芭蕉句碑を求めて(東海道)

芭蕉句碑を求めて(東海道)

 芭蕉は、郷里の伊賀上野へ何度か東海道を利用している。 今回、芭蕉の歩いた東海道の句碑を探しながら歩いてみた。 その初めの句碑が品川の泊舩寺である。

芦ノ湖


金谷坂の石畳


岡崎城


箱根旧街道


品川・泊舩寺

泊舩寺

 泊舩寺には、芭蕉100回忌、 150回忌に次のような句碑を建立している。 前面に「芭蕉像安置」の碑の裏面には、

    ”旅人と 我名呼ばれん 初時雨” 



泊舩寺



 本堂の左側には大きな句碑、

    ”いかめしき 音やあられの 檜笠” 



泊舩寺

そして、谷口楼川(もくせいあん木犀庵)句碑

    ”はせをの前に芭蕉なく芭蕉の後にはせをなし”

また、泊舩寺の’夜泣き芭蕉’40p弱の芭蕉座像の昔話もある。
 (Map-Code# 374 344)



川崎・八丁畷

川崎・八丁畷

 松尾芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵(いおり)をたち、 郷里、伊賀(現在の三重県)へ帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの 差別の思いをこの句碑にある  

   ”麦の穂をたよりにつかむ別れかな”  

の句にたくしました。 ・・・(説明板より)
(Map-Code# 68 434)
川崎・八丁畷
京浜急行「八丁畷駅」から品川方面に 50メートルほど戻った所にある。 




鶴見・東福寺前

鶴見・東福寺前

   ”観音の甍見やりつ花の雲” 芭蕉翁 

(Map-Code# 8 890 835)


東福寺山門
 東福寺山門


小田原・山角天神社(やまかくてんじんしゃ)

小田原・山角天神社

 この碑は文政3年(1820)に建てられたもので、 天神社は梅花に緑のあるところから、芭蕉の作品からこの句を選んで 建碑したものである。
小田原市内には芭蕉の句碑は各所にあるが、その中でこの句は 秀作として知られている。

   ”有米家可耳乃都登日能伝る山路閑難”

   (うめかかにのつと日の出る山路かな)  

(Map-Code# 57 288 347)



小田原・山角天神社

  山角天神社には、写真のように「通りゃんせ」の碑もあり、 こじんまりとした所であるが、つかのまの時を過ごした。


箱根湯本・正眼寺(しょうげんじ)

箱根湯本・正眼寺(しょうげんじ)

  蘇我兄弟の伝説を伝える古刹である。創建は明らかではないが、鎌倉時代、 箱根地方に広がった地蔵信仰の中から生まれた寺であることは確かなようである。 ・・・(説明板より)
 正眼寺の境内に説明板があり、標記の句碑の位置が大体判る。

   ”山路来てなにやらゆかし菫草”

(Map-Code# 57 222 011)


沼津・日枝神社

沼津・日枝神社

  長月の末都を立て、初冬のみそかちか 
  きほど、沼津に至る。旅館のあるじ所
  望によりて、風流捨がたく筆を走らす

   ”都出て神も旅寝の日数哉”

(Map-Code# 50 044 679)


三島・伊豆魂神社

三島・伊豆魂神社

   ”どむみりと 棟や雨の 花曇り”

棟とは(せんだん)の事で元禄7年(1694)5月14日三嶋明神 に参拝した芭蕉は雨空に神池の辺りせんだんの花の群を仰いで 江戸に残した病床の妻「すて」の身を案じて詠んだ句である
   説明板より

(Map-Code# 50 140 261)


三島・蓮馨寺

三島・蓮馨寺

「芭蕉老翁墓」と刻まれている墓の左側面に、次の句が書かれている。   

   ”いさともに穂麦くらはん草枕 ”

(Map-Code# 50 109 893)


清水・鉄舟寺(てっしゅうじ)

清水・鉄舟寺

 鉄舟寺の山門の左側から墓への路を通り、312段の石段を登り切った所に 観音堂があり、その前に   

   ”雲霧の暫時百景を尽くしけり ”

の句碑がある。

(Map-Code# 25 568 641)

清水・福厳寺(ふくごんじ)

清水・福厳寺

 現代風の寺の境内に   

   ”今朝ちりし甲斐の落葉や田子の浦 ”

の句碑がある。

(Map-Code# 25 628 410)

