしなか 願状(がんじょうにそへて、この やしろにこめられ (はべるよし、 樋口(ひぐちの次郎が 使(つかひせし事ども、まのあたり 縁紀(えんぎにみえたり。

  "むざんやな 甲の下の きりぎりす"
  (むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)


小松(多太神社) 、 

動橋いぶりはし那谷寺なたでら

動橋(那谷寺)

 山中(やまなか温泉(いでゆに行くほど、 白根(しらね(たけ (あとにみなしてあゆむ。左の 山際(やまぎは観音堂かんのんどうあり。 花山(かざんの法皇、三十三 しょ順礼(じゅんれいとげさせ (たまひて (のち大慈大悲(だいじだいひの像を 安置(あんち(たまひて、 那谷(なた名付(づけ(たまふとなり。 那智(なち谷汲(たにぐみの二字をわかち (はべりしとぞ。 奇石(きせきさまざまに、 古松(こしょう(ゑならべて、 (かやぶきの 小堂(しょうどう、岩の上に造りかけて、 殊勝(しゅしょうの土地なり。

  "石山の 石より白し 秋の風"
  (いしやまの いしよりしろし あきのかぜ)


動橋(那谷寺) 、 

山中温泉(医王寺)

山中温泉(医王寺)

 温泉(いでゆ)(よくす。その (こう 有明(ありあけ(ぐといふ。

  "山中や 菊はたおらぬ 湯の匂"
  (やまなかや きくはておらし ゆのにおい)

あるじとする (ものは、 久米之助(くめのすけとて、いまだ小童(せうどう なり。かれが父 俳諧(はいかいを好み、 (らく貞室(ていしつ 若輩(じゃくはいのむかし、ここに (きたりしころ、 風雅(ふうが(はずかしめられて、 (らく(かへりて 貞徳(ていとくの門人となつて世にしらる。 功名(こうめい(のち、この 一村いっそん 判詞(はんじ(れう(けずといふ。 今更(いまさら、昔がたりとはなりぬ。
 曾良そらは腹を (みて、 伊勢いせの国 長島(ながしまといふ所にゆかりあれば、 先立(さきだちて行くに、

  "行き行きて たふれ伏とも 萩の原" 曾良そら
  (ゆきゆきて たふれふすとも はぎのはら)

(きたり。行くものの悲しみ、 (のこるもののうらみ、 隻鳧(せきふのわかれて (くもにまよふがごとし。予もまた、

  "今日よりや 書付消さん 笠の露"
  (けふよりや かきつけけさん かさのつゆ)

山中温泉(医王寺) 、 

大聖寺(全昌寺)

大聖寺(全昌寺)

 大聖寺(だいしょうじの城外、 全昌寺(ぜんしょうじといふ寺にとまる。なほ 加賀かがの地なり。 曾良そらも前の夜、この寺に (とまりて、

  "終夜 秋風聞くや うらの山"  曾良そら
  (よもすがら あきかぜきくや うらのやま)

 と残す。 一夜(いちや(へだて千里に同じ。 (われも秋風を (ききつつ 衆寮(しゅうりょう(ふせば、 (あけぼのの空近う 読経(どきょう声すむままに、 鐘板(しょうばん (つて 食堂(じきどう(る。けふは 越前えちぜんの国へと、心 早卒(さうそつにして 堂下(だうかくだるるを、若き そうども紙・ (すずりをかかえ、 (きざはしのもとまで (おひ (きたる。 折節(おりふし 庭中(ていちゅうやなぎ散れば、

  "庭掃いて 出でばや寺に ちる柳" 
  (にわはいて いでばやてらに ちるやなぎ)

 とりあへぬさまして 草鞋(わらじながら つ。

大聖寺(全昌寺) 、 

汐越しの松

汐越しの松

 越前えちぜん(さかい吉崎(よしざき入江(いりえを舟に (さおさして、 汐越(しおごしの松(たづぬ。
   終宵(よもすがら嵐に波をはこばせて   月をたれたる汐越(しほごしの松 西行
 この一首にて、数景(すけいつきたり。もし 一辨(いちべん(くはふるものは、 無用(むようの指を (つるがごとし。








この遺跡は、芦原ゴルフクラブの海側の松林の中にあります。
イベントで非常に忙しいなか、迷わない所まで案内をしていただきました。感謝

松岡(天龍寺)

松岡(天龍寺)

