中山道(芭蕉の句碑)を訪ねて

時代に触れる

芭蕉は、この街道を通って「野ざらし紀行」や「更科紀行」などの紀行文を残している。 今回、更科紀行の句碑を訪ねたときに、中山道にも足を延ばして芭蕉の句碑を 探すことにした。その第1回が岡谷から旧中山道を通って奈良井宿の先、薮原駅近くの薮原神社までである。 約45qであるが峠越を3か所を越えなければならない。平均10m/`の上りである。 とくに国道の鳥居峠はトンネルではあるが標高1000メートルもある。この難所を越えなければならない。 2回目は、鳥居峠にある丸山公園の句碑を撮りに行く。3回目は中津川までとして、 句碑を探そうと思っている。その先のスケジュールは出来上がっていない。記録ができ次第ここに 残すことにした。







楡山神社(深谷)

>楡山神社

 楡山にれやま 神社から200メートルぐらいの路地角にある。

   ”冬籠りまたよりそはん此のはしら”  

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地蔵堂(17号深谷バイパス)

>地蔵堂

 

   ”蓬莱に聞かばやいせのはつ便り”  

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住吉神社(深谷)

>住吉神社1

 

   ”よくみれば薺花さく垣根かな”  

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>住吉神社2

 

   ”秋の野や草の中行く風の音”  

  (Map-Code#34 128 189)   

光厳寺(深谷)

>光厳寺

 

   ”御命講おめいこ や 油のやうな 酒五升”  

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愛宕神社(深谷)

>愛宕神社

 

   ”冬枯れや 世は一色に 風のおと”  

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17号から旧中山道への分れ道

旧中山道

 

   ”原中や ものにもつかず 啼く雲雀”  

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産泰神社(本庄)

産泰神社

 産泰さんたい 神社の赤い鳥居の左側に、 芭蕉が「おくの細道」を終え伊賀上野に戻った時に詠んだ句がある、

   ”しくるるや 田のあら株の くろむ程”  
   (しぐるるや たのあらかぶの くろむほど)

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本郷西部集会所(深谷)

本郷西部集会所

 

   ”花の影 硯に代わる 丸瓦” 
   (はなのかげ すずりにかわる まるがわら)

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摩訶池の弁財天(児玉)

摩訶池の弁財天

 

   ”ほとときす 声よこたふや 水の上” 
   (ほととぎす こえやよことう みずのうえ)

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みか神社(児玉)

みか神社

 

   ”麦刈りて 桑の木ばかり 残りけり” 
   (むぎかりて くわのきばかり のこりけり)

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成身院百体観音堂(児玉)

成身院百体観音

 

   ”観音の 甍観やりつ 花の雲” 
   (かんのんの いらかみやりつ はなのくも)

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雉岡城跡の金毘羅神社(児玉)

金毘羅神社

 同様の句が小松の多太神社にある。

   ”むざんやな 甲の下の きりぎりす” 
   (むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)

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東石清水八幡神社(児玉)

東石清水八幡神社

 同様の句が箱根湯本の正眼寺にある。

   ”「山路來て 何やらゆかし すみれ草” 
   (やまじきて なにやらゆかし すみれそう)

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しだれ栗(しだれ栗森林公園:塩嶺王城公園)

枝垂れ栗

岡谷から旧中山道を2キロ(40分)歩き”三沢の一里塚”へ、そして1.5キロ(25分)行くと”宿返し”、 1.7キロ(30分)で三沢峠を歩き説明板の所へ、さらに1.7キロ(30分)”楡沢の一里塚”へ、その途中に ”しだれ栗”の自生している公園がある。残り3キロ(60分弱)歩いたところに小野宿がある (岡谷から10キロの所)。ここJR小野駅から引き返してもよいがその先牛首峠を通って 国道19号線(中山道)をくだってもいい。また、国道から塩尻方面へ2キロぐらいの所にJR日出塩駅がある。 それでは、中山道19号線をもう少しくだってみよう。4キロの所にJR贄川駅(贄川の関所)、 そこから4キロの所にJR木曽平川駅、その先2キロ先には奈良井木曽の大橋(奈良井宿)がある。
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贄川の関所(にえかわのせきしょ)

贄川関所


贄川宿は中山道の33番目の宿場町(中仙道69次)で、 番所は贄川宿の北の入口を明治の初めまで監視をしていた。 この関所の中には、当時の資料などが展示されている。

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芭蕉句碑(楢川支所の駐車場)

楢川支所


国道19号線(中山道)から少し旧道に入った所に楢川支所がある。この支所の駐車場の右側に 芭蕉の句碑がある。

   ”送られつ をくりつはては 木曽の秋”  