静岡・瑞龍寺

瑞龍寺

 時雨塚(しぐれ塚)
芭蕉翁の   

   ”今日ばかり 人も年よれ 初しぐれ ”

の句
芭蕉俳青居士 元禄7年10月12日ともとは彫ってあったという
碑は昔、市内安東の長安寺に在ったが廃寺となったので明治12年 頃、材木町の大村青渓氏がこの寺に移した。 (Map-Code# 25 525 695)

瑞龍寺(旭姫)

 瑞龍寺には徳川家康の正室(豊臣秀吉公の妹) の墓(旭姫(あさひひめ の墓 )がある。 今年は家康の没後400年といわれている。 春になったら、ここも多くの参拝者が見えることでしょう。   


山中新田・富士見平

富士見平

 山中城址から旧東海道を下り富士見平に出る。この日も、 雲がかかっていて富士を見ることができなかった。

   ”霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き ” 芭蕉

(Map-Code#50 238 566)

富士市交流プラザ

富士市交流プラザ

 富士市交流プラザ前の平垣公園からプラザへの建屋に向かう 植え込みに

   ”ひと尾根は しくるる雲か 不二の雪” 芭蕉

また、句碑の5〜6m離れた所に「野ざらし紀行」の 一節が記された二つの碑がある。 (Map-Code#72 258 068)

丁字屋ちょうじや (丸子宿)

丁字屋(丸子宿)

 円形の句碑は奥の細道の句碑を含めても2〜3個しかないと思う。 珍しい句碑を見た。

   ”梅わかな丸子の宿の登路ゝ(とろろ汁 ”

(Map-Code# 25 400 568)

丁字屋



 ここでは、今でもとろろ汁が食べられる。 昔ながらの佇まいの中は囲炉裏など懐かしさを感じさせてくれる。


慶龍寺(宇津山慶龍寺)

慶龍寺(宇津山慶龍寺)

 許六(きょりくは森川氏彦根藩士で蕉門十哲の一人で、この句は元禄5年8月9日 許六が芭蕉に入門の折、師から自分の詩心を探り当てられたと激賞された 許六の代表作、十団子は宇津谷の名物、ただでさえ小さいのに、折からの 秋風にからびて一層小粒になった感じであるとしみじみと秋冷の季節感を とらえた秀吟、表の文字は「芭蕉堂歌仙図」所収の飛冲(許六門)筆を 模刻したものである。

   ”十団子(とうだんごも小粒になりぬ秋の風” 許六

(Map-Code# 25 336 895)

慶龍寺(山門)

 昔、宇津ノ谷峠に旅人を食べてしまう鬼が現れるため、緒人の難を救おう と在原業平(あいはらなるひら) の折願によって地蔵菩薩が旅装にすがたを変えて、宇津ノ谷峠で鬼と対決 した。旅僧は人間の姿に化けて現れた鬼に「すみやかに本体を現わせ」 と言うと、たちまち六メートルの鬼の姿に変身した。「なるほど、お前の 通力はたいしたものだ。今度は、できるだけ小さくなってわしの手のひらに 乗ってみよ」。鬼は「よし」と答えて小さな玉となって旅僧の手のひらに ぴょんと飛び乗った。旅僧はいち早く手に持った杖で、その玉を砕き 「お前はこれで仏になった。これから旅人を苦しめてはならぬぞ」と悟し、 砕かれて十粒になった鬼を飲み込んでしまった。その後、鬼の災いも無く なり、道中守護のために、お団子を数珠の型にして「十団子」を作り、 魔よけとしたもので、それが今も当寺に伝わっているのである。 (説明板より)


島田・如舟邸跡(じょしゅうやしきあと)

島田・如舟邸跡

如舟の    ”やはらかにたけよこtぽしの手作麦”  をうけて   

   ”田植えとゝもにたひの朝起”  はせを

の連句碑がある。

(Map-Code# 83 891 464)

島田駅前の公園

島田駅前の公園

  

   ”宿かりて名を名乗らするしぐれ哉”

の句碑がある。

(Map-Code# 83 891 464)

島田信用金庫本店前

島田信用金庫本店前

するかの国に入て   

   ”するかちやはなたち花もちやのにほひ”   はせを

の句碑がある。

(Map-Code# 83 891 519)

宗長庵趾(そうちょうあんし)