   丸岡まるおか 天龍寺てんりゅうじ長老(ちょうろう、古き (ちなみあれば (たづぬ。又、金沢の 北枝(ほくしといふもの、かりそめに見送りて、この (ところまでしたひ きたる。 所々(ところどころの風景 (すぐさず思ひつづけて、 折節(おりふしあはれなる 作意(さくいなど (こゆ。 いま (すでに(わかれに (のぞみて、

  "物書て 扇引さく 余波哉"
  (ものかいて おおぎひきさく なごりかな)

 五十丁ごじゅっちょう山に (りて 永平寺えいへいじ(らいす。 道元禅師(どうげんぜんじ御寺(おんでらなり。 邦畿(ほうき 千里(せんり(けて、かかる 山陰(やまかげに跡をのこし (たまふも、 (とうと(ゆへありとかや。

…金沢からお供をしてきた北枝(ほくし)も此の天龍寺で金沢へ戻って行った。…
松岡(天龍寺) 、 

左内公園(洞哉宅跡)

左内公園(洞哉宅跡)

 福井ふくい三里さんり (ばかりなれば、 夕飯(ゆうめししたためて (づるに、たそかれの (みちたどたどし。ここに 等栽(とうさいといふ古き 隠士(いんしあり。いづれの年にか、江戸に (きたりて (たづぬ。 (はる(とせ (あまりなり。いかに (おいさらぼひてあるにや、 (はた(しにけるにやと人に (たづ(はべれば、「いまだ 存命(ぞんめいして、そこそこ」と、おしゆ。 市中しちゅうひそかに (りて、あやしの 小家(こいへ夕顔(ゆふがほ・へちまのはえかかりて、 鶏頭(けいとうほうき (ぼそをかくす。さては、このうちにこそと (かどをたたけば、 (わびしげなる女の (でて、「いづくよりわたり給ふ 道心(どうしん御坊(ごぼうにや。あるじはこのあたり何がしといふものの (かたに行きぬ。もし用あらば (たづ(たまへ。」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかかる 風情(ふぜい(はべれと、やがて (たづねあひて、その家に 二夜(ふたやとまりて、名月は 敦賀つるがのみなとにと たび (つ。 等栽とうさいも共に送らんと、 (すそおかしうからげて、 (みち枝折(しおりとうかれ (つ。
 洞哉が住んでいた家の正確な場所ははっきりとしていませんが、 洞哉が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、左内町の顕本寺に建て られたことが明らかになり、この付近に住んでいたことがわかった。 (説明板より)  

敦賀(気比神宮)

敦賀(気比神宮)

  (ようよ白根(しらね(たけかくれて、 比那(ひな(たけあらはる。あさむづの橋を わたりて、 玉江(たまえ(あし((でにけり。 (うぐいす(せき(ぎて、 湯尾(ゆのお とうげ(ゆれば、 ひうち(じょう帰山(かえるやま初雁(はつかり(きて、 十四日じゅうよっかの夕ぐれ、 敦賀つるが(宿(やどをもとむ。その夜、月 (こと(れたり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「 越路(こしじ(ならひ、なほ 明夜(めいや陰晴(いんせいはかりがたし。」と、あるじに酒すすめられて、 気比けひ明神(みょうじん夜参(やさんす。 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう御廟(ごびゅうなり。 社頭(しゃとう (かんさびて、松の ((に月のもり (りたる、おまへの 白砂(はくさ (しも(けるがごとし。「 往昔(そのかみ 遊行(ゆぎょう二世の 上人(しょうにん大願發起(だいがんほっきの事ありて、みづから草を (り、 土石(どせき(になひ、 泥渟(でいていをかはかせて、 参詣往来(さんけいおうらい(わづらひなし。 古例(これい今にたえず、 神前しんぜん真砂(まさご(にな(たまふ。これを「 遊行ゆうこう砂持(すなもちもう(はべる。」と、 亭主(ていしゅのかたりける。

  "月清し 遊行のもてる 砂の上"
  (つききよし ゆぎやうのもてる すなのうえ)

 十五日じゅうごにち、亭主の ことばにたがはず あめ る。

  "名月や 北国日和 定なき"
  (めいげつや ほくこくびより さだめなき)

  "ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月"
  (ふるきなの つのがやこいし あきのつき)


敦賀(気比神宮) 、 

敦賀(お砂持ち神事:気比神宮前)