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丸山公園の芭蕉句碑(鳥居峠)

丸山公園の芭蕉句碑(鳥居峠)


国道19号線(中山道)の難所である鳥居峠の丸山公園へようやくたどり着いた。 初めは、薮原駅からの入山ルートが分らず断念。 二度目は、クマよけの鐘までたどり着いたが残雪が多く断念。 そして、今回ようやく芭蕉の句碑を撮ることができた。新しい説明板の内容で 、ここには芭蕉句碑が二つあることが分かった。

   ”木曽の栃 うき世の人の 土産かな”  

藪原駅側からの 地図の表示


丸山公園の芭蕉句碑(雲雀の句)

丸山公園の芭蕉句碑(その2)


 丸山公園の説明板から「木曽の栃うき世の人の土産かな」の句碑の裏面に 「雲雀の句はこの峠で詠まれたものではないので、この栃の句に建て替えた」 ということが刻まれている。この碑はいつだれが建立したか不明。句の上部に 「はせを翁」(芭蕉翁)とある。

   ”雲雀より うへにやすろう 嶺かな”  

奈良井宿側からの 地図の表示


薮原神社の芭蕉句碑

薮原神社


JRの薮原駅近くに薮原神社がある。鳥居をくぐり参道を20メートルぐらい 進んだ所に芭蕉の句碑がある。句碑の場所を訪ねたら、十数メートルの 所だったが案内してくれた。

   ”杜かげや われらもきくや ほととぎす”  

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木曽福島警察署前の芭蕉句碑

木曽福島


国道19号線をくだっていくと福島トンネルにさしかかる。トンネル手前の警察署前あたりの国道の 左側に芭蕉の句碑が忘れられたようにある。

   ”思い立つ 木曽や四月の桜狩り”  

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かけはし橋の芭蕉句碑

かけはし橋


木曽川沿いに端っている国道19号線から”かけはし橋”を渡った所の両側に芭蕉の句碑がある。 「この碑は木曽の大官山村風兆の命により美濃の俳人友庄坊が文政12年に再建したもの。 対岸の中山道端にあったのを道路改修に伴って移転した。台は慶安の石垣石」と説明板に記されている。 現在でも、19号線の道路の下にその石組の面影をみることができる。

   ”かけはしや 命をからむ 蔦かつ羅”  

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寝覚ノ床

寝覚ノ床


木曾ダムができる以前は、非常に急流であったため屏風岩など様々な奇岩があり、 景勝地として知られている。

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臨川寺の芭蕉句碑

臨川寺


 寝覚ノ床を見下ろすように臨川寺がある。ここに芭蕉の句碑がある。

   ”ひる顔に ひる寝せふも 床の山 ”

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落合石畳

落合石畳


馬籠宿と落合宿の間に当時の状態を偲ばせる石畳を観ることができる。

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新茶屋

新茶屋


この辺りの地名を「新茶屋」と言う。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を「立場茶屋」と言った。 かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりごろに 現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。 (説明板より)

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一里塚

一里塚


街道の両側に「一里塚」が昔の姿で残っている。江戸幕府は街道整備の 一環として一里を三六町と定め一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、 塚の上には榎または松を植えて、旅の工程や駄賃・運賃の目安とした。 現在中山道では殆どが失われており貴重な遺構である。 (説明板より)



「是より北 木曽路」の碑

「是より北 木曽路」の碑


ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入り口にもあたる。昭和15年(1940)7月、 当寺68才だった藤村が、地元の要請によって揮毫(きごう)したものである。この碑は藤村記念館の 落成10周年を記念して、昭和32年(1957)11月に「ふるさと友の会」によって建立された。 (説明板より抜粋)



新茶屋の芭蕉句碑

新茶屋の芭蕉句碑


芭蕉が門人の越人を伴って、信州姨捨の月見と善光寺参りを兼ねて 中山道を旅したのは貞享5年(1688)のことであった。その旅を「更科紀行」 として世に出した。

   ”送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)” 

この碑が建てられたのは天保13年(1842)のことで、このころ 岐阜県の美濃地方には芭蕉を祖とする「美濃派」の俳人が多くいて これらの人々によって芭蕉の供養として建てられた。 (説明板より抜粋)



医王寺の芭蕉句碑

医王寺の芭蕉句碑


中山薬師として昔から信仰を集めている。日本三大薬師(御嵩の蟹薬師、三河の鳳来寺) の一つでもある。この寺には立派な枝垂れ桜もある。芭蕉句碑は本堂左側にあり、 真中から読みなさいと説明された。

