飛鳥

飛鳥


 「古事記」と「日本書紀」の総称である記紀(きき)に触れるため、 飛鳥へ来てみた。 奈良時代に作られた神話や古代史に出てくる場所を歩き、 当時の出来事などを想像した。 


 行ってみたら、こんなところ



吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)

吉備姫王墓

  募名を檜隈墓(ひのくまのはか)と称する。孝徳天皇と皇極(斉明:さいめい) 天皇の生母にあたり、「日本書紀」によれば吉備姫王(吉備嶋皇祖母命:きびしまのすめみおやのみこと) は皇極天皇2年9月になくなり檀弓岡(まゆみおか)に葬られたとある。また、 「延喜式:えんぎしき」諸陵寮には欽明天皇陵と同じ領域内に墓があると記されている ことから、現在地に指定されている。墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側 の字イケダの水田から掘り出された石造物4体があり、猿石と称されている。(説明板より)    

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鬼の雪隠・鬼の俎(おにのせっちん・おにのまないた)

鬼の雪隠・鬼の俎

    鬼の雪隠(せっちん)は墳丘土を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代) の石室の一部である。本来は花崗岩の巨石を成功に加工した底石・蓋石・扉石 の3個の石を組み合わせたもので鬼の雪隠はその蓋石にあたり、上方にある鬼の俎 (まないた・底石)から横転してきた状態にある。この周辺は霧ケ峰と呼ばれ、 鬼が住み通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、俎の上で料理し、雪隠で 用を足したという伝説がある。(説明板より)

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高松塚古墳

高松塚古墳

    高松塚古墳は7世紀の初めごろに作られた古墳です。昭和47年の発掘調査で 日本で初めて石室内に描かれた壁画が発見された。墳丘の内部には16枚の 凝灰岩の切り石を箱型に組んだ石室(内部の奥行265.5p、幅103.4p、 高さ113.5p)があり、その内面に塗られた漆喰を下地として、壁に色鮮やかな 男女群像や青龍、白虎、玄武、日・月像、天井に星宿が描かれていました。 こうした壁画古墳は日本では高松塚古墳とキトラ古墳しか知られていません。 石室は中世に盗掘されいましたが大刀の飾り金具や銅鏡、ガラス玉などの副葬品 の一部と漆塗り木簡の破片などが出土しています。(説明板より)

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亀石

亀石

    亀石と呼ばれる石造物は、いつ何の目的で造られたのか明らかでないが 川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石ではないかという説がある。
 伝説では、
 むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起った 。長いけんかのすえ湖の水を当麻にとられてしまった。湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。 何年か後に亀をあわれに思った村人たちは亀の形を石に刻んで供養したそうである。
 今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、 大和盆地は泥沼になるという。(説明板より)

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酒船石

酒船石

    この石造物は、現状では長さ5.5m、幅2.3m、厚さ約1m で花崗岩で出来ている。北側及び南側の一部は欠損しており、近世に どこかへ運び出されたものと考えられ、石割の工具跡が残っている。 石の上面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝で結んでいる。 酒をしぼる槽とも、あるいは油や薬を造るための道具ともいわれている。 しかし、この石の東40mのやや高いところで、ここへ水を引くための土管や 石桶がみつかっていることから庭園の施設だという説もある。(説明板より)
酒船石のアルバム


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石舞台古墳

石舞台古墳

   この遺跡には、数時期の遺構があります。7世紀前半の遺構に、 石積護岸を持った内法一辺の長さが42m、深さ2m、堤の幅10m、 池底に玉石を張った方形の池が検出され、この池の周囲から、石組 暗渠、苑池跡、掘立柱建物などの遺構が確認されています。
「日本書紀」の中に、「大臣(蘇我馬子)は稲目宿禰の子なり。性、 武略有りて、亦弁才有り似て三宝を恭み敬ひて、飛鳥河の傍に家せり。 すなわち庭の中に小なる池を開れり。よりて小なる嶋を池の中に興く(くずく)。 故、時の人嶋大臣と日ふ」とあり、嶋宮はこの蘇我馬子の邸宅跡に 造られ、その後離宮になり、さらに東宮(皇太子)である草壁皇子 の宮になったと考えられています。「万葉集」巻2の中に、草壁皇子 死去の際、柿本人麻呂や舎人が悲しんで詠んだ歌の中に、
    島の宮勾の池の放ち鳥 
       人目に恋ひて池に潜かず  (170)

    島の宮勾の池の放ち鳥 
       荒びな行きそ君まさずとも  (172)

    東の滝の御門にさもらへど 
       昨日も今日召すことも無し  (184)

などとあることから、この宮には上、下に池があり、池の水辺は 湾曲した勾(まがり)の池であり、また、池の中に小さな島があり、水鳥が放た れていたことが窺われます。(説明板より)


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伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)

伝飛鳥板蓋宮跡

   推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年間、飛鳥地方には歴代天皇の 宮がつぎつぎと造営されたが、その遺跡はどれもまだ確認されていない。そのうち 皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和32年以来、 おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた。その結果、掘立柱 列で囲まれた東西約156メートル、南北約197メートルの長方形の区画(内郭)と、 その南半では中軸線上に位置する5間×2間の門と7間×4間の建物、北半では ここに復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出されました。 また、内部の東南に接しては9間×5間の大規模な掘立柱建物(飛鳥エビノコ大殿 と仮称)を中心とする一区画があり、さらに東の県道沿いには、これらの遺構を囲む 外郭の柱列や石溝が南北に続いていることも明らかとなった。建物はすべて掘立柱 で周囲に石敷があり、木間や土器などの出土遺物から、板蓋宮よりは新しい7世紀末 ごろの宮殿遺跡と推定されるが下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、 なお今後の調査をまたねばならない。


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飛鳥寺

飛鳥寺

   「日本書紀」によれば、崇峻(すしゅん)天皇元年(588)に蘇我馬子は法興寺を 建立することを計画、同5年には仏堂(金堂)・歩廊(ほろう回廊)が寛政、推古天皇 元年(593)には塔を起工し、同4年には一応の建物が完成した。同13年には 丈六仏像を造り、翌14年に安置したとある。日本最古の本格的な寺院で、 その造営に際して多くの博士・工人(たくみ)が朝鮮半島から渡来してあたった ことが記されている。大化改新や天皇の病気平癒など飛鳥時代を通じて飛鳥に おける中心的な役割を果たしたが、建久7年(1196)に消失し、現在にいたる。 法興寺・元興寺(がんこうじ)とも称され、現在は止利(とり)仏師の作と伝える 伝える重要文化財の金銅丈六仏が残る。 昭和31年から継続的な発掘調査の結果、塔を中心に三方に金堂を置き 、北側に講堂、南側に中門・南門の跡があることが判明した。寺域は南北 290m、東西200〜250mの規模をもち、飛鳥では大官大寺とともに 、最大規模の寺院であった。 重要文化財の


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