富山城の夜景
千歳御門
(埋門)からの城の夜景
大垣駅の近くに四重四階の優美なお城である。公園には、初代藩主の戸田氏鉄(うじかね)の鎧兜姿の騎馬像がある。
丸岡城は霞ヶ城ともよばれ、屋根が石瓦で葺かれた大変珍しいお城である。
丸岡の街を見下ろす丘の上に築城されている。
山(亀山)の頂上を平たんにして本丸を作り、その周りに二の丸や三の丸などを配置している、
梯郭式の平山城である。
米子城は天正19年(1591年)毛利の一族吉川広家により標高90.5メートルの湊山に四重櫓と縄張りの大たいを作った。
慶長5年(1600年)に領主の中村一忠により、その規模を拡大した。城は、頂上の五重天守と四重櫓を中心とする本丸と
西北野内膳丸、東の二の丸や三の丸など築城した。
修復された姫路城(2015年10月)
世界遺産の姫路城は平成5年に日本で初めて登録された文化遺産である。
天守閣ややぐら、門、石垣や濠などが今でもきれいに保存され
ている木造建築である。
修復の様子(2013年7月)
二の丸の様子
鯱(しゃち)
瓦葺の屋根の大棟(おおむね)の両端につけられる飾り
の一種で、鬼がわらと同様に守り神とされている。姿は魚で
頭は虎(とら)、尾びれは常に上を向き、背中には幾重もの鋭い
とげを持っているという想像上の動物を模している。
現在の鯱
甲冑(かっちゅう)
武士が戦いのときに身につける防具である。鍛鉄(たんてつ)、
皮革、金具、漆工芸、組紐(くみひも)など、さまざまな分野
の技術を駆使した彩り豊かで美しい日本の甲冑は、現在では歴
史資料として珍重されている。
姫路城のライトアップ(2017/8/4)
姫路城のライトアップ(2017/8/4)
竹田城は別名「虎臥城(とらふすじょう)」虎が臥しているよう
に見えるためである。この山城の遺跡は秋から冬にかけて
霧が発生して雲海に包まれた天空の城を思わせるようである。
このような風景から日本の「マチュピチュ」とも言われている。
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早朝の藤和峠
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早朝の藤和峠
もう先客がマイクロバスで来ていた。
忍城(おしじょう)は文明10年(1478)頃、成田顕泰(あきやす)により
築城され「守りやすく攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。
天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による
忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられた「忍の浮城(うきじろ)」
とも称されたという。
砂沢城は藤原内記秀盛の居館である。天正年間(1580頃)の
安東秋田氏の内紛後に五城目(五十目)地域支配するように
なった藤原氏は五十目氏を称するようになる。その際「市」も馬場目城下から
五城目に移ったとされる。・・・
慶長6年(1601)秋田氏の転封により五十目氏もこの地を去り
城は破却されたが「市」や「座」を保護し五城目の基礎を作った。
五十目氏の居館とした大切な史跡である。 (説明板より)
弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に
二代藩主津軽信枚にって築かれた城である。
面積約四十九万二千平方メートル(約十四万九千坪)を有し、本丸、
二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭によりなり三重の濠と
土塁でめぐらされた城郭である。
現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓三棟、城門五棟の建造物が
残されており、いずれも重要文化財に指定されている。
弘前城には築城当初十棟の城門があったとされているが、
現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、
四の丸北門(亀甲門)の五棟が残されている。
弘前城の城門は周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた
二層の櫓門であるが、門の前面に特別の門(高麗門)などを
設けていないことや、一層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な
素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の
櫓門として注目されている。 説明版より
戦国時代の城造り名人である藤堂高虎によって造られた。昭和10年に
天守閣が木造3層として復興された。城内は藤堂藩に関係する文化資料を
展示している。
岡山城は宇喜多秀家が慶長2年(1597)に築城した後、江戸時代には
岡山藩の城府となり、明治維新により廃城となった。城跡は、大半が市街地となり、
本丸も学校用地に転用された。昭和20年の岡山空襲で天守と石山門が消失し、
月見櫓と西手櫓が存在するだけになった。
この本丸は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、昭和41年
に天守閣が復元され観光施設となった。
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廊下門(ろうかもん)
上屋は本段(住居)と中の段表書院(藩庁)を結ぶ城主の通路
として、使われたためこう呼ばれた。昭和41年に鉄筋コンクリートで
再建された。
鯱(しゃちほこ)
非常にきれいな鯱。
松江城は慶長12年(1607)から足かけ5年の歳月を費やし
て堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって築かれた。
以来、堀尾氏3代、京極氏(きょうごく)の治世を経て寛永15年
(1638)からは松平氏が城主となり、その間一度も戦乱に巻き
込まれることもなく明治維新を迎えた。山陰地方で唯一、
天守を現存する貴重な城郭です。
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太鼓櫓(たいこやぐら)
城壁の見事なお城である。この櫓の手前には、46メートル四方の
馬溜があり、入口には大手柵門や大手門がある。また、
13メートルの石垣や堀があり、敵兵の直進を防いでいた。出撃の際には、
この馬溜に城兵を待機させるなどの機能があったようである。
城壁の周りは、庭園風に整備されつつある。
丸亀駅から10分程度南へ歩くと、山の上に城が見えてくる。内堀で囲まれた立派な城である。
大手二の門より入城して、日本一と言われる城壁の下を歩き天守閣へ向かう。
桜がとっても素晴らしい城である。
”讃州さぬきの高松さまは城が見えます波の上”と歌われている高松城は
天正16年(1588)生駒親正公が築城に着手し、生駒家4代54年間、松平家
11代228年間(初代は水戸光圀の兄松平ョ重)にわたり居城した城跡の一部で
、全国でもまれな水城(海城)として有名です。
園内(総面積8万平方メートル)には3層5階の天守閣そびえ、要所には約20の櫓
があってその威容を誇っていましたが、現在では艮櫓、月見櫓、渡櫓および水手御門が残り、
いずれも重要文化財の指定を受けています。また、庭園には緑したたる老松、名木が立ちならぶなかに
石燈籠、手水鉢、大飛石等が配置され、昔の大名の権勢がしのばれます。
松平藩時代の披雲閣は、政庁・住居として使用されていましたが、現在、じむしょのある披雲閣は
、大正時代に建てられたもので、茶会・会議等で広く一般に利用されています。
伊予松山城は、城跡が公園として整備され、天守閣を含め櫓や門などの城郭の遺構がのこっている。
二ノ丸跡から本丸への途中の城壁。
戸無門
隠門続櫓
本丸
今治城跡は二ノ丸や武家屋敷、侍屋敷、城門、櫓など往時は広大な造りだったようである。
松本城(以前は、深志城
といった)は姫路城(兵庫県)や松江城(島根県)、
彦根城(滋賀県)、犬山城(愛知県)とともに国宝として指定されている。
五重六階の天守をもち、城郭としては日本最古のものである。
文禄(1593〜1594)年間に建てられている。
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