おくのほそ道ゆかりの地



大神神社(室の八嶋)


 大神神社おおみわじんじゃ は、日本最古の神社である奈良県の大三輪神社 おおみわじんじゃの分霊を祭るため、 建立されたと伝えられている。境内には、下野の名勝地 「室の八嶋むろのやしま」 があり、元禄2年(1689)松尾芭蕉はこの地を訪れ、 「糸遊に結びつきたるけぶりかな」の句を残している。…
環境庁・栃木県  (Map-Code#74 544 277*30)

五左衛門(高野家)

五左衛門(高野家)


旧家高野家は仏の五左衛門の末裔である。高野家の庭に 次の句碑がある。 芭蕉の日光での句は、何回か推敲している。そのうちの一つが次の句である。

  "あらたふと 木の下闇も 日の光"  
 (あらたふと きのしたやみも ひのひかり)



白糸の滝


 最上川沿いの鶴岡街道(国道47号線)は芭蕉たちが行脚した時代 にはなかった。 そのため、乗船の地(本合海)から上陸の地(清川)まで船で行かなけ ればならなかった。途中、急斜面を流れ落ちる白糸の滝がある。 芭蕉たちもこの滝を見ている。  (Map-Code#789 037 391)

長山重行宅跡


 出羽三山を巡拝した芭蕉と曾良たちは元禄2年(1689) 6月10日(今の暦で7月26日)鶴岡城下に住む庄内藩氏、 長山五郎右衛門重行の屋敷に入った。
 芭蕉のここでの発句が「めずらしや 山をいで羽の 初茄子」である。
 芭蕉は、重行宅に3日間滞在し、13日に内川船着場から 酒田へ向かった。
(Map-Code#90 220260)

不玉亭


 元禄2年(1689)の夏、芭蕉と曾良が訪れた 伊藤幻順(俳号不玉)宅跡である。象潟の前後を通じ 9泊した「奥の細道」ゆかりの地である。
(Map-Code#90 880 477)

芭蕉坂


 前泊地の鶴が岡(鶴岡)から川舟で酒田の湊に下り、この坂を通って 酒田での宿泊地である不玉という医師のもとへ行った。 (Map-Code#90 879 772)

むやむやの関

むやむやの関


 むかし、むやむやの関があったというこの難所を元禄2年6月16日に 芭蕉は越えていったのである。 タブの木など生い茂る昼なお暗いこの細道を、病弱の身ながら一歩一歩 踏みしめて行った様子が今も眼前に浮かぶようである。
 象潟の勝景にふれる目的を果たした芭蕉が再び酒田へ帰るために此処を 通ったのは2日後の18日であった。この日は快晴で、東には鳥海山 がその美しい姿を見せ、西には快い海風吹く日であったという。
(Map-Code#352 705 818)

山中温泉(芭蕉の館)

山中温泉(芭蕉の館)


 後世 この俳文を「温泉頌」(おんせんしょう)と呼ぶようになったが、 山中温泉8泊の間に芭蕉が、ここ泉屋に書き残したものである。 「頌」は「たたえる」ことであるが、山中温泉をこれほどにたたえた詩人 、俳人いただろうか。芭蕉の筆跡とともに鑑賞したいものである。 (Map-Code#899 570 156)

大智院(長島)

大智院(長島)


山中温泉 にて、
… 曾良そらは 腹を みて、 伊勢いせの国 長島ながしまといふ所にゆかりあれば、 先立さきだちて行くに、

  "行き行きて たふれ伏とも 萩の原"   曾良そら
  (ゆきゆきて たふれふすとも はぎのはら)

かき おきたり。行くものの悲しみ、 のこるもののうらみ、 隻鳧せきふのわかれて くもにまよふがごとし。 予もまた、

  "今日よりや 書付消さん 笠の露"
  (けふよりや かきつけけさん かさのつゆ)

…と、記されています。
其の、長島のゆかりとは、当院長松山大智院であり、第四世住職法印良成(曽良の叔父) のことです。    

大智院(長島)


曽良の「奥の細道随行日記」に、 元禄2年8月5日に山中温泉泉屋で芭蕉と別れ、15日に当院に着き休養を取り、 9月2日に芭蕉を出迎えに大垣へ出掛け、6日に翁とともに大智院に来り逗留し、 ここから、伊勢神宮ご遷宮参拝のため出立されています。 その折、書きのこされた芭蕉の挨拶句が、

   "うきわれを さびしがらせよ 秋の寺"

この句は、のち元禄4年『嵯峨日記』に、 「秋の寺」を「かんこどり」と改めて

   "うきわれを さびしがらせよ かんこどり"

と、推敲されています。  

影沼(鏡沼跡)

影沼(鏡沼跡)


 この地は一種の蜃気楼現象が現れ、道行く人が水中を歩く如く見ゆることで有名であった。

影沼(鏡沼跡)

奥の細道へ


浅香山(安積山)

浅香山(安積山)

 元禄二年(1689年)五月朔日 天気快晴 日出ノ比

宿(郡山)ヲ出 壱里半来テ ヒハダ(日和田)ノ宿

馬次也 町はづれ五六丁程過テ あさか山有

壱リ塚ノキハ也 右ノ方ニ有小山也

アサカノ沼 左ノ方谷也 皆田ニ成 沼モ少残ル

惣テソノ辺山ヨリ水出ル故 いづれの谷にも田有

いにしへ皆沼ナラント思也

                 曽良 旅日記より




浅香山(安積山)



浅香山(芭蕉の小径)

  奥の細道へ


庄司戻しの桜(霊桜碑)

庄司戻しの桜(霊桜碑)

 治承四年(1180)、源頼朝の挙兵を知り 奥州平泉から鎌倉に馳せる源義経に対し、 信夫の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、 決別するにあたり「汝ら忠義の士たらばこの桜の杖が生きづくであろう。」と諭して 携えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。 この後、戦いに臨み兄弟ともに勇戦し、義経の身代わりになって討死した。
 桜はその忠節に感じて活着し繁茂したという。 後の天保年間(1830〜44)野火によって焼失した後も、 新しい芽が次々と出て、美しい花を咲かせるという。 「お前たちが忠義をつくしたならこの桜の杖が根付くであろう」 と言い、携えていた一本の桜の杖をこの地に立てました。 この主君に対する忠義のため、桜は根付き見事な花を咲かせたと伝えられています。 また、芭蕉もこの桜を見てから関山に向かったと想定されています。

そばの花

 霊桜碑の後ろには、あたり一面そばの花で埋め尽くされていた。 朝方の幻想的な絵になった。