   ”梅が香に のっと日の出る 山路かな”    

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旭ヶ丘天満宮

旭ヶ丘天満宮


 岐阜県中津川の旭ヶ丘天満宮の隣に公園がある。 そこへ行く途中に「すみれ塚」があり芭蕉の句碑がある。(マップコード#178 286 637)

   ”山路来て 何や羅遊かし 寿み連草”    

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尾州白木改番所跡

尾州白木改番所跡


 天明2年(1782)に建てられ明治4年(1871)に廃止された。 ここに、基礎から伐採された材木を監視する番所が設けられていた。 白木とは、檜(ひのき)など木の皮を削った木地のままの木材 のことで、尾張藩の領外への搬出を厳しく取り締まっていた。

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西行苑(西行塚)

西行苑(西行塚)


 西行苑は、平安時代末の高名な歌人西行(法名円位、 俗名佐藤義清1118−1190)を偲んで整備された公園である。 ここには西行が葬られたという岐阜県指定史跡西行塚 (五輪塔)や西行の歌碑、芭蕉の句碑が並んでいる。
定説では、諸国を行脚した西行は、晩年に河内国(大阪府)弘川寺 に身を寄せ、文治6年2月16日(1190)に亡くなったと言われている。
 しかし、全国には様々な形で西行の伝説が残されており、 その終焉の地しても十を下らない数の場所が知られている。 この恵那市においても古くから西行の伝説がいくつか知られている。 その伝説の一つによれば、西行は、諸国行脚の途中、この地に立ち寄り 竹林庵を結び3年暮らしたという。西行は、そこで自分の死期を悟り 、自分が死んだらその遺骸をこの中野坂に埋葬するように村の人に頼んだ。 そして、建久9年2月14日(1194)に亡くなり、村人たちは 遺言通りに中野坂の傍らに西行を埋葬し、五輪塔を立てた。 (説明板より)
(マップコード#178 092 570)



西行塚の芭蕉句碑

西行塚の芭蕉句碑


 西行塚へ向かう入り口の右側に芭蕉句碑がある。

   ”西行も わらじもかかれ 松の露”



祐泉寺の芭蕉句碑(大田宿)

祐泉寺の芭蕉句碑


 大田宿の龍興山祐泉禅寺の境内右側に芭蕉の句碑がある。

   ”春なれや 名も無き山の 朝かすみ”

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町屋館の芭蕉句碑(鵜沼宿)

町屋館の芭蕉句碑(鵜沼宿)


 貞享2年(1685)「野ざらし紀行」途中の芭蕉は鵜沼を訪れ脇本陣 坂井家に滞在したと伝えられている。その後、貞享5年(1688)7月頃 芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、

   ”汲溜の 水泡たつや 蝉の声”

の句を詠み、さらに同年八月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で 菊花酒のもてなしを受けた折りには、主人の求めに応じて楠の 化石に速攻の句を彫ったと伝えられている。

   ”ふく志るも 喰へは喰せよ きく乃酒”

その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立った・・・ (説明板より)

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垂井の泉と大ケヤキ

垂井の泉と大ケヤキ


 この泉は、県指定の天然記念物である。大ケヤキの根元から湧き出し、 「垂井」の地名の起こりとされている。「続日本紀」天平12年(740) 12月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」 もこの場所と考えられており、古くから由緒がある。近隣の住民たちに 親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、 はやく藤原隆経は

   ”昔見し たる井のみずはかはらねど  
            うつれる影ぞ 年をへにける” 
                       『詞花集』     (説明板より)

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歌枕垂井の泉の芭蕉句碑

歌枕垂井の泉の芭蕉句碑


 大ケヤキの下に泉、そして泉のほとりに芭蕉句碑…とっても素晴らしい環境です。  

   ”葱白く 洗ひあげたる 寒さかな”



瑞光寺の芭蕉句碑

瑞光寺の芭蕉句碑


 多くの碑に囲まれてとても気持ちのよい環境です。  

   ”旅人と 我名呼れん 初時雨”

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不破の関跡の芭蕉句碑

不破の関跡の芭蕉句碑


 関藤川より大木戸坂を登り切った当たりの一帯が、関守の屋敷跡です。  関守は延暦8年(789)の関の停廃以後に任命されたと考えられます。  関守宿舎は関庁跡推定地の西南隅に東山道を挟んで位置する、 段丘際の眺望の良い所にあり、格好な地にあったといえましょう。 (説明板より)

   ”秋風や 薮も畠も 不破の関”

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長久寺町の芭蕉句碑(今須宿)