宗長庵趾

 連歌師宗長は1448(文安5)年、駿河国島田に鍛冶職人五条義助 の二男として生まれたといわれています。宗長は宗祇(全国に連歌を広めた 室町時代後期の人)に師事し、連歌を学ぶとともに、駿河国の守護 今川氏に仕えました。また宗祇没後は連歌界の第一人者として、二世花の下 宗匠になり、五十七歳の頃に、丸子宿(現在の静岡市駿河区丸子)吐月峰 へ草庵「柴屋」を営み晩年を過ごした。その後も幾度となく旅に出て、 その生涯の大部分を旅に暮らし、1532(亨禄五)年 85歳で亡くなっています。
 ここには石碑が三基建立されています。右から順番に紹介します。

・宗長句碑 〜遠江国、国(故郷の意)の山ちかき所の千句にこゑ(声)やけふ(今日) はつ蔵(初倉)山のほととぎす〜
・芭蕉翁を慕う漢文碑(釈文省略)
・芭蕉さみだれ古碑(断碑)
〜(さみ)たれの(空)吹きおとせ 大井川〜 
 この場所は、元禄年間(1688〜1704年)に、島田宿の俳人 塚本如舟が、宗長法師の昔に思いを寄せ、如舟所有の土地に宗長庵 (長久庵)を営み、島田宿の雅人たちと諷詠を楽しんでいた所です。 また如舟と交際の深かった松尾芭蕉もここを訪れています。 島田市教育委員会

(Map-Code# 交番の傍)

島田・大井川会所

島田・大井川会所

  

   ”馬方はしらじ時雨の大井川”   

の句碑がある。

(Map-Code# 83 889 361)

大井川公園

大井川公園

 大井川橋東交差点から上流へ100m行った右側の公園内にある。 句碑は、島田駅にある断碑と同じ内容である。   

   ”さみたれの空吹きおとせ大井川”   

の句碑がある。

(Map-Code# 83 888 699)

金谷・長光寺

金谷・長光寺

 道端に咲いていた木槿(むくげの花は、 私の乗っている馬に パクリと食われてしまった。何事が起ったというわけではないが、 ついさっきまで咲いていた花は影も形もない。唐突のようでもあり、 当然のような気もして、なんだか瞬間に幻を見たような思いである。
 ・・・
注 「野ざらし紀行」中の一句である。  説明板より   

   ”道のへの木槿は馬に喰はれけり”   


(Map-Code# 83 825 795)

金谷の石畳(坂上)

金谷坂上

  

   ”馬に寝て残夢月遠し茶の烟”   

野ざらし紀行より
(Map-Code# 83 825 048)

久延寺

久延寺

  

   ”馬に寝て残夢月遠し茶の煙”   


(Map-Code# 83 822 511)

小夜の中山

小夜の中山

  

   ”道のへの木槿むくげは 馬に喰われけり”   


(Map-Code# 83 821 449)

小夜の中山(涼み松)

小夜の中山(涼み松)

  

   ”命なりわずかのかさの下涼み”   


(Map-Code# 83 790 352)

小夜の中山(涼み松の近く)

  

   ”馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり”   


(Map-Code# 83 790 352)

瑞雲山見性寺

瑞雲山見性寺

    

   ”梅が香にのつと日の出る山路かな”   

この句は、日本三大薬師の一つである 医王寺(中山道) にある句と同様のものである。
(Map-Code# 26 207 569)

妙泉寺

妙泉寺

  紫陽花塚あじさいづか   

   ”あぢさゐや藪を小庭のべつ座敷”   

この句は、元禄7年(1694)江戸深川で詠んだ句である。
 また、当寺所蔵の鰐口わにぐち は永享5年(1433)につくられ、 後に半面が慶長2年(1597)に再鋳された珍しいもので、 豊橋市の有形文化財に指定されている。(説明板より抜粋)
(Map-Code# 43 189 419)

西光寺

西光寺

  

   ”ぬれてゆく人もをかしや雨の萩”   

奥にある碑がオリジナルのものである。
(Map-Code# 43 332 251)

湊神明社・築嶋弁天社

湊神明社・築嶋弁天社

 おい小文こぶみ の中で、越人と吉田(渥美半島)の驛にて   

   ”寒けれど二人旅ねそたのもしき”   


(Map-Code# 43 361 224)

聖眼寺(しょうがんじ)

聖眼寺

 聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、 および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石 しるべいしがあり、 当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。     

   「松葉たい て手ぬくひあふる寒さ哉」   

 古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が 愛弟子杜国あいでしとこく の身を案じて渥美郡保美ほみ の里 (現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。
 尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられた といわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。

