新宮熊野神社
平安中期の永承六年(1051)奥州平定を命じられた鎮守府将軍源頼義とその子義家は、
紀州熊野三所に武運を祈願し、前九年の役(1051〜62)に勝利したのを機に天喜三年
(1055)河沼郡熊野堂村(現河東町)に熊野三社を勧請したが、後 三年の役(1083〜7)
の兵乱が始まった応徳二年(1085)八幡太郎義家によって熊野堂村からこの地に移された。
当初は本村に新宮、岩沢村に本宮、宇津野村に那智殿が別個に祀られたが、後にこの地に三社
が合祀された。
「新宮雑葉記」によれば、盛時には三百余の末社霊堂に多くの宗徒、
百余人の神職を置き、国家の安全を祈願し、奥州の熊野と称され崇高されたという。
文治五年(1189)佐原義連によって寺社領悉く没収されたが、建久三年(1192)源頼朝より
社供二百町を賜り、かつ文殊菩薩の形像を安置せられた。
また当地の地頭新宮氏によって以前の栄耀をみるに至ったが、
打ち続く戦乱と慶長十六年(1611)の大地震で多くの建物は倒壊した。
同十九年 再建されたが昔の面影は失われ、ただ拝殿(長床) の遺構のみが往時の壮大さを
伝えている。
当社には国指定重要文化財二点、県指定重要文化財七点があり歴史の古さを物語っている。
国指定重要文化財(建造物)
熊野神社長床
長床は熊野神社の拝殿で、九間×四間、茅
葺寄棟造りの建物です。
直径一尺五寸(45.4p)の円柱四十四本が五列に並び、
各柱の間は十尺(303p) の等間隔で全部吹抜けです。外廻り一間通り
が化粧屋根裏の庇の間として区切るように並
べてあり、中央桁行七間、梁間二間のところは天井を張った身舎となっています。
各柱の上には、平三斗の組物がのり、中備には間斗束を用いています。
前身建物は、
各所に残る部材の様式手法から考えて、鎌倉時代初期のものと推定されます。
慶長十六年(1611)の大地震で倒壊し、同十九年に再建されましたが旧材を再使 用した
ため、
柱間寸法が縮み身舎九尺(27p)庇八尺(248p)となり、また組物や天井等を廃したり、
軒はせがい造りに改められたりしていました。
そこで昭和四十六年から四十九年にかけて
解体修理が行われた時、調査の結果旧規を知る箇所が数多く判明したので、
できる限り当初の姿に復元しました。
中央の系統をひく鎌倉時代の遺構として、
東北地方では他に類をみないものとなりました。
喜多方市教育委員会
市指定天然記念物
新宮熊野神社の大イチョウ
イチョウは、かつて中国から日本に渡来したとされ、この大イチョウは神社創設の際に
植えられたものと口伝されている。
樹高は約三十七メートル、幹周りは約八メートルで、全国でも最大級のイ チョウである。
樹齢は八○○年以上ともいわれ、当社の神木となっている。
かつては会津若松市からも見ることができたといわれるこの巨木は、
熊野神社長床とともに、神社の景観を象徴するものとして、悠久の時を刻み続けている。
市指定年月日 平成十八年一月四日 喜多方市教育委具会
黄色に彩られた大イチョウ
国指定重要文化財熊野神社長床を拝殿とし、石段をのぼった山の中腹に、
玉垣をめぐらして三殿が並列し、東を向いて建っている。中央が本社新宮
証誠殿、
左が末社那智山飛龍権現、
右が末社本宮十二社権現である。
三社とも一間社與行二間、妻入り向拝付の同じ規模であるが、各社各部
に手法や細工の程度に相異がみられ、同じ棟梁でないだけでなく、修理の
あとも多い。
中央の新宮殿は、両末社より手法・細工とも入念であり、基壇はなく、
礎石の上に地長押を置き、縁長押も設けて床を高くしている。向拝には特
に決床に相当する部分はない。向拝の三つ斗・つなぎ虹梁・木鼻などが先
練されている一方、主屋の水鼻や懸魚は鈍いので、向拝は修理にあたって
炭更を受けているとも考えられる。一見して春日造りの形をとるが、ここで
は向拝を入母屋の妻屋根の延長として扱い、平行二重の繁種は隅木を入れ
て前面にも巡らし、縁も両側面に延長して脇障子をたてるなど、本来の形
式よりは進歩している。
この種の本殿形式は紀州熊野神社社殿がそうであるところから、熊野造
りの名称もある。東北地方の神社本殿はほとんどが流造りである中で、わ
ずかの熊野神社のみが妻入りの系統を伝えているのは興味深い。建立時期
についての記録はないが、形式伝播や同種の例から推定して、主屋は室町
末期以降、向拝などには慶長年間(一六○○年ごろ)に、山上から現在地に
移されたとき大修造があったと考えられる。
なお、熊野造りが三社併置されている大規模遺構は、県下に当社以外例
をみない。
福島界教育委員会
県重要文化財
銅鍾(どうしょう)
高さ128.9cm 口径79.0センチメートル 乳部に蓮華(れんげ)、下おびに唐草模様が
刻まれている。
貞和五年(1349年)の銘があり福島県内では最も古い銅鐘です。
行ってみたら、こんなところ
「木造文殊菩薩騎獅像」
《県重文》
割矧造 彫眼 漆箔
像高 116.4cm
平安時代
獅子まで含めた高さが、287.4pある。
インドから砂漠をわたり、文殊菩薩の住所と
考えられている中国の五台山ごだいさんに行くすがたを
あらわしている。文殊菩薩の脚部や両手、獅子
の頭部などは江戸時代の修理により補われ
たものであるが、他は当初のすがたを伝える。
(説明板より)