長久寺町の芭蕉句碑


 近江と美濃の国境付近(今須宿)に野ざらし紀行の帰りに、 詠んだ句が並んでいる。

   ”正月も 美濃と近江や 閏月” 

   ”年暮ぬ 笠着て草鞋 はきながら”

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八幡神社の芭蕉句碑(柏原宿)

八幡神社の芭蕉句碑


 芭蕉は、元禄2年(1689)敦賀から「奥の細道」結びの地大垣へ、 伊吹山を左手に見ながら北国脇往還(福井県の今庄で北陸街道から別れ、 木ノ本を通って小谷宿、春照宿を通って中山道へ関ヶ原、垂井、大垣へ抜ける街道) を歩いた。 そのあと、大垣の門人高岡斜嶺亭の句会でこの句を残している。

   戸を開けはにしに
   山有いふきといふ花にも
   よらす雪にもよらす只
   これ孤山の徳あり

   ”其のまゝよ 月もたのまし 伊吹山” 

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原八幡神社の芭蕉句碑(ひるね塚)

原八幡神社の芭蕉句碑


 中山道を往来する旅人が夏の暑い日にこの涼しい境内地で昼寝などしている 、つかのまの休憩をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたもの と思われます。 (説明板より)

   ”ひるがおに 昼寝せうも 床の山” 

   

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大堀町の芭蕉句碑(床の山)

大堀町の芭蕉句碑(床の山)


 芭蕉は、彦根から岐阜への途中(床の山)で門人の季由あてに、 寄って昼寝でもしたいのだが会わずに行く。心残りを「床の山」に託して、

   ”ひるがおに 昼寝せうも 床の山” 

を送った。
「床の山」については、原町の地か、それとも大堀町の鳥籠(とこ)の山 かはさだかでない・・・   



高宮神社の芭蕉句碑

高宮神社の芭蕉句碑


 この句は元禄4年、芭蕉が48歳冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭 の兄弟 此筋・文鳥の家に泊まって詠んだ句。句碑の裏に建立年 「嘉永3年、庚戌林鐘」とあり、その下方に45名の名前が刻されている。 嘉永3年は1850年で林鐘は陰暦6月の異称。筆跡は桜井梅室。地元の俳人 がこの句を神門前左側(現在の祓所)に建立したもので、現在はこの庭園内に 移設されている。

   ”をりをりに 息吹を見てや 冬篭り” 

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紙子塚(高宮宿)

紙子塚(高宮宿)


  貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家3代目の許しで一泊した芭蕉は、 自分が横になっている姿を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、 小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に送り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて 「紙子塚」と名づけた。 (説明板より)

   ”たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子” 



多賀大社の大鳥居

多賀大社の大鳥居


 中山道と多賀みちの分岐点に立つこの鳥居は、多賀大社一位の鳥居で、 寛永12年(1635)に建立されたもの。柱間は約8メートル、高さは約11メートルあり、 県の文化財産に指定されている。鳥居建立工事は多賀町四手の山中から 花崗岩を切り出し、足場は妙蓮寺の裏辺りから階段式に高く土嚢を築いたといはれている。  (説明板より)





多賀大社常夜燈

多賀大社常夜燈


 多賀大社の大鳥居から東へ3.5qの多賀神社までの、参詣道(多賀道) の両側に約1.6メートルの四角柱のご神燈(常夜燈)が、一丁(約100メートル) ごとに建立され参詣者の道案内をしたのである。このご神燈は、 寄進によって建ったもので、寄進者及び寄進の年月が刻まれている。   (説明板より)





十輪院の芭蕉句碑

十輪院の芭蕉句碑


 野州晒は、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていた。その一工程に 川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬に冷たい川に 入って布をつくのは、晒しの仕事の中で最も重労働であり、その苦労がしのばれる。 (説明板より)

   ”野州川や 身ハ安からぬ さらしうす”

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大宝神社の芭蕉句碑

大宝神社の芭蕉句碑


 この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄3年(1690) 頃、関東、北陸方面に旅した帰りに綣村の立場に足をとどめ 旅の余韻 と惜春の情を託して詠まれた句と云われています。 (説明板より)

   ”へそむらの まだ麦青し 春のくれ”

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戒琳庵の芭蕉句碑

戒琳庵の芭蕉句碑

  元禄3年(1690)芭蕉47歳の正月に門弟、浜田珍碩ちんせき洒落堂しゃらくどうの跡という戒琳庵かいりんあん を訪れ、「洒落堂記」を書いている。そして4月には、 幻住庵 にて「幻住庵記」を書いている。

   ”木のもとに 汁もなますも 桜かな”

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