気比神宮大鳥居前

気比神宮の大鳥居前に銅像がある。

     お砂持ち神事の由来

正安3年(1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が 諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、気比社の西門前の参道、 その周辺が沼地(この時代には気比神宮のあたりまで入江であった) となって参拝者が難儀しているのを知り、 浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、 神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、 「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺 (藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。 元禄2年、奥の細道紀行で敦賀を訪れた松尾芭蕉は

  月清し 遊行のもてる 砂の上″

と詠んでいる。 (説明板より) (Map-Code#192 849 153)

敦賀(文化センター)

敦賀(文化センター)
…文化センターの句碑は、松尾芭蕉が敦賀の月夜の海の素晴らしさを詠んだ句である。…


  "国々の 八景更に 気比の月"
  (くにぐにの はっけいさらに けひのつき)



敦賀(金前寺)

敦賀(金前寺)
…金前寺の句碑は、次のようである。…

  "月いづこ 鐘は沈る うみのそこ"
  (つきいづこ かねはしずむる うみのそこ)


金前寺

 「芭蕉翁鐘塚」

色が浜(本隆寺・開山堂)

色が浜(本隆寺)

 十六日じゅうろくにち(そら (れたれば、ますほの 小貝(こがいひろはんと、 (いろ(はまに舟を (はしらす。 海上(かいじょう 七里しちりあり。 天屋(てんや 何某(なにがしといふもの、 破籠(わりご小竹筒(ささえなどこまやかにしたためさせ、 (しもべあまた舟にとりのせて、 追風(おいかぜ時の間に (きぬ。浜はわづかなる 海士(あま小家(こいへにて、 (わびしき 法花寺(ほっけじあり。ここに茶を (み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ、 (かん(へたり。

  "寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋"
  (さみしさや すまにかちたる はまのあき)


色が浜(本隆寺・開山堂) 、 

色が浜(本隆寺)

色が浜(本隆寺)

 

  "浪の間や 小貝にまじる 萩の塵"
  (なみのまや こがいにまじる はぎのちり)

 その日のあらまし、 等栽(とうさいふでをとらせて寺に のこす。


  "衣着て 小貝拾わん いろの月"
  (ころもきて こがいひろわん いろのつき)


美濃赤坂(明星輪寺)

美濃赤坂(明星輪寺)
…明星輪寺の句碑は、次のようである。…


  "鳩の声 身に入わたる 岩戸哉"
  (はとのこえ みにしみわたる いわどかな)



垂井(本龍寺)

垂井(本龍寺)
…本龍寺の句碑は、次のようである。…


  "作り木の 庭をいさめる しくれ哉"
  (つくりきの にわをいさめる しくれかな)



芭蕉・木因遺跡(正覚寺:大垣)

芭蕉・木因遺跡(正覚寺:大垣)
大垣藩の近藤如行(じょこう)をはじめ多くの門弟を門下にした。元禄7年大阪で病死すると、
正覚寺に芭蕉の追悼碑を最も早くたてた。また、木因の死後、木因碑をたてて、
この地を「芭蕉・木因」遺跡とした。


  "あかあかと 日はつれなくも 秋の風"
  (あかかかと ひはつれなくも あきのかぜ)



蛤塚(大垣)

蛤塚(大垣)

 露通(ろつうもこのみなとまで (でむかひて、 美濃みのの国へと (ともなふ。 (こまにたすけられて 大垣(おおがき(しょう(れば、 曾良そらも伊勢より (きた(ひ、 越人(えつじんも馬をとばせて、 如行(じょこうが家に ((あつまる。 前川子(ぜんせんし荊口(けいこう 父子(ふし、その (ほかしたしき 人々ひとびと 日夜にちやとぶらひて、 蘇生(そせいのものにあふがごとく、かつ (よろこび、かついたはる。 たびの物うさもいまだやまざるに、 長月(ながつき 六日むいかになれば、 伊勢(いせ遷宮(せんぐうおがまんと、また舟にのりて

  "蛤の ふたみに別 行秋そ" 
  (はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ) 




奥の細道むすびの地(大垣)

奥の細道むすびの地(大垣)
…元禄2年8月21日(1689年10月4日)駒にたすけられて(馬に
乗って)大垣に入り"蛤の ふたみに別 行秋そ"を詠んで奥の細道
最後の句にした。 


そして、再び船町港 から 伊勢神宮 へと旅立った。