聖眼寺

 再建松塚は、明和6年に植田古帆こはん 、大木巴牛が発起人となり 、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土をを 譲り受けて再建したもので、句は

   「ごを やいて手拭あふる寒さ哉」

とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井 也有やゆう の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を 建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。
 また、山門前の標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四年甲戌二年 二月十二日東都花傘宜来」とあります。    豊橋教育委員会
(Map-Code# 43 361 669)

伊奈村立場茶屋加藤家跡

伊奈村立場茶屋加藤家跡

 三州烏巣に逢ひ給ひて     

   ”かくさぬぞ宿は菜汁に唐からし”   


(Map-Code# 51 208 426)

国府観音寺(こうかんのん)

国府観音寺

      

   ”紅梅や見ぬ戀作る玉すたれ”   


(Map-Code# 51 294 783)

西明寺(参道の入り口)

西明寺

      

   ”かげろふの我が肩に立紙子哉”   


(Map-Code# 51 324 803)

関川神社

関川神社

      

   ”夏の月御油よりいてゝ赤坂や”   


(Map-Code# 51 382 105)

藤川十王堂

藤川十王堂

      

   ”爰も三河むらさき麦のかきつはた”   


(Map-Code# 51 581 101)

春谷寺

春谷寺

      

   ”みちの邊の木槿は馬に喰れけり”   


(Map-Code# 51 726 577)

龍城神社(たつきじんじゃ)

龍城神社

      

   ”木のもとに汁もなますもさくら哉 ”   


(Map-Code# 51 726 577)

岡崎・安心院

岡崎・安心院

  

   ”都出て神も旅寝の日数哉”   


(Map-Code# 51 695 529)

岡崎・誓願寺十王堂

岡崎・誓願寺十王堂

 この句は、どこで詠まれたのかは定かでない。   

   ”古池や蛙とひ込む水のおと”   


(Map-Code# 51 752 194)

無量寿寺むりょうじゅじ

無量寿寺

 慶雲元年(704)に創建された時は慶雲寺であるが、その後、八橋のこの地に 移され902年に八橋山無量寿寺と改称された。   

   ”かきつばた我に発句のおもひあり”  芭蕉   
   ”麦穂なみよる潤ひの里”         知足  

芭蕉が貞享元年(1684)に「野ざらし紀行」を終え翌年4月上旬木曽路を経て 帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊まり俳筵(はいえん)を開いたときの 作といわれる。
 芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。
碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777) とあり、三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものとされている。(説明板より) (Map-Code# 17 624 463)

知立神社(多宝塔)

知立神社

 嘉祥3年(850)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の 別当寺とし、多宝塔を建立したといわれます。その後天文16年(1547) 兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正6年(1509)再建と 伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。
 相輪先端までの高さは14.5m、屋根は柿葺(こけらぶき、 四隅に宝珠を置きます。これらは明治の廃仏毀釈の際取り外され、神社の 文庫として難を逃れたもので、大正9年(1920)の解体修理の際に 復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は 総持寺にに安置されています。
 和様は基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい 神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。  


知立神社(芭蕉句碑)

 この句は、どこで詠まれたのかは定かでない。   

   ”不断堂川(ふだんたつ  池鯉鮒の宿農( ちりふ   しゅくの  木綿市(もめんいち”   

 元禄5年(1692)秋9月、江戸深川で詠まれた芭蕉の句である。
 木綿市についての資料は乏しいが、江戸で「池付白( いけつきしろ」と呼ばれて好評な 三河木綿の集散地であった賑わいがうかがわれるようである。
 池鯉鮒蕉門の俳人井村祖風が、寛政5年(1793)この句が作られて 百年目に当たったのを記念し、同好の士15名に働きかけて建立されたもので、 その名は碑陰に刻まれている。   

知立神社(石橋)

 この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。 全長6.6m、幅1.4m、水面より高さ1.7mを測る。 石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12pの石の板19枚 が並べられている。
 欄干南側右柱には「享保17年(1732)11月吉日敬白」 と刻まれている。
 『東海道名所図会』には、「石橋は神籬(ひもろぎの 外にあり、池を御手洗という、 片目の魚ありとなん」と書かれている。
 片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったたためとの言い伝えがある。   知立市教育委員会 
(Map-Code# 51 752 194)

高徳院

高徳院

「おくの細道」で金沢のあたりで詠まれた句であり成学寺に 同様の句碑がある。      

   ”あかあかと日はつれなくも秋の風”  芭蕉   

(Map-Code# 17 792 687)

熊野神社

熊野神社

   

   ”花の雲 鐘は上野か 浅草歟”  芭蕉   

(Map-Code# 17 603 384*58)

鳴海・成海神社

成海神社

   

   ”初秋や海も青田の一みどり”   

(Map-Code# 17 879 892)

鳴海・誓願寺

誓願寺

 誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60cmの青石の自然石で、 表面に「芭蕉翁」、裏面に元禄7(1694)甲戌(きのえいぬ)10月12日 と没年月日だけが刻まれている。
 芭蕉が没した翌月の忌日(きにち)、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ 折、如意寺(にょいじ)に建てられたもので、その後、 翁の門人下里知足(しもざとちそく)の菩提寺である当寺に移された。
 芭蕉最古の供養塔で、昭和52年市の史跡に指定。
           名古屋市教育委員会    

(Map-Code# 17 879 892)

誓願寺

 芭蕉堂  

誓願寺

 花が添えられていた。  

鳴海・千句塚公園

千句塚公園

 千鳥塚
 この碑は、貞享4年(1687)冬11月、寺島安信宅での歌仙

   「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」   

の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、 側面に興行の年月が刻んである。これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の 翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。
 昭和52年(1977)名古屋市史跡に指定された。
           名古屋市教育委員会      

(Map-Code#4 024 491)

千句塚公園

 裏面  

鳴海・ 天神社あまつかみしゃ

天神社

     

    ”京まではまだ半空なかぞらや雪の雲”    
    







天神社

     

    ”よき家や雀よろこぶ背戸の粟”   
    







天神社

     

         ”杜若われに發句のおもひあり”       
    







笠覆寺(笠寺観音)

笠覆寺

 多宝塔のうしろの句碑は、
 此御寺の縁起人のかたるを聞侍りて 芭蕉翁    

    ”笠寺やもらぬ岩屋も春の雨”    桃青 
    ”たひねを起す花の鐘楼”      知足 
    ”かさ寺や夕日こほるゝ晴しくれ”   素堂
    ”大悲のこのは鰭となる池”      蝶羽








笠覆寺

 また、本堂の右手にも千鳥塚といわれる句碑がある。    

    ”星崎の闇を見よとや啼く千鳥”  芭蕉翁 

     (Map-Code# 4 052 502)

多度大社

多度大社



    ”宮人よ 我名を散らせ 落葉川”

 この句は
 芭蕉が多度大社に参拝の折に詠める句を 没後75年の正当忌に地元の俳人達より落葉塚として 建立されたものです

(説明板より) (Map-Code#152 750 667)

多度大社

 


桑名別院本統寺

桑名別院本統寺

 当桑名別院本統寺は教如上人の開創にて、開基は同上人の 息女長姫(おさひめ)にして、今を去る382年の慶長元年(1596)の 創立であり同朋の仏法獲得と祖恩報謝の懇念より設立されたもので 爾来伊勢尾張美濃三国に跨がる教化のの中心となり、市民からは 「御坊さん」と呼ばれ親しまれている。境内には俳聖松尾芭蕉が 貞享元年(1684)野ざらし紀行の初旅の折、当寺に一泊した。 その時詠んだ句「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす はせお」の句碑 (冬牡丹句碑)が建てられています。この句碑は昭和43年2月20日 に市の文化財(史跡)に指定されている。 (説明板より)    

    ”冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす” はせお 
    
(Map-Code# 38 833 430)

龍福寺(浜の地蔵)

龍福寺(浜の地蔵)

 通称「浜の地蔵」と呼ばれる高野山真言宗大福田寺の末寺。
 本尊はその昔海中より出現したと言われた地蔵菩薩(お釈迦様の 没後から地蔵菩薩が成道するまでの間の衆生済度をするために 生まれ、人間が地獄で責苦にあうことを救ったり、賽の河原 で児童を助けるので子育地蔵、子安地蔵という名がある。) でありますが、昭和34年の伊勢湾台風により本堂共々流出したまま 不明となっております。
 境内には、松尾芭蕉が野ざらし紀行の折詠んだ句

        ”明けほのやしら魚白き事一寸” 

を刻んだ白魚句碑や白魚塚等六基の碑塔があり、史跡として昭和43年 に市の文化財に指定されております。   (説明板より) (Map-Code#38 774 565)

本願寺(寺跡蔵)

本願寺(寺跡)

 当寺の由来は不詳ですが、古くからの古刹であったと思われます。 境内に俳聖松尾芭蕉のの門人である各務支考(俳号東華坊など) の分骨供養塔がある「梅花仏橋塔」があります。
 支考は蕉門十哲の一人で美濃派の創始者であり、 美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていましたが、支考が 享保16年(1731)美濃国で亡くなると、桑名の美濃派俳階の 指導的立場にあった雲裡坊杉夫は支考の墓に参拝しやすいよう分骨 を受けこの地に鏡塔を建立しました。
 松尾芭蕉の 

        ”今日斗り人も年よれ初時雨” 

……   (説明板より抜粋) (Map-Code#38 802 298)

石薬師寺

桑名別院本統寺

 寺名は本尊石薬師如来をまつることにより。戦国の戦火の あと神戸城主 一柳監物により、寛永六己巳年(1629)再建された。 建物の規模は桁行三間、梁間四間、寄棟造。本瓦葺きで一間の 向排がつく。市内で最古の寺院建築。
広重が東海道五十三次の風景に石薬師全景を描いていることにより 全国に知られている。    

    ”春なれりや名も無き山の薄霞”  
    
(Map-Code# 38 216 365)

常明寺

常明寺

 土山宿は江戸から49番目の宿場町である。土山茶は常明寺を再興した 鈍愚翁禅師が京都の大徳寺から茶の種を持ち帰って植えたのが始まりである。 また、この地は森鴎外の祖父である森白焉の終焉の地でもある。鴎外の祖父は、 津和野藩主の参勤交代の途中、ここ土山で病死した。遺骸は常明寺の墓地に 葬られたが昭和28年に津和野の永明寺へ移された。昭和63年に鴎外の子孫 により常明寺に供養塔を建てた。
 たまたま境内におられた住職さんに芭蕉句碑について字体などの説明を受けた。    

    ”さみだれに鳰のうき巣を見に行かん”  あせを翁  
    
(Map-Code# 38 216 365)

水口・大岡寺

大岡寺

 寺伝によれば、白鳳14年(686)僧行基が諸国行脚に際し、 大岡山の山頂に自彫の十一面千手観音を安置し創建したという。
 その後寺盛大を極め、十六の坊舎を擁していたと伝えられているが、 天正2年(1574)の兵火で、堂宇はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を 残すのみとなった。
 天正13年(1585)に、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を 地頭に移転し、大岡山山頂に城郭を構築したが、落城後享保元年(1716) にいたり、時の住職寂堂法印が再び現在の地に堂宇を再建した。以後、 水口藩主加藤氏歴代の祈願所となった。・・・
当寺には、史跡が多く、鴨長明発心之所であり、巌谷一六の記念碑や 芭蕉の「命二つ中に行きたる 桜かな」の句碑等がある。この句に詠まれた 桜は「大岡寺の桜」として水口八景の一つに数えられている。    (説明板より抜粋)  (Map-Code# 67 171 834)    

    ”いのちふたつ中に活きたるさくらかな”  
                            

石部宿・真明寺

真明寺

     

    ”つつじいけてその陰に干鱈さく女”   
    
(Map-Code# 67 306 800)

西明寺

西明寺

 

   ”ものいへは 唇危寒し 秋の風”
               はせを

1980年(昭和五十五年)五月、美松山人(西照寺住職 源信彦)建立
元禄四年(1691年)芭蕉四十九歳の句

  人の短をいふ事となかれ 
     己が長をとく事なかれ
他人の非をなじったり自分の優れたことなどを
しゃべらないとの意味      

(Map-Code# 67 279 352*43)

南照寺

西明寺

 南照寺  

   ”西行の 庵もあらん 花の庭 ”
            はせを
 元禄六年(1693年)芭蕉五十一歳の句

屋敷の庭には大きな桜があり、その見事さは
吉野の山を思い出させる。西行もこんなところに
居を構えていたであろうと想像し、招かれた
人の庭をほめた句      

(Map-Code# 67 279 262*85)

園養寺(おんようじ)

園養寺

 園養寺

   木乃毛登耳
     汁茂膾裳
        桜可那

  “の もとにしるなます桜我さくらかな
句意
 桜の木のもとには、今も昔も多くの人々が桜を 愛でて集う。木の下で酒肴を並べ、花見をして ると、汁にも膾にも花びらがはらはらと散りかか ってくる。
     

(Map-Code# 67 195 440*82)